「中野さん、あなたの体の状態では、中絶手術はできません」
運命を左右するその診断書を受け取った瞬間、中野綾乃はよろめきながら病院を飛び出した。
彼女が駆け込んだ先は、廃墟と化した屋外遊園地だった。
雑草が生い茂り、苔むした錆びついた古い船の模型がひとつ、ぽつんと立っている。
綾乃は何もかも忘れて走り続けた。途中で靴が脱げても構わず、素足のまま尖った石を踏みしめ、泥と血で白い肌はすぐに汚れていく。
眩しい太陽が目の前に広がっているはずなのに、彼女の世界には永遠の闇しかなかった。
背後から追いかけてくる足音が、だんだん近づいてくる。
綾乃は手探りで船の中に潜り込み、隅で小さく体を丸めた。震える体を両腕で抱きしめる。
薄手の白いワンピースは、あざだらけの太ももをなんとか隠している。目には真っ白な絹の布が巻かれていた。
今にも風に吹き飛ばされそうな、細い蔓のように弱々しい姿だった。
「どこに隠れたの、あの目の見えない女?」
男女ふたりが息を切らしながら中へ入ってくる。辺りを見回す。
鈴木成美は鈴木悠太の腕にしがみつき、泥だらけのヒールを見て顔をしかめた。
「最悪、こんな汚い場所……」
「お前がしっかり見張ってなかったからだろ?」
鈴木悠太は眉をひそめ、死んだように静かな遊園地を見渡す。そして数秒後、なだめるような声を張り上げた。
「綾乃、もうやめよう? 出ておいで。家に連れて帰るから」
……
「これはすごいチャンスだぞ? あの黒川家の御曹司の子だぞ! あんたがお腹にその子を宿してるなら、こっちの人生はもう安泰だ。いい子だから、出ておいで。お腹に気をつけて、もう二度と手をあげたりしないと誓うから」
その声を聞いた瞬間、綾乃の心は氷のように冷たくなり、絶望が骨の髄まで染みわたった。
十五歳で家が倒産し、すぐに大火事がすべてを焼き尽くした。その夜、彼女は二度と光を失った。
それから、執事の鈴木洋平の家に身を寄せて、五年が過ぎた。
昨年、洋平の一人息子・悠太が留学から帰ってきてからは、何かと優しくしてくるようになった。
それを生きる支えと信じ、心を開きかけたとき、彼は突然態度を変え、財産が残っていないかとしつこく問い詰めてきた。
綾乃に一切の財産がないと分かると、悠太は暴力を振るい、さらには成美と目の前でいちゃつく始末だった。
ふたりは次第にエスカレートし、高利貸しから金を借りてギャンブルで全てを失うと、借金のカタに綾乃を差し出そうとまで考えた。
きらびやかなクラブで、黒川財団の御曹司・黒川真太を見かけた瞬間、ふたりは考えを変える。もっと大きな金を狙おうと、綾乃を無理やり真太の部屋に押し込んだ。
あの、甘い香りの漂う部屋で――
だが、黒川真太とは、港区で誰もが恐れる黒川家の跡取り、死神さえも避ける男。
彼は綾乃をものにし、金をせびりに来た悠太と成美をボディガードに叩きのめさせて、平然と立ち去った。
結局、すべての怒りは綾乃に向けられた。
彼女は悠太に何度も殴られ、寝たきりの生活が一か月近く続いた。
やがて突然の吐き気と月経の遅れで、成美と悠太は何かを悟り、病院に彼女を連れてきたのだった。
綾乃にはふたりの思惑が手に取るように分かる。お腹の子を使って、もう一度黒川真太から金を巻き上げるつもりなのだ。
彼女は逃げなければならない。このふたりの悪魔から、どうしても逃げ出さなくては。
もし今日、捕まれば、盲目の自分に未来はない。
枯れ葉を踏む音が、綾乃の耳に鋭く響いた。それは悠太と成美の足音ではない……ほかにも誰かいるのか?
彼女は手の甲を噛み、息を殺した。
足音が、じりじりと近づいてくる。
死へのカウントダウンのように。
息が詰まりそうなほど、空気が重くなる。
その時、足音が止まった。ふっと涼やかな木の香りが鼻先をかすめ、見えない圧力が波のように押し寄せてきた。
男の低く冷たい声が、頭上から落ちてくる。
「中野さん。お腹の子、誰のものだ?」
この声――
間違いない、あの人だ!
あの夜の、混乱した光景が一瞬で蘇る。
密室に満ちる圧迫感、服を裂かれる音。
彼は闇に潜む獣のように、全てを貪り尽くした。
重い息遣いの中、綾乃の世界は音を立てて崩れ去った。
思い出しただけで、綾乃の顔は青ざめ、逃げようと体をよじる。だが、男の大きな手が手首をがっしりと掴んだ。
……
悠太と成美の姿は、もうどこにもなかった。
綾乃は乱暴にリムジンに押し込まれ、革張りのシートに突き飛ばされる。両脇にはボディガードがいて、腕をしっかりと押さえ込まれていた。
見慣れぬ空間に、不安が一層膨らむ。誰も口を利かず、時間が静かに過ぎていく。張りつめた神経が、恐怖で今にも切れそうだった。
息をひそめ、額から冷や汗が伝う。
突然、誰かが彼女の足を掴んだ。
「触らないで――!」
綾乃は思わず叫んだ。