「やめて、夫がやっと寝たばかりなの。」
嵐山の別邸。夜の闇は墨のように重く、溶けそうになかった。
藤原結衣は唇を強く噛みしめ、緊張した視線でベッドに眠る男を一瞥した。拒絶の色が微かに滲む声で、目の前の男に首を振る。
水島健一は口元に皮肉げな笑みを浮かべ、暗がりの中で鋭い眼差しを向けてきた。「藤原結衣、そんな芝居はやめろよ。」
「お前が欲しいものなんて、分かってるんだろ?」
月明かりが斜めに差し込み、藤原結衣の上で白磁のような輝きを放つ。
彼女の素顔は月光に照らされて透き通るように白く、潤んだ瞳には一瞬の迷いが浮かぶ。数秒の沈黙の後、彼女は小さく頷いた。「分かった。でも今回だけ、これが最後。」
水島の目が鋭くなる。「外に行こう。」
「うん。」
嵐山の別邸は京都でも一番高台にあり、そこから町の灯りが一望できる。周囲の深い森が自然の壁のように静けさを守っていた。
――一時間後。
水島健一は無造作に煙草を咥え、長い指でティッシュを引き抜いて、ゆっくりと汚れを拭き取る。
「なあ、結衣。いっそ離婚して、俺と一緒に暮らさないか?」
彼の冗談めいた口調を結衣は無視し、目の前のバイクに集中していた。結婚してから、こんなに手に馴染む大型バイクを触るのは本当に久しぶりだった。
工具箱を片付けながら、手袋を外して真剣な声で言う。「オイルに火がついたら、爆発するよ。」
「……マジかよ!」
水島の手からライターが「カチッ」と落ちた。
夜風が草木の香りを運び、地面に落ちた二人の影は月の下で長く絡み合っていた。水島はその影を眺めながら、からかうように言う。「結衣、俺たちってまるで不倫してるみたいに見えないか?」
結衣は顔も上げずにレンチを器用に回す。「全然。不倫だったら、あんたのバイクをタダで直さなきゃいけないでしょ。損するだけ。今回が最後よ。」
「何だよ、森川にバレるのが怖いのか? 旦那に隠れて幼なじみに会ってるって?」
水島は鼻で笑い、皮肉を深めた。
「違うよ。」結衣は工具を箱に戻し、淡々と言う。「もしバレても、彼は気にしない。」
「そりゃ、気にしないさ。」
水島の笑いは意地悪さを増した。「早川理恵って知ってるだろ? 森川の初恋相手。帰国したばかりで、悠介は彼女の研究所に投資までしてる。二人の噂話、今じゃ業界中の話題だ。」
「知ってる。」
結衣はずっと分かっていた。夫の心の中には“特別な人”がいると。
「でも、毎日彼の顔が見られればそれでいい。」
そう言って微かに目元を緩め、薄く笑う素顔は化粧もしていないのにどこか清らかで美しかった。本当にベッドで眠るあの人を心から愛しているかのように。
水島の笑みが一瞬、凍りついた。
咥えていた煙草もいつの間にか芝生に落ち、フィルターには深い歯形が残っていた。それだけ強く噛みしめていたのだ。
しばらくして、彼は歯の隙間からやっと言葉を絞り出した。「結衣、お前って本当にすごいな。」
結衣は無表情のまま工具箱を閉じて立ち上がる。「今回の修理は軽いトラブルだけど、前回の分も合わせて一千万。振込の時は『バイク修理費』って書いておいて。」
水島は絶句した。
しばしの沈黙の後、スマホの通知音が静かに鳴る――彼はきちんと送金していた。
その時、山の下の教会の鐘が十二回鳴り響き、夜の静けさに鐘音が溶けていく。ちょうどその音が、結衣の足を止めさせた。
水島はふいに口元を上げ、ポケットから淡い青色の小箱を取り出して、ふわりと彼女の胸元に投げた。「誕生日おめでとう、結衣。」
その言葉の直後、夜空に「ドン」と最初の花火が上がった。次々に色とりどりの光が夜空を彩り、眩いほどの華やかさだった。
花火の明かりに照らされ、水島の顔立ちは一層鮮やかで、深みがあって、頭上の花火よりも輝いて見えた。
結衣は一瞬、呆然とした。
彼女の誕生日は七夕で、覚えやすい日なのに、気にかけてくれる人はほとんどいなかった。
もし水島が自分に近づいたのが早川理恵のため――
彼女を陥れて理恵のために道を空けさせようとしているのを知らなければ、この場面も“ロマンチック”と呼べたかもしれない。
「開けてみろよ。」男の低い声が頭上から降りてくる。
結衣は箱を開けた。
中にはサファイアのネックレスが入っていた。淡い輝きが目を奪う。
京都では有名な話だ。最近、水島家の跡取りがパリのオークションで、八桁の値でアンティークのサファイアネックレスを落札したという噂は。
結衣はしばらくネックレスを見つめ、やがて箱を静かに閉じて健一に返した。「ありがとう。でも高すぎるわ。持って帰って。」
水島の表情が一気に険しくなる。「気に入らないなら捨てればいい。」
「俺があげたものは、返してもらったことなんて一度もない。」
結衣はそれ以上、返すとは言わなかった。ただ淡々と、「もう遅いから、先に戻るね。」
水島は唇を上げたまま「分かった。おやすみ。」と返す。
彼はバイクに寄りかかり、ポケットに手を突っ込んで結衣の去る背中を眺めていた。唇には、まるで何もかも手に入れたような笑みが浮かんでいる。
だが、次の瞬間――その笑みは凍りついた。
なぜなら、彼ははっきりと見たのだ。
結衣はあの箱を、何のためらいもなくゴミ箱へと放り込んだ。
夜空の花火がちょうど照らし出す。ゴミ箱には「生ゴミ」の文字。
水島は言葉を失った。
火傷しそうな贈り物を捨てて、結衣は足早に別邸へ戻る。
あのネックレスは偽物、ほとんど価値などない。
本物のアンティークネックレスは、この小説のラスト――
水島が自ら、ヒロインの早川理恵の首にかけて森川悠介との結婚を祝う、あの結婚式の場面で登場するのだ。
森川悠介――彼女の夫であり、この物語の主人公。
一週間前、藤原結衣はとうとう気づいた――
自分は『愛を枝にして』という小説の中で、森川悠介に捨てられる運命の“脇役の妻”なのだと。
この物語は、「貧しい純真な女性が財閥の世界に迷い込んで、その唯一無二の魅力で御曹司たちを惹きつける」という話。
ヒロインの早川理恵は富や名声に興味がなく、海外で研究に没頭。数年後、バラエティ番組をきっかけに“理系の女神”となって一躍有名になる。
誰もが理恵を愛する。
理恵が最も愛しているのは、主人公の森川悠介。
だが森川は、彼女が何も言わずに去ったことで腹を立て、愛していない結衣と結婚してしまう――それが、藤原結衣だった。
小説の中で、結衣は結婚三か月目から急にモテ期が到来する。財閥御曹司の公開告白、年下男子の献身、トップ俳優の授賞式での愛の告白……。
だが本当に離婚した途端、彼らは一斉に姿を消す。
後日“元追っかけ”たちに再会した時には、皆が仮面を剥がし、笑いながら言い放つ。「勘違いするなよ、誰がお前なんか好きになるか」「理恵のために邪魔者を片付けてただけだ」「遊んでやっただけ、理恵と比べるなんておこがましい」
――
結衣が“目覚めた”のは、ちょうど物語の半ば。
ヒロインの早川理恵が帰国し、水島を筆頭にした男たちが“筋書き通り”に彼女にアプローチし始めている。
結衣はそれを黙って受け入れた。
理由は一つ――お金が必要だった。できるだけ多く。
ただし自分なりのルールはある。高価な贈り物は絶対受け取らない。男たちとは、あくまで“業務契約”の範囲でしか関わらない。そして会うたびに、こっそりレコーダーを回す。
――録音の中の彼女は無表情な“森川の妻”で、男たちは一言一句、誘惑や示唆に満ちている。
夜はまだ長い。
今夜、夫は“白い月”の告白で泥酔し、“筋書き”通りに彼女を誘惑しに来るのは、水島だけではないはずだ。
案の定、スマホが震えた。
登録名「バカ2号」からボイスメッセージが届く。甘ったるくわざとらしい声で、少し困ったように囁いた。「お姉ちゃん、胃が痛くてたまらないの。家に来てくれない?」