本邸の広間には、重苦しい沈黙が張り詰め、まるで空気が凍りついたかのような緊張感が漂っていた。
「こんな計算高くて、結婚前に子どもを作るような女、うちの橋本家には絶対に入れません!」
真希の鋭い声が響き渡る。義母である綾香を睨みつけるその目には、怒りの炎が燃えていた。大切な長男が、こんな女に騙されるなんて許せない!
綾香の頭の中は轟音が鳴り響き、目の前がぐるぐると回り、立っているのもやっとだった。よろめきながら壁に寄りかかる。
――私は、死んだはずじゃなかったの?
娘の小学校への送り道、横からの追突事故。後部座席は一瞬で潰れ、意識が遠のく中、頭から温かい血が流れる感覚だけが残っていた……。幸い、娘は先に家を出ていて、同乗していなかった。
――でも、ここは……?
目が眩むような感覚が消え、だんだんと視界がはっきりしてくる。ふと、足元に温かな重みを感じて見下ろすと、幼い子どもがしがみついている。白くてふっくらした小さな手が、彼女の脚にしがみついていた。膝の高さほどしかない小さな身体――どうして……?
「そんな同情を引く芝居、やめて!」ソファから真希が立ち上がり、綾香を指差して叫ぶ。「賢人にはもう連絡しなくていい!こんな腹黒い女、橋本家には絶対に入れさせません!」
「無礼だぞ!」主座に座る宗一郎が、杖をドンと床につき、堂々たる声で制した。「橋本家のことは、君一人が勝手に決めることではない!」
真希はその威厳に思わず身を縮めた。宗一郎には昔から逆らえない。しかし、心の中では納得できない。綾香のような女が一夜の過ちで妊娠し、息子を巻き込んだ――到底許せるものではなかった。最悪でも、子どもだけ引き取れば良いのだと、苛立ちが募る。
隣の夫・弘樹の腕を強くつねり、「あなたも何か言いなさいよ!賢人は私たちの長男、橋本家の長孫なのよ!どうして、どうして……」と詰め寄る。
綾香にはすべてが理解できた。この場面――忘れもしない。五年前、賢人との婚姻届を提出したその日に起きた騒動だった。
――私は死んでいない。五年前に戻ってきたんだ!
彼女は腕の中の千雪をそっと抱き上げた。まだ二歳の、ふっくらとした娘の体温が愛おしい。
「ママ……こわくないよ。」千雪は小さな頭を綾香の首元に預け、甘えるように囁いた。
――この子は、いつもこんなに優しい。
小さな体が震えているのを感じて、綾香はやさしく抱きしめ、「大丈夫、ママがいるからね」とそっと囁いた。
かつての卒業旅行で、横浜のクラブで友人たちと羽目を外し、酔った勢いで見知らぬ男性と一夜を共にした。その後、妊娠が発覚し、相手を気にせず「父親はいらない」と心に決めていた。
だが三年後、横浜のマスコミが彼女を突き止めた。記者たちが家の前に押しかけてきたとき、初めてあの夜の相手が橋本家の現当主・賢人だったことを知る。
世間の圧力で親子鑑定が行われ、宗一郎の一言で、母娘は橋本家に迎え入れられた。そして賢人と婚姻届を提出することになった。
五年前の今日、初めて橋本家の本邸に足を踏み入れた彼女は、圧倒されて怯えてばかりだった。真希の罵声や周囲の冷たい視線に耐え、隣の娘に手を差し伸べる余裕もなかった。
当時、たった二歳の千雪が、こんな敵意むき出しの大人たちの中で、どんなに怖かったか――自分はなんて駄目な母親だったのだろう。
思いを新たにし、綾香は千雪をさらにしっかりと抱き寄せ、静かに守る決意を固めた。
広間には宗一郎が主座に、その両脇には賢人の両親と叔母の和美が控えている。
宗一郎には一男一女しかおらず、長男・賢人の結婚には、若い兄弟たちは口を挟めない。
五年間、綾香は橋本家で数々の難題を真希の代わりに処理してきた。家族それぞれの性格や思惑も、今や手に取るように分かる。
対面の椅子に座る和美に視線を向ける。前世、この叔母が何を言ったか細かくは覚えていないが、兄や義姉を皮肉る機会を決して逃さない人だった。
案の定、和美は楽しげな笑みを浮かべて、「お義姉さんも満足でしょ?高橋さん、あんなに綺麗だし、息子さんが無愛想な木偶の坊でも気にしてないんだから」とからかった。
「ふざけないで!」真希が声を荒げて遮る。
和美は気にも留めず、真希が黙るのが面白くてたまらない様子だ。隣の兄には見向きもしない。
「何がふざけてるの?今どき、こんなに運のいいお義姉さんいないわよ。お嫁さんに、孫娘までできて。長男もやっと独り身卒業ね。」
綾香は思わず笑いそうになった。和美の毒舌は相変わらずだ。
「和美!余計なこと言わないで!孫娘なんていらないのよ、偉そうに祝福なんてしなくて結構!」
実際、真希に孫は不足していない。長男の賢人は三十歳過ぎても独身だったが、下の弟たち、達也と拓真はすでに結婚し子どももいる。今さら現れた孫娘など必要ない、綾香たち親子を追い出したいだけだった。
真希は今度は和美に矛先を向け、玄関口を指差して怒鳴る。「あんたは出て行って!うちの家のことに口を挟むな!」
和美も負けじと指を突き出し、「私が口を出しちゃいけないって?私は橋本和美よ。賢人がいるからお義姉さんって呼んでやってるだけで、まるで自分が主役気取りなんて思わないで!」
この義姉妹の喧嘩は、昔から終わることがなかった。
綾香は想定内の展開に、娘を抱いたまま静かにその場を離れた。小さな子をこんな空気の悪い場所に置いておく必要はない。彼女たちは放っておけばいい。
社長夫人の座は、前世で手に入れたもの。今世で手放すつもりはなかった。五年後、賢人が実業界の頂点に立ったあの日を思い出し、綾香は決意を新たにした。
千雪のために、彼女は戦う。千雪を賢人の遺言で第一順位の相続人にしなければならない。
自分は、富や名誉を求める普通の人間。すでに平凡な生活は壊されてしまった。これほどの財産を前にして、黙っている方が馬鹿だ。
千雪を抱きしめて中庭へ出る。最初は彼女にしがみついていた千雪も、やがて花壇で遊ぶ蝶に目を奪われ、おそるおそる追いかけていく。
「気をつけてね、千雪。転ばないように。」ベンチに腰掛け、綾香は優しい眼差しで揺れる小さな背中を見守る。
中庭の小道は別邸の門へと続いている。宗一郎に呼ばれて帰宅した男が、ゆっくりと本邸へ向かってきていた。
完璧に仕立てられたダークスーツ、きちんと撫でつけた髪、額には自信と厳しさが漂い、凛とした顔立ちが冷たい威圧感を放っている。
ただ、その美しい顔は表情をほとんど見せず、まるで氷のような冷たさしかなかった。
綾香はベンチにもたれて、その男が近づいてくるのを見つめながら、心の中で呟いた。
――せっかくの顔が勿体ないわね。
男が目の前まで来たとき、綾香は蝶を追っている千雪に手を振り、甘くやさしい声で呼びかけた。
「千雪、こっちにおいで。」
そして、しっかりとその男を見上げ――
「パパって呼んでごらん。」