第1章石野卓也が浴室から出てきた時、浴衣は緩く掛けられていた。
昏かりの中、肩幅の広い逆三角形のシルエットが起伏し、水玉が鎖骨から襟元へと滑り落ちた。
室内には微妙な雰囲気が漂っている。
ベッドの縁に寄りかかる石野夏末は、シルクのネグリジェでその体がさらに美しく見えるようになった。
「卓也さん、本当に私に興味ないんですか? ここまでしても…」甘ったるい抗議の途中、彼女は突然動けなくなった。
視界が真っ白に染まり、気がつくと全く違う世界にいた。
今、夏末の前にいるは、小説の主人公であり、夏末の継子の実父であり、実業家として名を馳せる石野卓也その人だった。
逆光で輪郭が霞む卓也の周りは、凍りついた空気に包まれている。
最悪の状況だ!
卓也の視線はベッドサイドテーブルを掠め、赤ワインの隣に無造作に置かれたコンドームへと落ちた。
「契約を交わして三十日も経たないうちに、違約して離婚する気か?」その声は冬の風のように冷たかった。
契約書にはっきりと記されていた。
偽装夫婦が、真の体の関係は持たない、と。
夏末は指の関節を噛んだ。
この体の元々の持ち主が石野家に嫁いでから一ヶ月余り。
つまり継子の石野琉生はまだ十七歳だ!
小説での夏末が放り出される結末を思い出し、思わずシーツを握りしめた。
「離婚なんてしません!」羽毛布団を蕾絲の寝巻きに巻きつけながら言った。「昨夜は酔っぱらって訳の分からないこと言ってました」
「本気か?」
卓也の視線が夏末の顔に意味ありげに注いだ。
「本当です!」夏末は力強くうなずいた。
離婚するわけがない。
旦那様が圧倒的に格好良いからでも、小説の主人公を継子に持てたからでもない!
ぜいたくな暮らしができるからだ。
卓也が浴衣の帯を解くと、鍛え上げられた上半身が夏末の視界に飛び込んだ。
マットレスが沈み、清冽なシーダーの香りが押し寄せた。
「寝よう」低い声とともに、スタンドライトが消えた。
暗闇の中で夏末の体は張り詰めた弓のように硬直していた。
夜明けの光が差し込む頃、ようやく眠気に抗えず意識を失った。
目覚めたのはお昼近くだった。
素足で桜ヶ丘ヒルズの本邸を駆け抜けると、ペルシャ絨毯の先に八つの寝室と十二の客間が広がる。
窓の外にはプライベートプールがきらめき、温室では珍しい観葉植物の葉に朝露が光っていた。
「前世では、300年働いていたら、買えない邸宅だ」夏末は呟いた。
前世では、外資系企業で重役にまで上り詰めたのに、タワーマンションの頭金すら貯められなかった。
それが今では——結婚のプレッシャーも? 家のローンも? 人生の悩みが一瞬で消え去った!
「わあ!」
「このテラス、前世で借りてた部屋より広い!」
「贅沢すぎて罪だわ!」
後ろに控える小林執事は、新奥様のうきうきした言葉を面無表情で聞いている。
「ランチはガーデンテラスにご用意しました。お品書きのご指示がなかったため、和食と洋食を少しお仕立ていたしました」
十メートルのテーブルを埋め尽くすロブスター、トリュフ、マカロンタワーを見た瞬間、夏末は息を呑んだ。
これが「少し」?
これは紛れもなく豪華な宴だ
シャンデリアの光の下で執事が銀の食器を差し出した。
「奥様、どうぞごゆっくり」