黒いハイヒールが冷たい大理石の床に音を立て、その模様と一体化しそうな気さえした。
少しの間、目を閉じて呼吸を整え、やがて手を上げてドアをノックする。
「どうぞ」と、低く響く男の声。
灯里は、無意識のうちに書類を握る指に力が入り、もう片方の手でドアを押し開けた。
顔に穏やかな微笑みを浮かべたまま、まっすぐ湊斗のそばへ歩み寄る。
「忙しいところごめん。急ぎの書類にサインをいただきたくて」
言葉をかけながら、すでに書類を彼の前へ差し出し、さりげなくサイン欄を開いておく。
湊斗はつい先日、スイスからの出張から戻ったばかりだ。
朝から仕事に没頭し、デスクには書類が山積み。
精悍な顔立ちには疲れが滲んでいる。差し出された書類をろくに見もせず、ペンを取って淡々とサインする。
「ご苦労」
灯里はサイン済みの書類を手際よくまとめ、事務的に尋ねる。
「今夜は帰って食べる?」
「用事がある。待たなくていい」
顔も上げずにそう答える。
「わかった」
灯里は書類を抱え、すぐに背を向けて歩き出す。
彼女の表情はドアを出た瞬間、冷たい嘲笑へと変わった。
オフィス横の休憩室を通りかかると、中から微かな物音が聞こえる。
まるで小動物がベッドから飛び降りたような音。
灯里の視線がソファの方へ滑る。
テーブルにはお菓子の袋や飲みかけのミルクティーが散らかり、
床には淡いピンク色のハイヒールが片方だけ転がっていた――
すべてが一瞬で理解できた。
心は完全に冷え切る。
自分のオフィスへ戻るまでの道のりが、異様に長く感じられた。
椅子に座り込み、深く息を吐き出す。
書類の中から一枚――離婚届を取り出す。
最後のページを開き、力強い筆跡のサインを指先でなぞる。
脳裏には過去の光景がよみがえる。
プロポーズの時の真剣な眼差し。
姑である橘川陽子が「男は一人の女だけを愛せるわけがない」と冷ややかに言い放った時の自信。
そして自分が「彼は違う」と信じて疑わなかった幼さ……。
――何が違っていたのだろう。
若い女の子と浮気し、すべてを隠し通せると信じて、平然と裏切りを楽しむ。
今回の出張にも、あの女を連れて行った。
挙句の果てに、会社にまで連れてきている。
灯里は離婚届を静かに置き、そのサインをスマホで撮影し、橘川陽子に送る。
【彼、サインしました】
一週間前、条件はすでに決まっていた。
陽子は灯里に離婚を切り出すことと、婚姻中の出来事は一切口外しないことを求めた。
その代わり、灯里は百五十億円の慰謝料を手に入れる。
一ヶ月後には、湊斗は彼女の人生から完全に消えることになる。
コンコン――
ノックの音が響く。
灯里は慌てて離婚届を片付け、「どうぞ」と答える。
入ってきたのは、湊斗の秘書である田中翔だった。
「奥様、社長からお預かりものです」
田中は、緑色のベルベットの箱をデスクに置いた。
灯里は気だるげに箱を開ける。
中には高価なダイヤのジュエリーセット。
しかし、頭の中にはあの光景がよぎる。
曖昧な照明のホテルの部屋、ショートカットの若い女がバスローブ姿でダイヤのネックレスを弄び、首筋にキスマークが残っている――
吐き気が込み上げる。
「ありがとう、田中さん」
灯里は冷たいまなざしで彼を見上げる。
田中はその視線に気圧されて、思わず付け加えた。
「社長が特別に選ばれたもので、世界限定品です」
だが、彼の心は決して“限定”ではなかった。
灯里はもう、こんなものには何の価値も感じない。
灯里は口元に薄く笑みを浮かべる。
「そう……それはありがたいですね。お忙しいのに、私にまでプレゼントなんて」
その言い方に、田中は背筋が寒くなる。
もしかして、社長と戸崎さんのことを知ったのでは……。
余計な詮索を避け、慌てて部屋を出て行く。
灯里は机の上のジュエリーを汚れ物でも見るように一瞥し、
スマホで写真を撮ると、馴染みの買取専門店のオーナーに送る。
【これ売って。お金は児童養護施設の子どもたちへ】
*
午後五時、駐車場。
灯里は車のドアを開けようとした時、ふと斜め向かいに目が止まった。
エンジンがかかったその車の後部座席には、湊斗と彼に寄り添うショートカットの若い女性がいた。
整った顔に、はつらつとした笑顔。
「社長――!?」
田中が慌ててブレーキを踏む。
窓越しに、湊斗と灯里の視線が、ほんの一瞬だけ交差した。