灯里以外の全員が「……?!」と驚愕する。
またしても、雷鳴のような衝撃が場を包み込んだ。
……
ロイヤルホテルの中華レストラン。
白金雅貴は食事を終えても席を立たず、窓際でスマホの画面を眺めていた。
その目は真剣そのもの。
しばらくして、口元にごく薄い微笑みが浮かぶ。
低くて落ち着いた声に、抑えきれない笑いが滲んだ。
「なかなか根性があるな」
隣で控えていた小林透も夢中になって画面を追っていた。
率直に感想を述べる。
「ドラマより面白いですね。長浜さん、ただ者じゃありません」
「……ドラマは作り物だけど、彼女は本気で命を懸けている」
白金はスマホを置き、気だるげに立ち上がる。
エレベーターで、小林が地下のボタンを押す。
すると白金がふいに問いかけた。
「現場、見たくないか?」
小林は一瞬たじろぎ、すぐに答える。
「……ぜひ」
……
宴会場。
橘川陽子は呆然とした面持ちで戸崎夜亜を見つめていた。
まさか、自分を盾に使うとは思いもしなかった。
「ち、違うわ!」
陽子は必死に弁解する。
「追い詰めてなんかいない!灯里が自分で補償契約にサインする方法があるって言ったから、ホテルに誘っただけなの!
まさか、こんな手を使うなんて知らなかった!せいぜい、ちょっと脅かすくらいだと思ってた……。私はただ契約にサインさせたかっただけ!」
この言い訳は、共犯であることを認めるものだった。
夜亜はすぐに涙声で反論する。
「陽子さん!そんなこと言わないで!長浜さんが欲張りすぎて、150億円から225億円に値上げしたって、あなたが私に相談したんでしょう!?
私はあなたと湊斗が可哀想で助けたかっただけなのに!
湊斗に恨まれるのが怖いって、私にお願いしたのを忘れたの!?」
「な、何を言ってる!」
橘川陽子は手を震わせ、今にも倒れそうなほど動揺している。
「嘘じゃないもん!私と湊斗の未来のために、もう認めて!」
……
陽子の視界は暗くなり、胸が締め付けられる。
心臓発作を起こしそうなほどだ。
戸崎家の人たちも、もはや正義や真実はどうでもいいとばかり、夜亜を庇うために一斉に陽子を責める。
子どもをこんなことに巻き込むなんてと、すべての責任を押し付けた。
陽子と橘川家も黙っていられず、激しい言い争いが始まる。
居合わせた客たちは、あまりの展開の激しさに圧倒され、ただ呆然と見守るしかなかった。
まさに予想を遥かに超える修羅場だ。
灯里も驚きを隠せなかった。
夜亜がこの土壇場で義母を裏切るとは、まるで犬同士の喧嘩のようだ。
彼女は湊斗に目をやる。
彼はその場に立ち尽くし、顔には氷のような絶望だけが残っている。
プライドの高い彼が、今どれほど打ちのめされているかは想像に難くない。
これが、彼の裏切りの報いだ。
「長浜灯里!謝るわ!」
夜亜が突然灯里へと向き直り、涙ながらに「懺悔」し始めた。
「怪我も病気も、私がお金を出して治してあげる!今の医療なら、エイズだって治るかもしれない……!」
灯里は冷ややかに夜亜を見つめた。
夜亜は涙を拭うふりをしながら、心の底では毒々しい笑みを浮かべている。
罪を暴かれることも、陽子を売ることも気にしていない。
ただ灯里を「汚された女」「エイズ持ち」と貶めたいだけだ。
生まれながらの悪女だ。
「ふっ……」
灯里は鼻で笑った。
「まず、私は許さないし、もう警察に通報した。
第二に、期待外れでごめんね。昨夜、親切な方が助けに来てくれたの。あなたが呼んだ連中は何もできなかった。
私は病気にもならないし、死にもしない。でも、あなたは刑務所行きよ、戸崎夜亜」
「……っ!!」
夜亜の作り物の後悔や悲しみは、一瞬で剥がれ落ち、心の奥底の暗い本性が露わになる。
湊斗の瞳にかすかな光が戻り、彼は灯里のもとへ駆け寄る。
「本当か?本当に助けたれたのか!」
灯里は彼を一瞥もしない。
夜亜は湊斗の反応に逆上し、声を荒げる。
「そんなはずない!あのホテルは有名なほどプライベートが徹底してて、あんな奥まった部屋に、誰かが入れるわけない!誰が助けるのよ!まさか神様でも!?」
灯里は落ち着いた口調で答えた。
「神様と言いたいなら……確かに、あの人は神様みたいだった」
あの手の中の清々しい香り、「もう大丈夫だ」と囁いた低い声、あの瞬間現れた大きな背中。
灯里にとって、まさに眩しい光のような存在だった。
夜亜は叫ぶ。
「信じないわ!そんな人いるわけない!湊斗に嫌われたくなくて嘘をついてるだけ!」
灯里は冷笑した。
「私は彼のために取り繕う必要はない。たとえ私が被害に遭っても、汚れているのは加害者と、あなたみたいな主謀者だけよ」
夜亜は逆上して叫ぶ。
「そんな言い訳、誰も信じないわ!助けてくれた人がいるなら、ここに呼んでみなさいよ!あなたの神様とやらを見せてよ!皆の前で、その正体を明かせばいいんじゃない!」
灯里は黙り込む。
白金雅貴の名を出すわけにはいかない。
彼のような人が、こんな修羅場に巻き込まれるはずがない。
恩人に迷惑をかけたくなかった。
「ほら言えないじゃん!やっぱり嘘だったのね!」
夜亜はさらに追及する。
湊斗の瞳から再び光が消えかけていた。
彼は夜亜の追及を止めることなく……むしろ答えを知りたがっているようだった。
「神様じゃないが――」
そのとき、会場の隅から悠然とした低い声が響いた。
ざわめきを貫き、はっきりと全員に届く。
「助けたのは、俺だ」
全員が一斉に振り返った。
気がつけば、会場の入口には、気品と威厳を纏った一人の男性が立っていた。
端正な顔立ち、凛とした立ち姿、その所作ひとつひとつに圧倒的な存在感がある。
人波の中から、誰かが小声で叫ぶ。
「白金雅貴だ!」
「どの白金雅貴?」
「横浜で白金雅貴といえば、白金コンツェルンの御曹司しかいないでしょう!」
「まさか……なんでここに……ていうか、今なんて言ったの!?」
……
宴会場は一瞬で騒然となる。
白金家の御曹司が、こんな場に現れること自体が異例だ。
橘川家ごときが彼を招待できるはずもない。
だが、今の発言から察すると――
彼こそが、灯里を救った「神様」なのか。
しかも、彼女のためだけにここへ来たのか。
橘川家と戸崎家の人々は、表情を失い、複雑な思いが交錯している。
湊斗は、白金雅貴をじっと睨みつけ、底知れぬ敵意を滲ませている。
それは男が本能で感じるライバルへの警戒心だった。
夜亜は白金と面識はなかったが、その名の重みは痛いほど知っている。
灯里を見下し、激しい嫉妬が心を蝕む。
こんな女が、もう次の男に乗り換えたなんて……!
「白金社長……?」
灯里も思わず声を失う。
「たまたま隣のレストランで食事をしていたんだ。こちらが騒がしいので、気になって」
白金は何気ない口ぶりでそう言い、場内をゆっくりと見回す。
その一挙手一投足が、場の空気を一変させる。
まるで、天から神が降臨し、この茶番を静かに見下ろしているかのようだった。