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第4話 10億の価値

 ロンって、ニンゲンの世界の通貨だっけ?

 でも高いか安いかわからなかった。


 いや、皆が驚いてるって事は、オレ高いんだな! ウン! とドヤ顔で月餅を食べながら伏竜を見ると、アイツはアホの仔を見る目で眉を寄せた。


「……馬鹿が。あの親父で打ち止めになったなら、手前はアイツの奴隷になっちまうんだぞ」

「ブフォッ!」


 オレは食べてた月餅を噴き出し、涙目で伏竜を見る。


「そ、そんな! イ、イヤだって! だってあのオッサン、絶対イヤらしいコトするカオしてるって!」

「……そこまで理解してて、何で余裕こいてたんだよ……」

「そんな現実、認めたくないからだよバカ! 売られるなんてイヤだよ! オレ、白月にまだ逢えてない!」

「白月……、そんなに、そいつに逢いてぇのか」

伏竜の問いかけにオレは即答した。


「逢いたい! 白月は、オレにとって誰より大切な存在だから!」


 オレが泣きながら懇願すると、伏竜は、ぐっと何かを飲み込むような仕草をする。

 そしてアイツは視線を前方に戻すと、低い声で告げた。


「……俺は老大に大恩がある。組織は裏切れねぇ」


 そ、そんな……。

 それじゃあオレ、姉ちゃんに逢えないまま、オッサンのペットみたいになっちゃうのか……?

 項垂れて、遂に泣き出すオレの耳に落札を告げる鐘の音が無情に鳴り響く。


『落札、おめでとうございます!』


 ライトがオッサンをギラギラと照らし出し、オッサンは満足気な様子で、ゆっくりとオレに近づいてきた。

 濁った目がオレを捉え、舌なめずりする。

 その動きは、ナメクジが這ってるみたいで背筋が凍ってしまう。


「ふひひ……、待ちわびたぞ、小僧ォ……。これでお前はワシのものじゃ……」


 水槽に腕が伸びてくる。


「い、いや……だ」


 怯えで掠れる声で否定し、オッサンから距離をとろうとするも逃げられない。

 しかし、そんなオレの視界が急に傾いた。


(え?)


 ぐるんと回転する景色の中、見えたのは床の紺色のカーペットだけだった。

 体を拘束していた鎖が、何故か弾けるようにして外れ、床に転がる。

 そして直ぐに気づいた。


 伏竜の肩に担がれているのだ、と。


(え? え?)


 まさか、こんな雑な形でオッサンに手渡されるのか?

 そんな混乱の中、伏竜に声をかけたのはオッサンではなく、同じ青龍門派の部下だった。


「伏哥! 何してるんですか!」

「そいつは落札された商品ですよ!」

「傷の一つでもついたら、大問題に……」


 どうやら伏竜は決まりを無視して勝手にオレを動かしているらしい。


(な、何で……?)


 訳がわらずにいるオレや現場の混乱をよそに、伏竜は、よく通る声で告げた。


「十億だ。俺なら、こいつに十億出す」


 じゅうおく……?


 繰り返すオレに、伏竜は「……それでもオレにとっちゃあ、安いくらいだがな」と、笑い混じりの声音で語る。


(十億って……? 本気で……?)


 伏竜はオレを担いだまま、足早に会場を去ろうとした。

 その場の誰もオレに十億は出せないらしく、伏竜の値を越える声は無い。

 しかし、青龍門派の奴らは『はいそうですか』と通すわけにもいかないようで、飛び出してきた。


「伏哥!」

「血迷ったのですか! 伏哥!」


 だが伏竜は無言のまま、進路を阻む部下を空いた片手で薙ぎ払って進んでゆく。

 その力量差は圧倒的だった。

 伏竜の腕の一振りで男達が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。

 会場からは悲鳴が上がったが、部下達は気絶しているだけで死んではいないらしい。

 伏竜の気迫に部下達は飛びかかる事も出来ずに尻込みしていると、会場に王老大の声が響いた。


「伏竜! 勝手な真似をするな! 大体、お前に十億もの金を用意できるのか!」


 その呼びかけに伏竜が足を止める。

 担がれてるオレに伏竜の表情は見えなかった。

 でも、窓ガラスに島の夜景と共に映る伏竜の姿は確認できた。

 伏竜は、ゆっくり振り返り、片手でネクタイを緩める。


 露わになる首元には、鱗のタトゥー。

 だが――喉元の鱗だけ、逆さに刻まれていた。

 その異様な印象に目を奪われる間もなく、伏竜の鋭い声音が会場を支配した。

 彼はその場の全員を威嚇するように言い放った。


「この龍の逆鱗に賭けて、出来ねぇ事は言わねぇ。それはアンタから教わった事だ。それでも足りねぇなら、この残った目玉でも心臓でも好きなだけ持っていきやがれ。惜しくはねぇよ」

「伏竜……!」

 王老大は何処か眩しさを感じたように名を呼ぶ。


 そんなボスに対して伏竜は、迷いの無い言葉を向けた。

「プライドを売り渡すより、安いモンだ」

 静まり返る場を後に、伏竜は甲板へと向かった。



◆◆◆



 伏竜に抱え上げられたまま、オレは夜の甲板に連れ出されていた。

 会場を出てからは、肩に担がれていた状態から、両手で抱えられる姿になっていて恥ずかしかったけど、水が無いと動けない人魚的には仕方ない……って、そうじゃなくて! 現実逃避してる場合じゃなくて!


「ふ、伏竜! オマエ、本当に大丈夫なのかよ!」


 間近に見える伏竜の横顔は、夜の闇と星明り、何処からか聞こえる船や波の音さえ従えてしまう威厳、そして男のオレが思わず見惚れる程の妖しい色香を纏っていた。


 その迷いの無い姿は、出逢った時とは別物のようだ。


 吹っ切れたみたいに力強く歩く伏竜は、オレに視線を向けると、片目を細めてじっと見つめてきた。

 あまりにも凝視されて、変に胸がドキドキする。伏竜の言葉を待って押し黙ったオレに、アイツは溜息混じりで言った。


「あぁ? 大丈夫なワケねぇだろ。十億の借金だぞ? 全身売約済みの人生だ、オレは」

「ヒッ……!」


 ジューオクがどれだけの大金かわからないけど、あの悪い奴らが黙り込むぐらいの額だ。それに加えて、今度は伏竜がオレの代わりに売られちゃうのかもと思うと、疑問がわく。


「ご、ごめん……。でも、どうしてオレの為にそこまで……?」


 問いかけてる間にも、伏竜の足は海の方へと近づいていく。

 伏竜の靴音がカツンカツンと乾いた音を響かせる中、彼は海を臨む船首で立ち止まり、ふっと微笑んだ。


「……手前の為じゃねぇ。俺の為だ。二十年、追いかけ続けた相手を見殺しにするような情けねぇ男になりたくねぇだけだ」


「へ……? へ?」


 オレは困惑する。


 人魚は十年で一つ年をとる。

 だから二十年前に、こんなに目立つ男と出逢っていたなら覚えているはずだ。

 なのに、オレは大人の男を助けた記憶なんて無い。


 そんなオレを見て、伏竜は何処か寂しげに口角を上げた。

 思い出してあげられないのが申し訳ない気持ちになったが、そうしていると甲板に近づいてくる微かな靴音に伏竜が肩越しに振り返る。

 追っ手が来たのだと察したオレが怯えて伏竜の肩にしがみつくと、伏竜は少し驚いたように反応しつつも、オレの耳元で囁いた。


「……最後に十億の見返りは、貰っていく」

「え?」


 その瞬間、伏竜の睫毛が近づき、彼の唇がオレの唇に触れた。


 伏竜の熱い吐息とともに、唇がゆっくりと重なり合う。


 最初は柔らかく、戸惑いを誘うような感触だったが、次第に彼の唇がオレの唇を割り開き、深く侵入してきた。

 まるで唇で唇を甘噛みするような伏竜の動きに、オレの心臓は早鐘を打つ。


 嫌悪感は……、無い。


 それどころか、捻じ込まれる舌がオレの口内を、歯列をなぞるたびに背筋がゾクゾクと震える。


(何……だ……? これ……)


 頭の中がボンヤリと霞むような初めての感覚に怖気づくオレの舌を、伏竜の舌が絡め取り、強く吸い上げる。


「んッ……!」

 びくりと体が震え、全身が熱に包まれる。


(こ、こんな……こんなのッ、て……)


 熱で下半身が妙に疼いて、頭がおかしくなりそうだ。

 伏竜の唇から流し込まれた唾液が、熱で乾いた喉を潤し、それさえ心地よく感じてしまう。


(き、もち、いい……)


 乱れ蕩けてゆく吐息の中で、伏竜の唇が離れた瞬間、オレは思わず彼の名を呼んだ。


「あッ、はぁ……ふ、伏竜……」

「……はぁッ……、はぁ……」


 伏竜はオレから唇を離すと、お互いの舌先から煌めく唾液の糸が見えた。

 伏竜に侵食され、熱で呆けた頭のまま、どう接すればいいのかも分からなかった。

 でも、ふと思い出す。


(こ、これ、接吻って……ケッコンする相手としか、しちゃいけないヤツだって、姉ちゃんが言ってた……!)


 何でそれを伏竜がオレにしたんだと問う前に、伏竜は微笑を浮かべ、オレの体を波間に捧げるように海へと還した。

 ふわり、と体が宙へと解放される。


「え……? 伏、竜……?」


 時間が淀んだみたいに、ゆっくりと落下してゆく。


 名を呼びながら手を伸ばすも、船首では伏竜が満足げな表情で煙草を咥えていた。


「……他の男のモノになるくらいなら、どこへでも行きやがれ。地の果てだろうが、海の底だろうが、俺が見つけてやる」


 そこで伏竜は子供みたいに笑った。


「今度は逃げる気なんざ無くすくらい、骨の髄まで、俺に惚れさせてやるよ!」


 何言ってんだよオマエ! 説明になってないぞ! と、今までの行為の真意を問おうとしても、アイツは緩めたネクタイを掴んで、海風へと放った。

 ばたばたと、強風に煽られる布地は直ぐに夜の闇に紛れて見えなくなったが、それでも濃紺の布地が果敢に放たれた瞬間の美しさは、記憶に焼きついてしまう。


(伏竜……!)


 冷たい水に叩きつけられるように着水した瞬間、視界は泡だらけになった。

 慌てて水を掻き、必死に水面を目指す。

 ああ! いつもは何とも思わない海水が! 今日は行く手を阻む障害みたいで鬱陶しい!

 もどかしく感じながら、オレは水面に顔を出すと、声を上げる。


「ふ、伏竜! 伏竜ってば!」


 船首を見る。

 伏竜の姿は、もう無かった。


「伏竜……」


 波音だけが耳を満たす中、伏竜の立っていた場所を見つめ続けていた。

 何もかも奪い去られたような切ない静寂が、夜の海を覆っていた。



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