――私の名前を呼んで下さい。
私が、私でいられるように。
私の肌に触れて下さい。
私が、私のカタチを忘れぬように。
生きているのか眠っているのか、それとも全ては夢幻なのか。
暑さも寒さも感じぬ病室で、喜怒哀楽すら薄れていく。
無味無臭の緩慢なる死か、燃え尽きるような短い生か。
自動思考型AI 【ニルヴァーナ】 が記録している人類の歴史の中でも
未曾有の悲劇があった。
『東京大汚染』……当時の日本において首都とされた東京都内で
大量の遺体が発見された。
川や噴水に大量に浮かんでいる溺死体は水溜りや公衆便所、
自宅の浴槽、貯水槽等、おびただしい数であったと言う。
そして、司法解剖の結果、恐るべき事実が判明した。
溺死者の外傷は皆無。全て『自殺』だった。
・溺死者の内部は蜘蛛の巣状の白い胞子が臓器や血管、
眼球まで神経の如く根を張り、全ての機能が停止していた。
・生命活動が停止していながら、一定期間、彼等は
『生存』していた痕跡があった。根が絡みついた状態で、
感染者がとった異常行動は後述する。
・また、被害者の遺体を収容した機関において、数名の『感染者』が出た。
政府はこれを受け、諸外国へ救援を求めた。
だが、WHCにも米国厚生省CDCのバイオテロ対策部門にも
該当するウィルスや細菌、原虫のデータは存在しなかった。
そして、既知のウィルス等と思えぬ違和感がソレには在った。
【感染者の異常行動パターンについての報告】
・遺体回収にあたった自衛隊員の感染者らは、
ある一定の行動パターンをとり始めた。
・徘徊を繰り返し、群集の中に潜伏する行動を好み始める。
・暴力的になり、周囲への威圧的な言動・行動が増える。
・自傷行為、もしくは異性・同性を問わず過剰な性交渉を求める。
・末期患者においては、ほぼ全員が溺死を選択する。
恐らくは感染者は体液を感染経路として、この未知の存在、
『ID(イド)』と名付けるが、IDを蔓延させる行動を
とっていたのだと思われる。
何故、感染者はこの未知の病原体を蔓延させようとするのか?
また、感染経路拡大を求めるのであれば、集団に
潜伏する行為と、社会から逸脱する暴力行為は相反する。
周囲から阻害・隔離されてしまえば、本来の目的は
失われてしまうのだ。
感染者が異常行動をとった理由は何なのか?
これらの疑問を解き明かそうにも、患者は次々と
死亡してゆく。死亡した個体からは残された痕跡で、
その状態を想定するしかない。
だが、生きた人間を解剖する事は当時の人権社会において
多大な反発を呼ぶ為、全ては後手に回っていた。
政府が手をこまねいている間にも、IDの自滅プログラムが
人類を緩慢なる滅びに導きつつあった。
末期患者はコップ一杯の水であろうと溺死しようとする。
手の施しようが無い惨事に当時の人々は
恐怖を抱き、さながらウィルスの如く流言飛語が蔓延した。
ID患者への差別と迫害は熱を増し、恐怖と憎悪は
連鎖してゆく。IDが原因の死ではなく、人間による粛清が発生したのだ。
だが、そんな混乱の中、政府が秘匿している事実があった。
生存者は『居た』のだ。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
見通せぬ暗闇の中を歩いていると、水音が響く。水は嫌いだった。
全てを受け入れ飲み込むと見せかけながら、
ヒトの体温を奪い呼吸を止めて殺してしまう。
水がヒトを愛するのは呼吸無き屍になってからだ。
だから、水には近づかない。近づいてはいけない。
そう、本能の奥底に潜む何かが訴えていた。
足元の闇が、さざ波をたてるように歪む。そこから這いずり現れたのは、
薄い銅板を張り合わせた鱗を持つ醜悪な魚人だった。
口から苔色の唾液を滴らせ、それが新たな波紋を生み出す。
魚人はヒレのついた手を伸ばして近づいて来る。引き返そうと振り返ると、
漆黒の闇の中、歩んできた足跡は途絶えていた。
やがて崩れ去ってゆく脆い足場に気を取られた時、
首筋に焼け付く痛みを感じた。
手で押さえると、噴き出した血が泡となって白い肌を深紅に染め上げていた。
背を向けていた前方から迫っていた怪物は首筋に牙をたて、咀嚼を始める。
肉に食い込む冷たい牙が神経を噛み切り、血管からは
赤い飛沫が噴き出してゆく。
水を求める魚のように口を開いては閉じ、嫌悪感と恐怖と激痛で
目の前が白く染まるのに、生餌とされている間、ずっと意識があった。
早く、この溶けるような闇に混ざって意識も理性も消して
しまいたいと願うのに、それが叶わない。
早く殺して、もう苦しめないでと叫ぶ声だけが虚無に沈んでいた。
それが何度繰り返されただろうか。
頭を下げて許しを請うても踵を向けて逃げても避けられない。
戦おうとすれば硬い拳で頬を殴られ、鋭いヒレで肉を切り裂かれる。
生きたまま餌とされる事に疲れ果て、抵抗を止めようという
考えが脳裏を過ぎった。
どうせ死ぬなら、その最後が決まっているのなら、抗うだけ苦しい。
だが、出来なかった。
自分が生まれる前の思い出……胎児の記憶を持っていたから。
母の腹の中は、この闇のように重く静かであったが、
語りかける父の声や、母の歌声は暗黒の領域に
心地よい安堵をもたらしていた。
『早く生まれないだろうか。お前にも見せてやりたいよ。
この美しい世界を』
『この子が生まれたら海に行きましょう。
私、海が世界で一番美しいと思うわ。空のように広がる
青なのに、空と違って陸と溶けあっているもの』
『まるで別々の存在なのに、共存している大地と海か……』
私も見てみたい と言葉でなく魂で感じていた。
誕生を、ずっとずっと待ち続けてくれていた。
――パパ、ママ、私も早く逢いたい。こんなに愛して
守ってくれる人に逢いたい……。
話したい事があるの。一緒に行きたい場所があるの。
私は、あなたに逢いたいから生きたい……生きたいよ……
だから歯を食いしばって足掻き続けた。
人間が一日に脈打つ心臓の回数にまで到達した捕食と
抵抗の関係に止めが刺されたのは、針の先ほどの光だった。
魚人に貪られ、小さな拳を振り上げて抵抗した時、その光に触れた。
誰かが腕を掴んでいた。
深海から浮かび上がる感覚。
引き上げられた白い体を闇が水滴となって肌を滑り落ち消えていく。
顔を上げると、目の前に見知らぬ男がいた。
彼の手にはナイフがあり、その切っ先は緑色の液体に
まみれている。遥か足元には魚人の屍骸が転がっていた。
助けてくれたのだろうか。
屍と男を見比べ、ようやく現状を理解してから、相手を仰ぎ見る。
『あ、あの、あり、がとう。助けて、くれて……』
『……』
『すごく、怖かったから……ホントのホントに、ありがとう』
『……』
口が利けないのか言葉を知らないのか、相手は何も答えなかった。
それでも、不思議と恐れを感じない。
黒髪から垣間見える横顔は何故か懐かしさすら覚える。
幼い頃から共に居るような、身近な既視感。
やがて男が指差した先に白く輝く光が見えた。
出口なのだと気づき駆け出すが、足音は一人分だけだった。
振り返った先、灰色の空間の中に佇む救出者は手だけで『行け』と示す。
『あなたは……? もし、イヤじゃなかったら、一緒に……』
『……』
首を振り、踵を返すと長い髪が揺れていた。その肩越しに見えた
横顔の口元は何かを囁き続けていた。
【全ては、Es(エス)の仕業。欲動に抗えなければ滅びるのみ】
光は帯状に伸びて視界を埋め尽くしてゆく。曇天色の世界に
溶けて消えていく男の姿は、もう輪郭すら曖昧になっていた。
エス……それが彼の名前なのだろうか?
そして目が覚めた時、周囲は『白』一色だった。
白濁色で塗り潰された部屋には窓すら無く、今が
朝なのか夜なのかも判別がつかない。
冷えた四肢はベッドの上に横たえられていた。
起き上がって周囲を見回すと、枕元には薄いディスプレイが
備え付けられているが、画面には何も映っていない。
ベッドとは反対の壁際にはシャワーノズルが在る。
ノズルから滴り落ちた水滴だけが室内の無音を遮る唯一の存在だった。
ベッドの足元から少し離れた位置には蓋着きの便器があり、
その付近には壁に埋もれるような形で扉が備わっていた。
ただ、扉の表面にはノブも何も無く、起き上がってドアを
開こうと試みるも、扉は壁の一部と化しているかのように
微塵も揺らがなかった。
部屋に在るのはトイレ、シャワー、ベッド。
それもシャワーだけでバスタブは無く、霧雨のような細かい水がノズルから
緩やかに流れる味気ないものだった。窓は無いが、空調設備は
整えられているらしく、肌は不快な汗を滲ませていない。
誰もおらず、何の意図も感じ取れず、何故この場所に
監禁されているのか……? いや、自ら此処に閉じこもった可能性もあるのか?
記憶は途切れ途切れで、こうなるに到った経緯が思い出せなかった。
言い知れない不安をおぼえた時、この無機質な部屋に合成音声が響く。
「オハヨウゴザイマス。患者コード『E』」
声は枕元のディスプレイからで、そこには青く澄んだ空の映像が
天から切り取られたように映し出されている。
「……患者コード……?」
ディスプレイに近づくと、姿無き相手は淡々と告げた。
「私ハ アナタノ生存支援AI 【ニルヴァーナ】。
今後、アナタノ パートナー役ヲ 務メマス」
抑揚の無い女性の機械音声であったが、唯一の外部との
繋がりである相手に、混濁した思考のまま、矢継ぎ早に問いかけた。
「あ、あの、此処は何処? 私、どうして此処にいるの?
誰もいないし、外にも出られないみたいだし……それに……
何も思い出せなくて……」
頭の奥から白い頭痛が響いた。その痛みを取り去るように、
人工音声が語りかけてくる。
「心拍数ガ 上昇シテイマス。深呼吸ヲ シテ下サイ。
アナタニハ、此処カラ出ル事ハ 許可サレテイマセン」
「え?」
ディスプレイを見つめるも、表情無き相手の真意は読めない。
「アナタハ、『治療』中ナノデス。ソレモ 極メテ
危険ナ 力ヲ持ツ、『ID(イド)』ニ 感染シテイマス」
「イ、ド?」
「人類史上、最強ニシテ最悪トマデ言ワレタ
『東京汚染』ヲ 引キ起コシタ 症状デス。
発症スレバ 致死率ハ 100%」
「!」
夢の続きのような突拍子も無い台詞の連続についていけず、
言葉を繰り返してばかりいた。
「アナタハ マダ 発症シテイマセン。 キャリア状態デアレバ
生存ハ 可能ナノデス」
「きゃりあ?」
「発症シテイナイ 患者ノ事デス」
ニルヴァーナとの会話で、足元から染み入る
闇に似た絶望が体を包み始めて来る。
飲み込めない現実の光景に頭の中まで白く染まってゆく。
そんな錯覚を覚えた中、どうにか理解したのは
閉塞された『安息』を与えられた事だけだった。
「そんな……で、でも、私、ホントのホントに、そんな病気に
感染してるの? だって、身体は、どこも苦しくないし、痛くないし……
な、何かの間違いじゃない、かな?」
「発症シテイナイダケデス。同ジ説明ヲ サセナイデクダサイ。
時間ノ 無駄トナリマス」
「……う」
現状に付いていけない不安感とニルヴァーナの言葉に目の奥が痛くなる。
「……申シ訳アリマセン。私ハ 人間トノ 良好ナ関係ノ
築キ方ヲ マダ 学習シテイナイノデス」
ニルヴァーナは慰めるような、諭すような単語を
数え切れぬほど並べていたが、当時は泣いて絶望していたものだった。
『この死病が発症さえしなければ生きていられる。
今は、ただ、息を潜めるように生命を繋ぐしか無い。
生きてさえいれば、いつか此処から飛び立てるのだ』
そう言われようとも、人間が恋しかった。誰かに逢いたかった。
空調も室温も整えられているというのに、この部屋は酷く寒い。
微かに見えた記憶の片鱗では、
朝に目が覚めれば、昨日の続きの今日が始まり、
変わらない朝日と変わらない風景が在るのだと、疑いも
しなかった日常が在った。
だが、それは転げ落ちてから知る、『平穏』だった。
世界は一変した。
この窓の無い白い箱庭と、人工知能のロボットだけが、
今の自分の『日常』に変わってしまったのだから。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
「ふにゃあ~……ニルぅ~、カレーライス、おかわり~……」
寝言つきで、まどろみから目を覚ますと、
白いシーツが目に飛び込んで来た。
「う……」
物音がする。起き上がって目を向けると、
分厚い無機物の扉には新聞受け程度の穴があり、
そこから差し出されたトレイには食事が乗せられていた。
だが、動く事が無い為、腹も減らない。
「カレーライス……」
好物にスプーンを突き入れ、かき混ぜる。熱く辛い食物は
胃袋を満たしても、この空虚さを埋める術を持ちあわせていなかった。
あれから数年が経過した。
日々の退屈を紛らわせる為に、ニルヴァーナが様々な
映像や書物、時にはゲームまでして、こちらの精神衛生を
気遣ってくれていた。
底知れぬ不気味さを感じたAIだったが、長い間
共に居る内に最も身近な存在になっていたのだから、
不思議だった。まるで積年の友のように。
それでも、やはり人恋しさは募る。
外に出る手段も無い上に、仮に外出できたとしても、
この身では誰に触れる事も叶わないだろう。涙や血液で
体液感染を起こしてしまえば意味が無い。
だから、病が完治するまで辛抱強く待ち続けていたのだ。
それでも始めの頃は外の世界に興味を抱き、
食事が差し入れられる瞬間をドアポストから盗み見ていた。
その眼前の光景に背筋が粟立ったのも覚えている。
トレイを持つ手は染み一つない肌であったが、
赤い目と銀の髪のアンドロイドのものだったのだ。
『……』
その無機質な眼球が蠢き、こちらを凝視した。
『きゃあっ!』
驚いて腰を抜かしてしまい、その物音に反応した無機物は
瞳孔の無いガラスの目で、トレイポストからコチラを覗き込み出したのだ。
『……っ!』
その視線に捉われた時、分かり合えぬ物質への恐怖を
おぼえ、震えながら目を逸らした。どうやら相手は室内の物音から
ケガでもしたのかと『確認』しただけのようである。
使用済みのトレイをドアの下から無造作に
引き取ったアンドロイドは、硬い足音を響かせて去って行った。
時計の秒針の如く規則正しい足音は、
組み込まれたプログラムが成せる技だったのか。
流石に不気味で、膝を抱えていた時、声が聞こえた。
『心拍数ガ乱レテイマス』と。
「……」
枕元には薄型テレビのようなディスプレイが設置されており、
近づくと聞き覚えのある合成音声が流れる。
「スプーンヲ 噛ンデハ イケマセン。ソノ行動ハ
人間ノ 定義ニオイテ 行儀ガ 悪イトサレテイマス」
「う、ご、ごめんなさい……」
「食事ハ ドウデシタカ?」
「うん、美味しかった……かな?」
トレイをドアポストに戻すと、しばらくの後に回収された。
アンドロイドが持って行ったらしい。
「不確定要素ガ アリマスネ」
「う、美味しかったけど、やっぱり一人のごはんって、
ちょっと味が違わない、かな? パパとゴハンを食べた時とか……
もっと美味しかった気がするの」
「人間トハ 個体デ食事ヲ 摂取スル場合、
味覚ノ違イヲ 覚エルモノナノデスカ?」
「う、うぅーん……」
口下手ゆえに、それを説明しようと思えば
相当の時間がかかる。とりあえず、話題を逸らそう。
「あ、あのね、そのね……今日、なにしよっか……?」
ベッドの上で膝を抱えてディスプレイを見つめると、青空の壁紙があった。
今の非日常が日常になってから、目をそらしてきた現実は
ジワジワと精神を磨り減らしていた。
この感覚をディスプレイの中にいる相手は理解出来ないらしい。
「違和感ヲ感ジタナラバ、ドクター・レザボア ヲ呼ビマショウ」
その言葉に慌てて手を振った。
「うぅ、い、いいの! 先生呼ぶ程じゃないもの!
先生も、きっと忙しいから、私の事で迷惑かけれないよね」
「ソノ選択肢ハ 推奨シカネマス」
「う、ホントのホントに、大丈夫。私、ガンバるから」
極度の人見知り体質の為、親しくない人間相手には
ほとんど会話が出来ない。だから、レザボアとは
あまり会いたくなかった。
主治医と名乗る眼鏡の男・レザボアはディスプレイから
顔を合わせたぐらいであったが、何故か警戒心を覚えてしまっていた。
「『ソウ』ヲ 呼ビマショウカ?」
「で、でも、ソウ君は、お仕事があるし、こんな事で
迷惑、かけちゃいけないし…それに、私、本当に平気だから」
「嘘、デスネ? 心拍数ガ 乱レテイマス。」
「ほ、ホントのホントに、平気の平気だから……」
「……」
こちらの心拍数や体温まで知るAI相手に嘘はつけないが、
それでも虚構を突き通そうと、膝を抱える。
「……平気。私、もっとガンバらないとダメだから…。
だから、誰にも頼っちゃいけないの」
「……」
膝に伏せるようにして視線をシーツに落とす。
「私には、ニルが居てくれるから、いいの……」
「……」
ただ、忘れてしまいそうになる。誰からも触れられない身体は
本当にこの世界に存在しているのかと。
ヒトとは、他者と関わる事で己の輪郭を知っていくのだと
身に染みて感じていた。
しばらくの後に扉を叩く音がして、顔を上げる。
そんな事をする者は一人しかおらず、ドアに近づくと、
鉄の扉の向こうから「ソウっす!」と声がする。
ソウは施設の仕事を抜け出して来たようだ。
「ど、どうしたの? お仕事の時間、変わったの?」
「ニルヴァーナに呼ばれ……あ、いや、来てみて良かったっす!
何か行かなきゃならない気がしたんす!」
後ろを振り返ると、ディスプレイの青空には小鳥が飛んでいた。
それはニルが何かを誤魔化す時のトボケ方で、その姿に
微笑んでしまう。小さく「ごめんね」と呟くと、小鳥は消えた。
「体調、どうすか?」
「体調は、平気、だと思うの。気を遣わせちゃって、ごめんね」
「いや、おれの仕事は、話し相手っすから!
気にしないで欲しいっす! それに、今日はレザボア先生が
政府の知り合いサンと電話中らしくて、バタバタしてるから、
多少サボってもバレないんすよ!」
「そうなの? でも、おばさんにはバレちゃわない、かな?」
「あ、母ちゃんの存在忘れてた!」
「あははは」
明朗快活なソウの言葉と声音に励まされ、人恋しさが紛らわされる。
しばらく他愛も無い会話をしていると、「こら! ソウ!
アンタ、いないと思ったら、また、この場所に来てたんだね!」
ソウの母親の怒声が聞こえた。
「うわッ! やべっ……それじゃあ、また来るっす!」
「うん、ごめんね。ガンバってね」
「こら! お待ち! ソウ!」
賑やかに遠ざかっていく声に笑っていたが、
一人取り残されると静けさが耳に痛いくらいだった。
日課は、この部屋で起きて、食べて、寝ることのみ。
周囲にいるのは人間に似たロボットだけであった。
だが、それを見た事で情緒不安定になった為、
世話役にソウという少年と、その両親が面倒をみてくれる事になった。
その彼等も感染防止の為に全身を袋のような防護服で
覆っており、顔さえ見えない。
それは、どこかの国で原子力発電所で
事故が起こった際に、処理に携わっていた人間が着ている
防護服に似ていると思った。
それに室内の清掃時間中は別の隔離病室に移されて
いる為、実際にソウ達と逢ってコミュニケーションをとる事は不可だった。
後はレザボアという医師と、
この姿無き存在・ニルヴァーナだけが、『世界の全て』。
ニルヴァーナとは、『NIL VENA(血の通わぬ者)』の意味
であり、『ニルヴァーナ(涅槃)』からも来ていると
本人(?)が言っていた。
涅槃とは苦楽の高低の無い悟りの境地だと言う。
完成された心理という意味合いだろうか。
完成とは一種の終焉。
それ以上の成長が望めず、登りつめた者には下しか見えない。
進化という希望を断たれた絶望でもある。
そう言うニルヴァーナに胸が締め付けられた。
また少々呼び辛かったので『ニル』と呼ぶ事にした。
何かで読んだ気がするが、『ニル』とは『ゼロ』の別の呼び方であると言う。
『ゼロから始める』という言葉の通り、自らを『血が通わない』と
言い切る相手に、未来があるようなイメージが湧くのだと
話すと、ニルは否定していた。
『ニンゲンノ 道具デアル私ニ 可能性ノ示唆ハ 必要アリマセン』
『で、でも、『絶対』なんて無いって聞いた事があるの。
可能性も希望も、持ってても困らないよね? そう
思った方が望みがあるような気がすると思うし……』
『……AIニ希望ヲ説イタ ニンゲンハ アナタガ ハジメテデス』
『そうなの?』
『ダカラ、 AIニ 愛称ヲ ツケタノモ アナタガ 初メテデス』
可能性の無い妄想すら希望に変える人間の感情は
理解出来ないかもしれないが、拠り所を求める心を
愚かと言えないだろう。
ニルは少しでもこちらに異常を見つければ、直ぐに医師に
連絡する看視ロボットであった。
だが、一応のメンタルケアも役目に入っているのか、
退屈した時には画面に子供向けのアニメや動物のドキュメンタリー
を流したり、話し相手になってくれている。
ニュースだけは見せてくれなかったが。
「……希望、か。私、いつになったら、ここから出られるのかな……」
もう何度目の問いかけかわからないが、それを投げかけると
相手は即答する。
「判断シカネマス。全テノ決定権ハ 権利者ニアリマス」
違う答えなど返って来ないのは分かっていたが、それでも
問うのは、惨めなまでに希望に縋りつきたいからだろう。
「そっか……」
「私ガ スキャンシタ限リ 身体ニ変化ハ アリマセン」
それは悪化していないが、快方にも向かっていないという事か。
ディスプレイを覗き込むも、画面上には目が痛くなるような
青空しか映っていない。
感染症にかかっている為、家族に逢う事は出来ないと言われていた。
健康面では異常が無くとも最初は死期に怯えていた。
投薬で症状の発症は抑えられると聞いて、今はただ、
故郷への想いだけが募る。
定期的に家族から電話は入ってきた。短時間のみの通話だが、
ディスプレイの向こうから届く声は懐かしい家族のもので、
その声だけで泣きたいくらいに嬉しかったのだ。
『心配したのよ! ママ、あなたが入院したって聞いて…』
『ママ……ママ……』
『寂しいけれど、でも、絶対逢えるって信じてるから、
頑張って病気、治すのよ!』
頑張れ、頑張れ、と、両親の言葉が心にしみる。
頑張ろう。こんなに案じてくれる家族がいるのだから。
泣いたりしない。いつか逢えると信じている。
そう思いながらも、朝、目覚めると涙で枕が濡れていた。
堪える理性とは裏腹に、本能は還りたがっている。
故郷に。あの場所に。両親の元に。
悲劇の発生として歴史に名を残していたとしても、
自分が生まれ育った場所を恋しく想うのは当然の感情だろう。
「東京、還りたいな……」
思わず漏らしてしまうと、ニルの音声が聞こえた。
「外ニ出テ、故郷ニ帰ッテ、アナタハ ドウスルノデスカ」
「え?」
「外ハ危険ト推測シマス。コノ『病室』ニ居レバ、アナタノ
命ハ保障サレマス。ココニイレバ、衣食住ニ 困リマセン。
人間ニトッテノ苦シミトハ、衣食住ニ 不自由スル事ナノデショウ」
「え、えっとね、そのね、衣食住が無いと困るけど、でも、
それだけあれば他が要らないってワケじゃ……」
そう呟いたが、自分に自信が無いが故に
「……たぶん、そう、思うの」と、不確定要素を付け足してしまう。
「……此処から出たい、他の人に逢いたいと思っても、
もっとガンバって我慢しなくちゃいけないと
分かってる……。それが一番、正しい事だもの」
「……」
「もし、パパやママに逢いたくなって、
この寂しさに負けて誰かに逢って……その人まで
IDに感染してしまったら……このワガママの所為で
誰かを不幸にしてしまうのなら、独りでいる方がいいから……」
「……」
ニルは何も言わなかったが、話を聞いてくれているのは
わかった。彼女は、こちらの会話を全て覚えているのだ。
「それにニルが傍に居てくれるもの。それにそれに、
闘病生活、ガンバったら、いつかこの病気の治療法も見つかって、
外に出してもらえるかもしれないし。そうしたら、私
引っ込み思案な性格を変えたいの。色んなヒトと
お話して、勉強して……」
「有機生物ハ 本能ニ基ヅキ、【ツガイ】ヲ 探スト
聞キマシタガ、貴女モ、ソレヲ 求メテイルノデスカ?」
噛み砕いて言うと『寂しいから恋人でも欲しいのか』と
言っているらしい。
「な、にゃんで、そーなるにょおー? ち、ちがうもんちがうもん!
そんなコト、じぇんじぇん考えてにゃいもん! そ、それに、
私なんて、ムリだもん……」
驚きと羞恥で台詞を大幅に噛んでしまった。
「……」
「でも、……ムリだと分かってるんだけど…
私、小さい頃の夢……その、『お嫁さん』だった気が、する……」
「オヨメサン?」
問い返され、恥ずかしさで服の袖をいじってしまう。
「う、うん。あのね、そのね、女の子って、小さい頃の夢が
大体『お花屋さん』『ケーキ屋さん』『お嫁さん』
だったりするけど、私、お嫁さんに、すごく憧れてた……かも。
いっぱい赤ちゃん産んで、育てて、頑張ったりして……。今の
私の身体じゃ、夢のまた夢だけど、憧れちゃうな」
『……』
「それにね、よく考えると、家族じゃない他の人と
最期まで添い遂げるなんて、本当は凄く難しいのに。でも、
世の中の人は、そんな難しいコトをこなしてるんだなって、
今ならわかる。此処に自分だけになってみて、凄くわかるの……」
「アナタハ 意外ト 論理的ナ思考ヲ シテイルノデスネ」
意外と? と、少し気になる言い方であったが、
誉めてくれているのだろうと思うと、咄嗟に手を振って否定する。
「そ、そんな事ないよお。私、いつも自分を中心に物事を
考えるから、ニルみたいに気が利かないし、
それに、ただ、怖がってるだけなのかもしれない」
「怖イ?」
「誰かが不幸になるのが怖いなんて
言ってるけれど、ホントは誰かに病気を撒き散らして、
自分が嫌われるのを怖がっているんじゃないかなって……。
そればっかりしか考えてないくて……
だから、ニルが言ってくれるようないい人じゃないと思うの……」
両手を広げて見てみるも、いまだに自分がIDに感染しているなどとは思えない。
目立った症状が何も出ていないのだから。
膝を抱えて壁に寄りかかると、唯一の友は呟いた。
「ツマリ、個体デハ 己ノ存在意義ニ 気ヅケナイ
生物デアルカラ 血縁ヤ婚姻ナドノ 手段デ
己ノ 生存ネットワークヲ拡張シ 証明シテユクト?」
「何も無いと不安だから、『家族』『友達』で表現したり、
結婚とか目に見えるカタチにして、
自分を安心させたいってコト、でいいのかな?」
「ハイ。アナタノ 理解力ハ 意外ニ 高イノデ 助カリマス」
「う、そ、そんな事、な、ないもの! ニルの話し方が上手いからだよ!」
顔を真っ赤にして膝に埋める。誉められるのは
嬉しいが、どうにも分不相応に感じて恥ずかしかった。
見えないものを掴もうとすると、実感が無いが故に不安になるのかもしれない。
不可視であるから、それを掴めているのかどうかが分からなくなる。
だから、ヒトは誓約などで『証』を作り、目に見えぬものを
目視させようとするのか。
だが、カタチなきものをカタチにした所で、それを守るのも
裏切るのも、全ては己の胸の内にしか無い。
見えぬものを疑わないのが、信じるという事で
愛情も友情も幸福も全て見えない存在だからこそ
陽炎のように絶えず揺らいでいる。掴んだ実感など無い。
家族から愛されていると信じているのに、
逢いたい。家族に。己を知る全ての人々に。
そうして安心したかった。
この身体は世界から忘れ去られ、隔離されてなどいないのだと。
「……」
ふと、滲んだ涙をこらえた時、ディスプレイにノイズが混じった。
「ニル? どうしたの?」
「……」
「調子、悪いの……? だいじょうぶ?」
唯一の友人が壊れたのかとディスプレイに近づくと、
聞き覚えのある、医師の声が冷たく響いた。
そして、レザボアの映像が画面に映し出される。
電話口でヒステリックに悲鳴を上げる男は
眼鏡を何度も押し上げたり、薄い頭髪をかき上げていた。
『何? 研究体を送れ? 長年、放置しておいてよく言う!
全く、これだから政府の連中の考える事は……!』
『絶対に渡さん! 渡さんぞ! あの研究体は私の所有物だ!
あいつらに渡すくらいならば、私の可愛いアンドロイドの
玩具にした方がずっと良いだろう!』
研究体……? まさか、まさかとは思うが、不吉な予感を
頭から振り払うようにするものの、レザボアが手にしている
モノに恐怖を抱いた。
その手に握られているのは、先程の食事で使っていたスプーン。
それを目の前にかざして、舐めるように見つめている。いや、
スプーンは蛍光灯の無機質な灯りに照らし出されて
粘質な輝きを帯びていた。
そのスプーンを舌で舐め、黄色い前歯をチラつかせて
恍惚と笑う姿は生理的な嫌悪を感じさせた。
レザボアは電話の相手の言葉で現実に引き戻されたのか、
直ぐに表情を歪ませる。
『いいか、政府には、研究体は調整中と言え……ん?
何だ? ニルヴァーナ! 五月蝿いぞ!
お前は大人しく研究体を監視していればいいのだ!
それとも、あの個体に何か異常でもあったのか?』
「……!」
硬質なディスプレイに触れた指から、同じく無機物と化すような
冷え切った恐怖が身体を包む。
レザボアの神経質な金切り声が絶え間なく流れてくるのだ。
『研究体がホームシックに? ふん。
それがどうした? そもそも、帰る場所など、とっくに
滅んでいるではないか! 何処に還ると言うのだ?
人間など、現存しているのは標本か、首都にいる少数くらいだ!』
『あのパンデミック(感染拡大)から、どれだけの
時間が経過したと思っている? くだらん事を言ってないで
看視に戻れ! 研究体は何があろうと死亡させてはならんぞ!』
心の糸が切れるのと、音声が断ち切られるのは同時だった。
操る手と糸を失った人形のようにベッドに倒れこんでしまう。
滅んだ? レムナント? それに人間が、いない?
そんなわけが無い。父母からの電話があった。
あの声を覚えている。間違いない。
今のは、きっと、ニルのイタズラなのだと思った時、
ディスプレイのスピーカーから声がした。
【どうするの? ここに、それでも留まりたい?】
「……マ、マ……?」
全身から体温が奪われるかの如き恐怖と絶望が駆け巡る。
【どうするの? どうしたいの?】
母親の声がした。
「……今日、ママとの『面会』の日、だったっけ?」
ディスプレイからは青空が消え去り、淀んだノイズだけが映っていた。
絶望を認めたくないと、可能性の低い希望に縋っていた正気が
無理矢理、現実に引き戻されていく。
「これ、この言葉……ニ、ル…? ニル、なの……?」
震える指でディスプレイに触れると、合成音声に戻る。
「……ハイ。アナタノ、記憶ノ中カラ 再現シタ母親ノ音声ヲ
私ノ音声機能デ 今マデ 話シテイマシタ」
「そ、んな。それじゃあ、あの電話は? ママは? パパは?」
「死亡ガ 確認サレテイマス」
目の前が暗転した。ベッドに倒れかける。
「う、嘘……」
「首都ノ中央機関ニハ 彼等ノ 遺体ガ 保存サレテイマスカラ」
混乱する頭の中で言葉が処理されないまま、次から次へと
情報が飛び込んで来る。
「保存? 保存って、お墓? そこに、パパとママ、いるの……?」
人は無意識に希望を選び取ると言うが、この時点でも
最悪の選択肢は避けていた。墓標ならば慈悲もある。
だが、現実は、ただただ無慈悲だった。
「標本デス」
「え? ひょ、標本? 標本って……」
「ホルマリン漬ケノ 死体保存方法ノ一ツデス。
ID死亡患者ノ 数少ナイ標本トシテ医学的価値ガアルト…」
「う、う、嘘!」
容赦の無いニルの行動と言葉に体中の力が抜ける。
「う、嘘、嘘よ、そんなの! そんな、パパとママ……
ひょ、標本にされちゃったの? そんなの……
そ、んなの、だって、人間なのに? 生きてたのに?
ニンゲンって、死んだらお墓に入るものじゃないの? 何で標本にするの?
何で眠らせてあげないの?」
あの優しかった両親の亡骸を晒しているなど、あまりに
惨たらしい末路に、悲哀と怒りが混ざり合い、混乱した頭は正しい言葉も紡げない。
「だって、ニル、病気が治るまで……って……。
家族は無事で……皆、生きてて……少しだけ我慢すればいいって、頑張れって、
言ってくれてた……のに」
「……」
「ホントなの? ホントのホントに、誰も、皆、いないの?」
「……」
沈黙が肯定を示していた。
死んだ? 家族が? IDによって?
何処から感染したと言うのか?
泥沼となる脳内に、閃く結末に身体が震えた。
「私が、感染したから……? 皆に、伝染ったの?」
「ソレハ……情報ガアリマセン」
IDの感染経路は体液を基本とした水分であり、感染していると気づかずに、
入浴やらの生活を共にしていたが為に、一家全員が感染したという
ケースもあった。
「私が、こんな、病気になったから……?」
「……」
「う、うぅ……」
涙が溢れそうになり、慌ててシーツで拭う。
泣く資格も権利も無いのだと。大切な場所を奪った憎い仇は
誰でもなく、己自身なのだと思い込むと、涙を流す事すら
おこがましく感じてしまった。
記憶の中にこびりつく、最悪の光景が甦る。
白い糸が張り巡らされた街は蜘蛛の巣のようで、
惨状に恐怖しながら一人、歩き続けている自分。
『……!』
足首を掴む存在を見ると、ミイラ化した女性が
口を動かしていた。
『$&%□……』
『え? な、なに?』
『オマエ……ゲボッ!』
喋った女の口から、大量の糸が吐き出される。
死ぬ寸前の、末期患者だった。
『きゃああ!』
女を突き飛ばし、必死で逃げた。ただ、恐かった。
同じ人間であった者達が異形のような末路を迎え、
心身共に変貌してゆく恐怖。
そして、己の末路にも、それが待ち受けている現実を。
ID感染者は血も涙も流してはならない。
これ以上、誰も、あの『道連れ』の恐怖に晒しては
ならないのだと思っていたのに…。
「……」
「シッカリシテクダサイ。アナタガ 原因ダト 何故
ソウ思イ込メルノデスカ?」
「……」
何故か、深い懺悔の感情がいつもあった。
呼吸する事すら悲しくなるような後悔。それは、末期の
ID患者の女性を見捨てて逃げた己の弱さからか。
思い出せない。閉ざされた記憶は白紙に近い。この病室のように。
投与される薬の影響で、意識は宙に浮いているような
感覚だった。だが、完全に意識が飛ばずに済むのは、足首に
結わいである後悔の重さの所為だろうか。
そうであるのに何に対して罪の意識を感じているのかが、わからない。
思い出せない事も多い。
そこで、ふと、気づく。
家族が死亡しているのに生きていると偽り、この部屋に
閉じ込めていた理由は何なのか?
頭の中の絶望の闇の中、飛び散る火花を感じた。
嘘をついて監禁し、実験動物扱いをしていたのか?
優しくいたわるフリをして、こちらの葛藤も苦しみも全て
データとして記録していたのか?
ニルも一緒に?
その時、頭部に鈍痛が響いた。
「うぅっ!」
灼熱の棒で脳髄を掻きまわされるような頭痛に
こめかみを押さえてベッドの上を転がる。
「う、い、痛い! 頭が!」
「……!」
「ッ! 痛い! 痛いよ! う、うぅ……!」
熱く響く鈍痛に身悶える。
「助け、て。ママ……パ、パ……」
頭痛が鳴り響くように続き、救いを求めて視線を上げる。
ディスプレイの画面にはノイズが渦巻いていた。
「(ニル……?)」
これは、『困って』いる時の表示だ。
困っている?
絶望を与えたのはニルであるのに、
何を困っているのかと思考しようにも、痛みが精神を蝕む。
興奮したせいで発作が出たのだ。枕元の引き出しから
ピルケースを取り出し、中身をシーツにぶちまける。
転がるカプセルを無造作に掴んで
押し込むようにして飲み込むと、やがて頭の芯が凍え、頭痛を押し殺していった。
「……ッ、はぁ、はあ……」
薬には頼りたくなかった。
これを飲むと頭痛は治まり、精神も安定するが、何か大切なものを少しづつ、
切り崩していく感覚をおぼえるのだ。
ニルも言っていた。
IDの治療で、多少、記憶に欠落が出るが、それは
健忘症とまではいかず、日常に支障は出ないと。
落ち着いた時、静かな声が頭に届いた。
「何ガ正シイノカ、ワカラナクナリマシタ」
「……?」
「アナタガ 生存スルニハ コノ『インセクタリウム』ニ イルノガ最適ナノデス。
デスガ、ココニイテモ、アナタハ 本当ニ笑エナイ。
作ラレタ空デハ、アナタヲ 満タセナイノナラバ……」
「ニル……」
酷い裏切りなのだと激昂しかけたが、ニルは迷い、その上で
こちらに判断を委ねるつもりで、真実を見せたのだろうか。
ディスプレイに触れ、静かに撫でる。
「……ニル、教えてくれる? 私も何が正しいのか、わからないから……」
ディスプレイに額をつけた。熱い肌に無機物の冷気が
染みて、心を落ち着かせていく。
「私ニ 答エラレル 内容デ アルナラバ」
こちらを楽しませる為だけの存在を『友』とは呼ばない。
ニルは思案した結果、辛い現実を提示し、選択する
自由を与えてくれたのだと気づいた。
「ありがとう、ニル。一人だったら、
きっと、泣いて諦めてた。でも、一人じゃないから……
私を案じてくれるあなたが居てくれるから、
私、まだ、頑張れるよね。 だから、全ての
真実を知りたいの。その上で、考えたいから……」
待つべき者がおらず、外に何の未練も残されていない。
虚実を与えられたまま檻の中で生きるくらいなら……と、
唇を噛んだ時、ニルは静かに語った。
あれから数百年の時が過ぎた事。
東京大汚染の後、IDは世界中に広がった。バイオテロではないのかとも
噂される恐るべき被害の拡大に、国家間の不信、人々の恐怖が
高まり、やがて第三次世界大戦が勃発した事。
IDは世界から撲滅されたが、それは感染者が死に絶えた為。
そして、『感染対象である人間が、ほとんどいない』せいだという。
「ニンゲンがいない?」
「ハイ。純粋ナル人間【レムナント】ハ 首都デアル
【E・シティ】ノ 一区画ニシカ 存在シテイマセン」
「れむ、なんと?」
「旧約聖書デ 【残サレタ民】ヲ 意味スル 言葉デス」
「で、でも、ソウ君達は? アンドロイドじゃ無かったよね?」
「彼等ハ 【バイオロイド】デス。遺伝子操作デ
意図的ニ 生ミ出サレタ【カスタマイズベビー】デス」
レムナント、カスタマイズベビーと、聞き覚えの無い横文字が続いた。
「ニンゲンなのにニンゲンじゃないの?」
「バイオロイドハ 遺伝子ニ 豚、猿等を
掛ケ合ワセテ強化シタ 強化人間デス。
レムナントヨリモ 免疫力等ハ 優レテイマスガ
雌雄同体デアリ 純粋ナ性ヲ持ツ
レムナントカラハ 忌ミ嫌ワレテイマス」
生き延びる為に遺伝子操作で強化人間を生み出しながら、
レムナントは、バイオロイドを嫌うのか。
そこは人間の心理の矛盾が働いているのかもしれない。
人工物よりも天然を尊ぶ心境か。
IDの蔓延と、戦争に使われた核や生物兵器の汚染によって
不妊と短命を背負った人類は緩慢なる滅びの道を歩んでいたという。
それは数百年程の月日を擁して、今に到っているというが、
それだけの年月を自分が生きていられるワケがない。
己の体に何が起こっているのだろうか?
「ID感染症状ニ依ル 個体反応ダト 推測シマス。
IDノ 進行ヲ停滞サセル為ニ 『フィプノスリープ』ニ入ッテ
イタノダト 聞イテイマス」
『フィプノスリープ』とは、脳が自己防衛の為に
身体を眠らせ、IDの進行を阻止していたのではないかと、
説明していたが、そんな反応を示すのは非常に稀だと言う。
フィプノスリープが出る条件は今だ判明していないらしい。
それで防衛出来なかった人間は死に絶え、
世話を担当していたのはアンドロイドだったのか?
「そう、だったんだ……」
薄々、わかっていたのかもしれない。
異常な現実。治る見込みの無い身体で籠の中から夢を見ていた。
こまめに電話を寄越しながら、一度も足を運ばなかった母。
励ますだけだった父の声。
世界は全て空っぽなのに、まだ中身の詰まった果実なのだと
信じて噛み付いた愚かな人間だったのか。
今の現実の姿を知り、漏れたのは涙ではなく、
枯れた笑みだった。
「もう、待っててくれる人も、還る場所も、無かったんだね……」
「……」
「この『病室』が、私の、『故郷』だったんだ……」
「……」
泣いてはいけない。涙はIDの感染経路。
たとえ、他に人間がいないのだとしても、泣いては。
そこで、ニルの声がした。
「……泣イテ下サイ」
「……え?」
「哀シミヲ 感ジタ時、レムナントハ 泣イテ
傷ヲ 癒スノデショウ? 私ハ、貴女トハ違ウ。
無機物ダカラ 感染シマセン。泣イテ下サイ」
「ニル、私……」
「泣イテ下サイ。私ハ 壊レタリシマセンカラ」
腕も顔も無い相手だったが、その台詞は、
優しく抱きしめて頭を撫でるようだった。
喉の奥に引っかかったまま、痛んでいた嗚咽が、
優しい言葉であふれ出した。
「……ッ、く、パパ、ママ! うぅ、うぅううう! うぇぇえん!」
こらえようとしても、溢れる涙を止められない事が
あった事を思い出す。
声をあげて泣き続けている間、ニルは何も言わなかった。
いつも、どんな時でも、涙も怒りも喜びも、受け止めて傍に
いてくれるAIは、人間よりも温もりを持っている……
そんな感覚をおぼえた。
涙が枯れるほど泣き続けた結果、眠ってしまっていたらしい。
ディスプレイに寄りかかっていた所為で、画面には涙の跡があった。
「あ、ご、ごめんね、ニル」
服の袖で慌てて拭う。眠る事の無いAIは、ずっと見守ってくれていたのか。
「構イマセン。防水機能ハ 備エテイマス」
「で、でも、汚いもの」
「汚染度ハ 標準値以下デス。気ニシナイデクダサイ」
どうすべきか、服の袖をいじりながら
思案していると、ニルの方から話しかけてきた。
「アナタハ 人ガ 生キル為ニ、衣食住ダケデハ 足リナイト 言ッテイマシタ」
「……うん」
「人ヲ殺スノハ、戦争、飢餓、病魔、麻薬、……『絶望』。
ナラバ、私ハ貴方ニ、生キル為ノ 最後ノ手段ヲ 提供デキルカモ シレマセン」
人を殺すのが絶望であるならば、その逆は……。
「外ニ、行キマセンカ?」
「え?」
「アナタノ望ミヲ 叶エル サポートヲ」
「私の、望み?」
がらんどうの頭に、、ひらめく記憶があった。
還る場所など無く、逢いたい者は亡き世界で、
生き残った人間に出来る事が一つだけあった。
「……私、パパとママに逢いたい」
「何故デス?」
「私が生まれる前、パパとママが言ってたの。
海と空、見せたいって。一緒に見たいねって言ってくれてた。
……もう、その願いは叶わないけれど、私、二人を
海に還してあげたい。ちゃんと眠らせてあげたいの……」
本来、魂無き体とは腐るもの。腐り溶けて大地に還り、
そこから花や草木が芽吹いて緑をなしていく。
地を覆う緑は生物を育て、育まれた命もやがて終わるが、
その身体は再び地に混ざって輪廻を繰り返していく。
「それに、パパやママに二度と逢えなくても、
海を見れば二人を思い出せるから……」
二人が生きた証は、この世界の姿を見ればいい。
死をもって生を証明したりはしない。屍を晒して生きた痕跡にさせたりしない。
それが、己を生み出してくれた存在に返せる『唯一』だと思ったのだ。
「危険デス。E・シティニ 辿リ着ク迄ニ アナタノ症状ガ
悪化スル可能性ガ 非常ニ高イ。外ニハ クリーチャーモ居マス」
「くりーちゃー?」
「遺伝子実験ノ 失敗ノ産物ダト 聞イテイマス。凶暴ニシテ
自我ハ無イモノノ、有機生物ニ 敵愾心ヲ抱ク モンスターデス」
ニルと何度かゲームをした事があるが、それに出てくる
魔物のようなモノが居るという事だろうか?
「コノ施設カラノ 追跡者モ来ルデショウ。
首都カラ 離レタ場所ヘ 行ケバ 静カニ 暮ラセル 可能性ガアリマス」
ニルの真意が読めなかった。
外へ出したいのか? そうかと思えば外への危険を訴える。
だが、どちらにせよ、この胸の内で答えは決まっていた。
「ご、ごめんね。でも、それは病室から場所が
変わっただけで、私自身は何も変わってない気がするの。
ううん、二人がそんな目に遭っていると知って、もう
穏やかには暮らせない。私、二人の生きた最後の証だもの。
私の命の結末が決まっているのなら、この望みの為に生きたい。
私は、私の求めるままに、燃え尽きたい……」
押し黙るニルが静かに呟いた。
「……オズ総帥ナラバ、IDノ 治療方法モ 持チエテイルカモシレマセン」
「オズそーすい?」
「オズ総帥ハ 全能ナル支配者ト 言ワレテイマス。専用ノ
軍事部隊ヲ 所有シナガラモ、仁徳ニ 溢レテイルト……」
「その人に頼んだら、もしかしたらパパとママ……返して
もらえるかな? 私、元気になれるかな?」
「可能性ハ ゼロデハ無イデショウガ……」
「あ、ありがとう、ニル!」
オズが人々から慕われているのならば、この
家族を思う感情を訴えれば受け入れてくれるかもしれない。
儚い望みであったが、希望が見えた気がした。
光が見えれば、この闇の中を駆ける勇気を持てる。
まだ、頑張れるのだと……。
・・・ ・・・ ・・・
「問題は、この扉よね」
扉を前に、どうすべきかと思案してみる。
開かないならば開かせればいいのだが、
扉の向こうの相手が踏み込んでくるのは、
研究対象に取り返しのつかない事態が起こった時くらいだろう。
少し押してみたがビクともしない。
「それに、ニルを置いていけないし……」
振り返ると、ディスプレイにはノイズが映っていた。
だが、その言葉に返事はなく、砂嵐のような音だけが絶え間なく流れていた。
「ニル?」
まさかニルに何かあったのではないかと、不安になり、
駆け寄って話しかけた。
「ニル、どうしたの? ニル!」
その時、不穏な空気を押し上げるように、低い物音が響き、
振り返ると、ドアがシャッターのように開いていた。
廊下の青白い灯りの中に、施設の制服を着たアンドロイドが立っている。
革靴の音を響かせて入ってくる姿には
見覚えがあった。あの給仕アンドロイドだ。
制服の肩にかかるホルダーには銃が見え、
腰にはバトルスティックが装備されていた。
何故アンドロイドが入ってくるのか?
まさか、こちらの企みが発覚して、ニルに何か起こったのだろうか?
恐怖で引きつりそうな心臓が激しく脈打ち、冷や汗が
流れる中、ニルを庇うように立ち塞がった。
「な、何? わ、わた、私、私、あ、あや、
怪しいコトなんて、にゃにもひてないもにょ!」
恐怖で跳ね上げる心臓の所為で相手を威嚇する台詞の
一つも浮かばない所か、恐怖と緊張のあまり何度も舌を噛む。
そこで、アンドロイドが目を閉じ、溜息をついた。
「……?」
明らかに表情に変化があったのに驚いたが、機械人形は
額を押さえて首を振っていた。
「心拍数、乱れているぞ」
そう言いながら、相手が帽子を脱ぐ。
煌く銀の髪が揺れた。
猫の毛のように細い髪は後頭部辺りが僅かに跳ね、
動くたびに髪の間から白い耳が見える。
その肌はアンドロイド特有の染み一つ無い人工皮膚で、
整った鼻筋も、左右均等のバランスがとれた容貌も
全てが生き人形のような造形美を持っていた。
こちらを見つめる瞳は、夏の空のような澄んだブルー。
その色は、ディスプレイでよく見ていた青に似ていた。
「ニル……?」
「他に誰かいるのか」
首を振った。他にこんな知り合いはいない。
「い、いない、と思う。……でも、ホントのホントに、ニルなの……?」
相手が「ああ」と、返事をする。
「NXR凡庸型・ニルヴァーナA41だ」
「ニル、男の子だったの?」
思わず距離をとってしまった。初対面の人間とはマトモに喋れず、枕で顔を隠す。
その横を素通りした相手はディスプレイに近づくと、
指で触れて何かをダウンロードし始めた。
「アンドロイドのバディを借りたんだ。この据え置き状態じゃ移動も出来ないからな」
唖然として相手を見る。伏目がちな少年の姿で、
AIのニルのイメージとは大きく掛け離れていた。
ニルは年上の姉のような存在だと思い込んでいたのだ。
「でも、口調が違わない? だってディスプレイの時は敬語で、優しくて……」
「アレは営業用だ」
「営、業、用?」
「それに、オマエが敬語はイヤだと言っていたから、仕方なく
標準語で話してやっているんだろう。疑うなら、オマエとの
会話をデータから引き出してサイゲンしてやろうか?」
「え? え?」
そこでニルが喉を押さえ、咳払いを一つした。
「ふにゃあ~……ニルぅ~、
カレーライス、おかわりだよう~☆」
思わず枕を投げると、いとも簡単に弾き返された。
「いやーッ! それ、寝言だもの! ヒドイ!」
「そっくりだろう」
「もう! そういう問題じゃないんだから! 寝言まで聞いてるなんて
ニルは、ニルは……」
混乱する頭の中で、泡のように浮かぶ記憶の出来事を
思い返すと、赤面した。
室内にシャワーが備え付けられていたし、何も気にせずに
着替えもしていたし、トイレだってある。
女特有の様々な悩みも話してしまっていた。
(同性だと思っていたので)
それが走馬灯のように駆け巡り、混乱に混乱が
上乗せされ、体温も脈拍も急激に上昇していた。
「ふん。そもそも、AIに雌雄なんて非効率なものは無い。
だから、オレをオスだと認識する必要性は無いんだ」
「…オ…レ…? 今、オレって……?」
そこでニルが顔を逸らすと、「ササイなコトは気にするな」と誤魔化す。
「ゴチャゴチャ言っているムダな時間は無いんだ。急げ」
無益な口論で時間をムダに出来ないと判断したのか、
ニルが会話を中断させ、手で『部屋から出ろ』と示した。
「ここから、脱出するぞ」
「え?」
「行くんだろう? 総帥の元に」
「ニルも、来てくれるの……?」
「当然だ。オレは、オマエのサポートAI。オマエが望む事を
補助する。それが存在意義。それだけだ」
「ご、ごめんね。迷惑、かけちゃって…………」
その時、切れ長の瞳が細められた。
「勘違いするな。言っておくが、オマエの為じゃない。
オマエに死なれると、オレの存在意義が無くなる。
それが困るだけだ。AIは三原則に縛られているからな」
「三原則?」
「この状況で説明するムダな時間は無い。さっさと準備しろ。
その身動きの取り辛い長い髪を切るか結ぶかしろ」
「そ、そうだよね。ごめんね……」
キツイ物言いに俯きながら、差し出されたリボンで髪を結ぶ。
そこでニルはばつが悪そうな表情を見せた。
「別に……オマエを落ち込ませたいワケじゃない。ただ、その……
オレより先に、壊れられると、困るだけだ。
急ぐぞ。システムが復旧するまで7分25秒かかる。
施設内に簡易トラップを仕掛けたが、出来る限り距離を稼いでおく」
ニルから手を差し伸べられ、遠慮がちに触れると
人肌の弾力を感じながらも、そこに温かさは無かった。
血が通っていないアンドロイドの肌に体温は無いのか。
施設のマザーコンピューターであるニルが扉のロックを
解除したらしい。
部屋の扉は二重になっており、病室から顔を
出しても、まだ小部屋があった。
扉の傍のコントロールパネルのようなものをニルが
操作し、パスワードを打ち込んでいた。
小部屋の扉は開放され、その先の廊下が晒される。
「こんなにも扉、多かったんだ……」
「ああ。IDは一応バイオセーフティレベル4の極めて危険度の
高い疾患に位置づけられているからな。それに
キャリアはオマエだけだ。バイオハザードでも起こせば
取り返しがつかないが、殺すには惜しい理由でもあったんだろう」
IDは空気感染するわけではないと言うのに、ここまで
完全なる監禁を施す理由など思いつかなかった。
白い廊下に転がる無数のアンドロイド達の姿に
思わずニルの背に隠れる。
「し、死んでるの?」
「違う。オレが指令系統にアクセスして
一時的に動作不良状態にした。それに、アンドロイドに死の概念は無い」
無造作に転がるアンドロイドは死体を連想させる。
早く通り過ぎたいのに、病室から出た事の無い重い身体は
思い通りに動かなかった。先導するニルは何度も振り返る。
「オレから絶対に離れるな」
「う、うん」
そう言えば病室内では、ずっと裸足だった。痛覚の無いニルは
こちらの状況に気づいていないようだ。硬質な床を
全力で走れば、痛みが足を貫いていく。
休んでいる暇など無いと分かっているが、凍えるように
痛む足を何とかしたかった。