雷が落ちた瞬間、人生も軌道を外れた。
「大好きだ、アルジャーノン」
ずぶ濡れの制服。肩に打ちつける雨。
息がかかる距離で、黙って抱きしめていた。
頬に触れる髪が冷たくて、それでも温かかった。
──それから、物語は遡る。
すべての始まりだった、あの朝へ。
*
ロンドンの街に、冷たい雨が降っていた。
「……最悪。なんで今日なんだよ」
日渡章吾は、泥の跳ねた革靴にうんざりしながら、キャリーバッグを引く。
目の前には──石造りの校舎、Elargrave College(エラグレイヴ・カレッジ)。
完璧に刈り込まれた芝生に、どこか博物館めいた静けさが漂っていた。
(……こたつとみかんの方が、百万倍ありがたい)
しかし、父は言った。
「一流のリーダーには、一流の学び舎を」
こうして章吾は、この全寮制の男子校に、放り込まれたのだった。
額をぬぐいながら、章吾は深く溜息をつく。
「……日本帰りてぇ」
その瞬間だった。
空が、雷鳴で裂けた。
思わず顔を上げた、その先に──ひとりの少年が、中庭に立っていた。
金色の髪。濡れたような青い瞳。
何もかもが現実離れしているのに、視線だけが真っ直ぐだった。
章吾は、言葉を失っていた。
彼の唇が、確かに動いた。
「……君は、誰だ」
声は聞こえない。それでも、わかる気がした。
章吾は、ふいと視線を逸らし、キャリーバッグの取っ手を握り直す。胸の鼓動がおさまらない。
──たった一度、目が合っただけなのに。
その一瞬が、目に焼き付いて離れなかった。
*
雷は、いつの間にか遠ざかっていた。悪天候にもかかわらず、講堂の中は不自然なほど静かだった。
(……なんだったんだ、あれ)
泥。雨。雷光。
金色の髪。青い瞳。
──そして、あの視線。
ほんの数秒の出来事なのに、頭の奥で、何度も繰り返している。
ふう、と浅く息を吐いて、章吾は椅子に腰を下ろした。
正面には重厚なパイプオルガン。ステンドグラス越しの雨空が、鈍く滲んで見える。
壇上では、式典が粛々と進んでいた。
校長、卒業生代表、理事──よく通る声が、雨音の記憶を上書きしていく。
……そして。
次に舞台に現れたのは──あの、雷のなかの少年だった。
燕尾服に身を包み、静かに立つ。一切の無駄がない、完璧な所作。照明に浮かぶ姿は、まるで絵画のようだった。
「在校生代表、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」
(……名前、長っ)
章吾は思わず眉をひそめた。
アルジャーノンは、壇上から視線を滑らせるように客席を見渡した。その動きは淀みなく、美しく、冷たかった。
目が合った──ような気がした。
その一瞬、章吾の背筋に、微かな緊張が走った。
続いて、式次第は「新入生成績発表」に移っていく。壇上に立った校長が、名を告げた。
「Top of the class──Shogo Hiwatari」
(首席──日渡 章吾)
講堂に、ざわめきが広がった。
すぐに気づく。多くの視線が、自分に向いていることに。
「無名のアジア人が首席?」
目は何も言わないけれど、空気は語っている。
(……ふぅん)
章吾は無表情のまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、壇上を見た。
あの金髪の少年が、いた。
それから、目が合った。彼の眉が、ほんのわずかに跳ねる。
──敵意。
(……なるほど)
章吾は、鼻で笑った。そして、口の端を少しだけ吊り上げる。
ざわめきも視線も、敵意も。そのすべてが、なぜか心地よかった。
(最悪な始まりも──悪くない。ちょっと、面白い)
*
寄宿舎の扉を開けるなり、陽気な声が飛んできた。
「チャドリー・モンゴメリー! みんなチャドって呼んでる! よろしくな!」
言うが早いか、がっしりと肩を抱かれる。
「ようこそ俺のテリトリーへ! ……ってのは冗談だけどさ、まずはハウスルールな!」
章吾は思わず半歩引いた。けれど、目の前の少年の明るさは、思っていたより悪くなかった。
手渡されたのは、一枚の紙。手書きで書かれた「ゆるすぎるルール」が並んでいた。
「カップラーメンは奪い合い禁止」
「夜中に叫ぶのは週2まで」
──ツッコミどころしかない。
(……ま、ちょっとくらいなら。ここで、やってみてもいいかも)
そう思いながら、個室の扉に手をかけた──その瞬間だった。
雷が、落ちた。
「……は?」
破裂音と同時に、空気が弾け飛ぶ。机の上のノートは宙を舞い、コンセントからは火花が散った。
天井からは、信じがたいほどの雨水。バケツをひっくり返したような音とともに、部屋が水浸しになる。
完全に、災害区域。
そこへ、タオル片手にチャドが飛び込んできた。
「おいおいマジかよ! お前、呪われてんのか!?」
章吾は、ぽたぽたと雫を垂らす髪をかき上げながら、小さく笑った。
「……笑うしかねぇだろ」
*
その夜。
廊下に響く革靴の音とともに、章吾はハウスマスターに呼び出された。
「Hiwatari。君の部屋は当分使えん。よって──」
重厚な扉の前で、淡々とそう告げられる。扉が開いた先に、立っていたのは──
燕尾服。金色の髪。
そして、突き刺すような視線。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。
「……気の毒だが、私の部屋はリゾートホテルではない。首席でも、間違うことがあるのだな」
完璧な仮面の奥に、確かな敵意がにじんでいる。
章吾は肩をすくめ、ふっと笑った。
「光栄だな、ルームメイト。俺から『学ぶ』いいチャンスだ」
その瞬間、アルジャーノンの眉が、ぴくりと動いた。
「……最悪だ」
「どういたしまして」
窓の外、再び雷鳴が空を引き裂く。ぶつかる視線。剥き出しのプライド。
稲光が、ふたりの間に一本の裂け目を走らせる。
しかし、章吾の胸は思いがけず高鳴っていた。
(……こいつとの喧嘩、楽しいかも)
嵐よりも危うく、どこまでも惹かれ合う、ふたりのルームシェアが──静かに幕を開けた。