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第34話 おはよう、Shogo

 雨は、夜のうちにすっかりやんでいた。


 早朝の空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から、少しだけ柔らかな光が覗いている。


「紅茶、いるか?」


 低い声が、カップを持つ手越しに届いた。


「……うん。砂糖は、一つ」


 章吾は素直に答えた。珍しいことに、アルジャーノンも何も言わなかった。


 ふたりは、寮の談話室の窓辺に並んで座っていた。


 制服は着替えていたが、髪はまだ湿っている。お互いに、乾かすのも忘れていた。


 テーブルの上には、あたたかい湯気の立つティーカップと、焼きたてのスコーン。


 どちらも、特別なものではないが、これ以上ないほど満ち足りた時間だった。


 章吾は、指先で薬指を触れた。そこには、まだ慣れない感触の指輪がある。


「ほんとに……これ、俺がもらってよかったのか?」


 ポツリと漏らした言葉に、隣から小さなため息が返る。


「また言うのか、君は」


「いや……なんか、夢みてぇだなって」


 アルジャーノンは、静かに笑った。


「これは夢ではない。そして君が思うより、私は本気だ」


 章吾は、照れたように顔をそらす。


「……だったら、お前のその笑い方、やめろよ。なんか、負けた気になるじゃん」


「勝敗ではない。これは、誓いだ」


 指先が、そっと重なった。そこにあるぬくもりを、互いに確かめるように。


「……なあ」


「うん?」


「卒業したらさ、いっしょに暮らすのって、アリか?」


「もちろん。だが、条件がある」


「は?」


「君が、私の家に来てくれるなら」


 章吾は目を丸くしたが、すぐに噴き出した。


「じゃあ、お前が日本に来いよ。うちのコタツ、最高だぞ」


「……コタツとは何だ」


「コタツってのはさ……帰ったら見せてやるよ」


 朝日が、ようやく雲の隙間から差し込んできた。


 ふたりのティーカップのなか、光がきらりと反射する。その向こうにある未来は、まだ霧がかかっているかもしれない。

それでも。


 この朝を共に迎えたという、それだけで、もう十分だった。


 章吾は、目を細めながら言った。


「おはよう。アルジャーノン」


 アルジャーノンは、少しだけ驚いたようにこちらを見たあと、微笑んだ。


「……おはよう、Shogo」


 窓の外では、小鳥が一声、鳴いた。新しい一日が、ふたりの上に始まっていた。


***


 時は遡って、10年前。


 荘厳なパイプオルガンの音が、白い礼拝堂に響いていた。


 日曜の朝。

 子供たちが集まる合唱団は、清らかな声で賛美歌を練習していた。


 その影。祭壇の裏で、小さな男の子が肩を震わせていた。


 やわらかな金髪に青く澄んだ瞳。まだ幼いアルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルだった。


「……っ」


 小さな手でぎゅっとローブを握りしめている。


 さっき。歌の音程がずれてしまっただけで、お父様に「精神が弱い」と叱責された。


 それが、あまりに悔しくて、悲しくて──涙を堪えきれなかった。


 そんな彼のそばに、ふわりと影が落ちた。


「アルジー?」


 にこにこ笑いながら近づいてきたのは、ブラウンヘアの、いたずらっぽい美少年──レジナルドだった。


「……みるな、レジー」


 アルジャーノンは、ぷいっと顔を背けた。レジナルドは、くすっと笑った。


「アルジーは、がんばりやさんだね」


「……がんばってなど、いない……」


 むくれながらも、震える声。


 レジナルドは、そっとアルジャーノンの手を握った。小さな手、冷たい指先。


「ぼくは、アルジーのこと、かっこいいって思ってるよ」


「……っ、なぜだ」


「がんばってる姿、ちゃんと知ってるもん」


 レジナルドは、きらきら笑った。太陽みたいに、あたたかく。


 アルジャーノンは、目を見開いた。


 そして──


「ありがとう、レジー……!」


 しゃんと顔を上げ、笑った。


 満面の、太陽みたいな笑顔で。


 レジナルドは、その瞬間──小さな胸の奥に、ふわりと、あたたかい何かが灯るのを感じた。


(……かわいい)


(……すきだ)


 そう、初めて思った。


 まだ「恋」という言葉を知らなかったけれど、レジナルドは、確かにその瞬間──アルジャーノンに、恋をした。


***


 ノートをめくる音が静かに響く。


 図書室の隅、チャド、章吾、レジナルド、アルジャーノンが勉強していた。


 ふと、章吾がぼそっと呟いた。


「なあ、レジナルド。おまえとアルジャーノンって、いつから知り合いなんだ?」


 レジナルドは、楽しそうに笑った。


「アルジーと僕? 小さいころからだよ。ほら、家族ぐるみの付き合いだったから」


「へぇー」


 章吾は気軽に相槌を打ったが、レジナルドはさらに爆弾を落とす。


「アルジー、昔は泣き虫だったんだよ? 礼拝堂の影で、よく泣いてたなぁ」


「っ」


 アルジャーノンは、珍しく頬を赤く染めた。


「……くだらん話をするな、レジー」


「ふふ、だって可愛かったんだもん」


 にこにこ。天使の微笑み。


「……おまえ、アルジーが好きだったのか?」


 章吾が苦い顔で問いかける。

 レジナルドは、まるで当然だというように頷いた。


「うん。あのとき、アルジーが僕に満面の笑みを向けて──それで、恋に落ちちゃったんだ」


 章吾、即死。


「はぁ!?ちょ、待て待て待て!!!」


 図書室に、章吾の絶叫が響く。


「なんだその運命みてぇなエピソードは!!ふざけんな!オレ知らねぇぞそんな話!!」


「だって、Hiwatari君には話してなかったもん」


 レジナルドは、けろりと笑う。


「大事な思い出だからね、僕とアルジーだけの」


 章吾は、地面に転がる。


「ぐぅぅぅ!!おまえら、なんなんだぁぁ!!」


「……くだらん」


 アルジャーノンは、ふっと目をそらす。


 が、その耳は赤かった。


 レジナルドは、章吾のジタバタを見ながら、にっこり満足そうに笑った。


(やっぱり、可愛いものは、昔も今も、変わらないね)


 心の中で、そっと呟きながら。


 ──そして章吾は、その夜ずっと、アルジャーノンを独占すべく、必死で勉強を手伝う羽目になったのだった。

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