雨は、夜のうちにすっかりやんでいた。
早朝の空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から、少しだけ柔らかな光が覗いている。
「紅茶、いるか?」
低い声が、カップを持つ手越しに届いた。
「……うん。砂糖は、一つ」
章吾は素直に答えた。珍しいことに、アルジャーノンも何も言わなかった。
ふたりは、寮の談話室の窓辺に並んで座っていた。
制服は着替えていたが、髪はまだ湿っている。お互いに、乾かすのも忘れていた。
テーブルの上には、あたたかい湯気の立つティーカップと、焼きたてのスコーン。
どちらも、特別なものではないが、これ以上ないほど満ち足りた時間だった。
章吾は、指先で薬指を触れた。そこには、まだ慣れない感触の指輪がある。
「ほんとに……これ、俺がもらってよかったのか?」
ポツリと漏らした言葉に、隣から小さなため息が返る。
「また言うのか、君は」
「いや……なんか、夢みてぇだなって」
アルジャーノンは、静かに笑った。
「これは夢ではない。そして君が思うより、私は本気だ」
章吾は、照れたように顔をそらす。
「……だったら、お前のその笑い方、やめろよ。なんか、負けた気になるじゃん」
「勝敗ではない。これは、誓いだ」
指先が、そっと重なった。そこにあるぬくもりを、互いに確かめるように。
「……なあ」
「うん?」
「卒業したらさ、いっしょに暮らすのって、アリか?」
「もちろん。だが、条件がある」
「は?」
「君が、私の家に来てくれるなら」
章吾は目を丸くしたが、すぐに噴き出した。
「じゃあ、お前が日本に来いよ。うちのコタツ、最高だぞ」
「……コタツとは何だ」
「コタツってのはさ……帰ったら見せてやるよ」
朝日が、ようやく雲の隙間から差し込んできた。
ふたりのティーカップのなか、光がきらりと反射する。その向こうにある未来は、まだ霧がかかっているかもしれない。
それでも。
この朝を共に迎えたという、それだけで、もう十分だった。
章吾は、目を細めながら言った。
「おはよう。アルジャーノン」
アルジャーノンは、少しだけ驚いたようにこちらを見たあと、微笑んだ。
「……おはよう、Shogo」
窓の外では、小鳥が一声、鳴いた。新しい一日が、ふたりの上に始まっていた。
***
時は遡って、10年前。
荘厳なパイプオルガンの音が、白い礼拝堂に響いていた。
日曜の朝。
子供たちが集まる合唱団は、清らかな声で賛美歌を練習していた。
その影。祭壇の裏で、小さな男の子が肩を震わせていた。
やわらかな金髪に青く澄んだ瞳。まだ幼いアルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルだった。
「……っ」
小さな手でぎゅっとローブを握りしめている。
さっき。歌の音程がずれてしまっただけで、お父様に「精神が弱い」と叱責された。
それが、あまりに悔しくて、悲しくて──涙を堪えきれなかった。
そんな彼のそばに、ふわりと影が落ちた。
「アルジー?」
にこにこ笑いながら近づいてきたのは、ブラウンヘアの、いたずらっぽい美少年──レジナルドだった。
「……みるな、レジー」
アルジャーノンは、ぷいっと顔を背けた。レジナルドは、くすっと笑った。
「アルジーは、がんばりやさんだね」
「……がんばってなど、いない……」
むくれながらも、震える声。
レジナルドは、そっとアルジャーノンの手を握った。小さな手、冷たい指先。
「ぼくは、アルジーのこと、かっこいいって思ってるよ」
「……っ、なぜだ」
「がんばってる姿、ちゃんと知ってるもん」
レジナルドは、きらきら笑った。太陽みたいに、あたたかく。
アルジャーノンは、目を見開いた。
そして──
「ありがとう、レジー……!」
しゃんと顔を上げ、笑った。
満面の、太陽みたいな笑顔で。
レジナルドは、その瞬間──小さな胸の奥に、ふわりと、あたたかい何かが灯るのを感じた。
(……かわいい)
(……すきだ)
そう、初めて思った。
まだ「恋」という言葉を知らなかったけれど、レジナルドは、確かにその瞬間──アルジャーノンに、恋をした。
***
ノートをめくる音が静かに響く。
図書室の隅、チャド、章吾、レジナルド、アルジャーノンが勉強していた。
ふと、章吾がぼそっと呟いた。
「なあ、レジナルド。おまえとアルジャーノンって、いつから知り合いなんだ?」
レジナルドは、楽しそうに笑った。
「アルジーと僕? 小さいころからだよ。ほら、家族ぐるみの付き合いだったから」
「へぇー」
章吾は気軽に相槌を打ったが、レジナルドはさらに爆弾を落とす。
「アルジー、昔は泣き虫だったんだよ? 礼拝堂の影で、よく泣いてたなぁ」
「っ」
アルジャーノンは、珍しく頬を赤く染めた。
「……くだらん話をするな、レジー」
「ふふ、だって可愛かったんだもん」
にこにこ。天使の微笑み。
「……おまえ、アルジーが好きだったのか?」
章吾が苦い顔で問いかける。
レジナルドは、まるで当然だというように頷いた。
「うん。あのとき、アルジーが僕に満面の笑みを向けて──それで、恋に落ちちゃったんだ」
章吾、即死。
「はぁ!?ちょ、待て待て待て!!!」
図書室に、章吾の絶叫が響く。
「なんだその運命みてぇなエピソードは!!ふざけんな!オレ知らねぇぞそんな話!!」
「だって、Hiwatari君には話してなかったもん」
レジナルドは、けろりと笑う。
「大事な思い出だからね、僕とアルジーだけの」
章吾は、地面に転がる。
「ぐぅぅぅ!!おまえら、なんなんだぁぁ!!」
「……くだらん」
アルジャーノンは、ふっと目をそらす。
が、その耳は赤かった。
レジナルドは、章吾のジタバタを見ながら、にっこり満足そうに笑った。
(やっぱり、可愛いものは、昔も今も、変わらないね)
心の中で、そっと呟きながら。
──そして章吾は、その夜ずっと、アルジャーノンを独占すべく、必死で勉強を手伝う羽目になったのだった。