レイ・ヴェルノットは通信魔法の起動音で目が覚めた。枕元に置いてある通信魔法機器が震えながら、黄みがかった赤色の魔法陣を空に浮かび上がらせている。この色は――学校からの呼び出しか。レイはげんなりしながらも魔法陣に手をかざすと、通信が即座に繋がった。
「朝からすまない、レイノルド。今、家か?」
馴染みのある声が魔法陣から響く。同じ研究室の先輩であるフォルトンだ。時計を見ると確かに皆が朝食をとるような時間帯で、相手の声も気だるげだが、もう研究室にいるのか背後ではざわざわと人の声が聞こえている。
「ただのレイですよ。いつになったら覚えてくれるんですか……今、研究棟の仮眠室です」
レイは目頭を揉むように押さえながら、まだ眠っている頭をなんとか働かせようとしていた。ヴェルノット家という名は、有名なくせに聞きなれないせいか、よく名前を間違えられる。そのたびにレイは決まり文句のようにそう言っていた。別段怒ることでもないが、流石に寝起きでこれは煩わしく感じる。
魔法陣からフォルトンの乾いた笑い声が聞こえた。
「悪い悪い……また魔力飛ばしたのか」
「昨日の昼過ぎにマルキオン教授が投げてきた試薬のデータ検証、締め切り今朝だったんですよ」
「それはやられたな」
そう労いながらも、フォルトンがこの時間に通信魔法回線を開くのだから、きっと緊急の呼び出しなのだろう。レイは簡易ベッドから起き上がりながら眼鏡をかけた。
「で、どうしたんです? こんな時間に」
空中に人差し指で円を描くように動かし、魔力を照明器具に飛ばして部屋の明かりをつける。照らされた光に目を細めながら、通信魔法機器の方を見た。
「あー……実はまたやっかいな検証案件が飛んできた。すぐ来れるか」
フォルトンの申し訳なさそうな声に、申し訳なく思うなら他の人に振ってくれよ、と思いながらも、欠伸を噛み締めながらレイは答えた。
「流石に風呂に浸かりたいです」
「ダメだ。シャワーにしろ。絶対風呂で寝るだろ」
フォルトンの指摘に心当たりがあり過ぎて、レイは苦笑した。「了解です」と短く答えて通信を切る。立ち上がって伸びをすると全身が攣りそうなぐらい固まっており、節々からぱきぱきと音が鳴った。
重い体を引きずるように部屋の浴室に入って、先ほどと同様に明かりをつける。ふと脱衣所にある鏡に目をやると、男性の割には身長が低く、ぼさぼさの銀灰色の髪にひょろりとした体格の、一目でわかるぐらい疲れが取れていない自分の姿が見えた。苦笑しながら昨日の服を脱ぎ、備え付けの給湯設備に刻まれた魔法陣に触れ、降り注ぐ冷水を頭から浴びる。徐々に被る水が暖かくなり、レイは手早く体を洗った。
備品の洗髪剤の隣に見慣れない容器が置いてあり、レイはそれを手に取った。「洗髪・試」と書かれた、旅行用に使われるような詰め替え容器に、薄緑色の粘性のある液体が入っている。蓋を開けて匂いを嗅ぐと、濃い香料の匂いがしてレイはそのまま蓋を閉じた。たまにこうやって学生が作ってみた試供品が置かれており、レイは好奇心のままに使ってみることが多かったが、これはいただけない。魔法薬士にとっては必須の解析魔法を使い、容器越しに軽く魔力を流して中の成分をざっと解析してみると、先週の研究情報誌に載っていた催淫作用が微量にあると言われているティオーリの花が使われていることがわかった。この花はごく少量使うだけで香りが立つため一般的に使われているものではあるし、流通している商品に使われているぐらいの量なら全く問題ないが、とにかくこれは量が多い。目的が検証なのか知らないが、こういう悪意のあるやり方は好きじゃない。レイは容器の蓋を魔法で溶接し、隅の方に放り投げた。
レイ・ヴェルノットは国立魔法大学で魔法薬士免許を取得した「理論バカ」だ。就職はせず、今も研究室に籠って大学院生活を送っている。周囲からは「魔法オタク」だとか「魔術師のなりそこない」などと言われているが、本人は逆にそれでよかったと思っている。魔法薬は、日常生活にも専門分野にも馴染みが深い分、ありとあらゆる分野に精通していないといけない世界だからだ。
実際、レイは座学だけなら魔術師(エキスパート)に進めるだけの成績と知識欲があった。しかし、致命的な欠陥があった。レイの体内を巡る魔力回路は、魔力を少し多く使うような魔法を使うとすぐ加熱してしまうのだ。魔法を行使するにあたり、魔力の循環・放出を司る魔力回路がオーバーヒートを起こすと、昨日のようにぶっ倒れてしまう。これはもう体質としか言いようがない。日常生活を送る分には全く問題ないが、攻撃魔法や身体強化魔法などの、一度に多量の魔力を消費するような魔法を行使すると魔力回路に過負荷がかかって倒れてしまう。そのため、国防に関わるような重要任務につく「魔術師(エキスパート)」の資格は得られなかった。――――そう、レイの祖母ルミアのように。
ルミアは「伝説の」と冠をいただくほどの魔術師だった。隣国で起こったモンスター・スタンピードを当時留学中の学生だった祖母が単身で食い止めただの、北の大国との境に棲むブルードラゴンと戦って不可侵を約束させただの、正直眉唾ものの功績を数々残しており、先代国王の代に叙爵されヴェルノットという家名を得た。ただ、伝説と言われてしまうぐらい、叙爵後はぱったりと表舞台に出なくなってしまった。今では、南の辺境の地でしがない魔法薬店を営んでいる。もう少し表舞台に立っていてくれたなら、「レイノルド」なんて名前に間違えられることもなかったかもしれない、とレイは思うこともあったが、「魔術師のなりそこない」には眩しすぎる話だ。これでよかったのだと思っていた。
レイは浴室から出て、手早く身支度を済ませた。濡れた髪を手で梳かしながら風魔法を駆使して乾かし、癖の強い髪を後ろで結んで邪魔にならないように簡単に小さくだんご状に結った。以前、振り返った拍子に鞭のようにしなった髪がフォルトンの鼻先をかすめてから、レイは一つに結ぶときはこのスタイルにするようにしていた。あの時は流石に無精がすぎるかと研究室にあった鋏でザクザクと切っていたら流石に止められ、散髪屋に放り込まれた。それも、もう1年ぐらい前の話だが。
先ほど放り投げた容器を拾い上げて、通信魔法機器を鞄に突っ込んで仮眠室を出る。思いのほか時間を食ってしまった、フォルトンに怒られないだろうかと思いながら研究室に向かおうとしたが、むせ返るほど濃厚なティアーモの香りがして、手にしている容器が壊れて中身が漏れたのかと立ち止まった。手の中の容器を見るが、密封した容器からは漏れはなかった。
「あの!」
後ろから声をかけられる。振り返ると、廊下を漂うにおいの元だろう人物がこちらに走ってきた。レイは思わず顔を顰めたが、見覚えのない男子学生はらんらんと輝く目をしながら、白衣を揺らして走ってくる。
「もしかして、使っていただけましたか?」
隠しているつもりなのか、期待でニヤついた顔をしながらその学生はレイに声をかけた。上背のある相手にレイは眼鏡を直しながら、努めて冷静を保とうとした。
「……院生じゃないね? 何年生?」
「はい! セリル・グランディール、2年生です!」
聞いてもいない名前まで答えられたが、おかげでこの2年生がグランディール家の者であることが分かった。家名はあるが、貴族年鑑に載っていない名前だ。レイはセリルから漂うにおいで息をするのもやっとだったが、思わず苦笑した。
「2年生……時期的に調合課題が出されている頃か」
「はい、今回の課題は洗髪剤でした」
「なるほど……なるほどね」
レイはふつふつと込み上げる怒りを必死に抑えた。魔法薬士免許も持たないこの2年生の愚かな行為を、頭ごなしに叱りつけるのは違うと、言い聞かせた。レイは手に持っている洗髪剤を見せながら問う。
「これを作ったのは、君か?」
「……はい」
レイの視線の冷ややかさに、セリルはやっと気まずそうな顔をした。レイはセリルの匂いの酷さに、どうして本人が耐えられるのか全く分からなかったが更に続けた。
「これを、課題で提出するつもりか?」
「いえ、これは、違います」
違うときたか。つまり、意図的に作って仮眠室に置いたということに他ならない。レイは、まだ我慢だと自分に言い聞かせる。だが、返答しだいでは本当に拳をあげてしまいそうだ。
「君は」
「セリルです」
「――グランディール、何故これを作った? 意図はなんだ?」
ささやかな抵抗をしつつ、再度問う。セリルは少しムッとしただけで黙ったまま、ただこちらを見つめている。埒が明かないので、レイは仕方なく仮説を伝えた。
「俺が考えた理由は全部で3つ。1つ、本当にこれをいいと思って作って、置いた。これはほぼない線だと思いつつも念のためだ。2つ、先週発刊された情報誌に載っていたティアーモの効果を、誰かで試そうと思った。悪意に満ちているとは思うが、気持ちは分からなくもない。褒められもしない。実際グランディール、君自身も試しているようだしね」
レイは仮説を話すたびに、指を一本ずつ立てていく。そのたびにセリルの表情が険しくなっていくが、レイは構わず最後の指を立てた。
「3つ。悪意をもって、誰かを嵌めようとした。この中に答えはあるか? グランディール」
セリルはただ黙したまま、レイを見つめている。セリルの鼻につくにおいに、レイは段々慣れてきて深くため息をついた。
「1つ目とするなら、通常使用する何倍の香料を使った? 邪悪なまでに鼻につく。これをいいと思って作ったのならセンスを疑う。2つ目だったなら、せめて相手の了解を得てからするべきだ。加えて言うなら、相手の体調、年齢、当薬歴、魔力量その他もろもろすべてにおいてきちんとデータを取るべきだ。見境なくするべきではない。3つ目、誰を嵌めようとしたのかは知らん。知りたくもない。ただ、この件について俺から言えることは2つだ」
手の中の粗悪な洗髪剤をセリルに見せながら、レイは捲し立てる。
「1つ。誠実な洗髪剤を作れるようになってからまずは取り組め。もともと課題の目的としては洗浄力と頭皮と髪を傷めない配合の一般的洗髪剤の強化のはずだ。自身の大切な人が、こんな凶悪なものを知らずに使うことを考えろ。これを使う誰かは、君にとってどうであれ、誰かにとっては大切な人のはずだ。魔法薬士を目指すなら、どうすべきだったのか考えろ。そうでないなら魔法薬士を目指すことをお勧めしない。もう一つ。誰かを催淫作用を使って嵌めようとして、本当にこの洗髪剤を作ったのなら――」
レイは洗髪剤を乱暴にセリルの胸に押し付けた。
「俺なら、もっと
レイはセリルの目を見た。セリルは押し付けられた洗髪剤に視線を落とし、こちらを見ようとはしない。フォルトンに呼ばれているためそこまで長居するつもりもなかったのに、つい先輩面をして一方的に話してしまった。しかしながら、これで改心しないなら、どんな手を使ってでもこいつの魔法薬士試験を受けられないようにしてやろうとも思った。
セリルが一言も話さないので、レイはそのまま研究室の方へ足を向けたところで、声がかかる。
「レイ先輩」
呼ばれて振り返る。相手はどうやら自分の名前を知っていたらしい。頼むから、3つ目の理由の矛先は俺じゃありませんように、とレイは切実に思った。
「先輩が好きな香りは何ですか?」
セリルの質問に、レイは訝し気な顔をしたが、「そうだな」と首を傾げて考えた。
「魔紫根か、黒樫……トップに軽く星苔がのるような……まぁ、そんな感じだ」
素直に答えると、セリルは一度きょとんとした顔をしてから、にっこりと笑った。
「結構、どっしりとしてるのに柔らかい香りが好きなんですね。ありがとうございました」
セリルは頭を下げて、踵を返し颯爽と行ってしまった。何がしたかったのか結局分からずじまいだったが、フォルトンに呼ばれていたことを思い出して、レイは急いで研究室に向かった。