闇桜の会員制バー、その豪華なVIPルーム。桜庭千雪は緊張の面持ちでハンドバッグの持ち手を握りしめ、控えめに立っていた。
父はICUで生死の境をさまよい、兄の大和は婚約者の日下研一によって留置所に送られてしまった。
桜庭家は没落し、かつての友人たちも皆、距離を置いている。
今や千雪は、借金を背負い、誰一人頼れる者もいない孤独な身となった。
もしこのまま資金を調達できなければ、父が一生をかけて築き上げた天城グループも、日下研一の手に落ちてしまうだろう。
目の前にいるウォール街の大物投資家だけが、彼女の唯一の望みだった。
「助けてほしいって?」
窓辺に立つ男がゆっくりと振り返る。
「桜庭さん、私が手を貸す理由は何ですか?」
窓の外、ネオンの光が彼の輪郭を金色に縁取る。
端正な顔立ちに、研ぎ澄まされた冷たい雰囲気。
その美貌は、どんな人気俳優でさえも霞んでしまうほどだ。
顔をしっかりと確認した瞬間、千雪の心臓は締め付けられるように痛んだ。
まさか、ウォール街で名を馳せる“LION”が、都立一高時代の伝説的人物——兼松倫也だったとは。
七年という月日が流れ、かつての美少年はすっかり大人の男へと変貌していた。
ただそこに立っているだけで、圧倒的な存在感と威圧感が空間を支配している。
千雪は思わず半歩後ずさりし、逃げ出したくなる。
だが、逃げるわけにはいかない。
今、桜庭家を守れるのは彼女しかいなかった。
目の前にいる倫也こそ、唯一頼れる相手。
千雪は深呼吸し、真っ直ぐに彼の視線を受け止める。
「お聞きしています。兼松さんは、日本での事業展開をお考えだと。天城建設は、きっと最良のパートナーになれるはずです。もしご協力いただけるなら、私が所有する天城株の10%、すべて無償でお預けします。」
倫也は表情を崩さず、淡々と答える。
「桜庭さん、あなたは今、借金で首が回らない状態でしょう?その10%の株だって、本当に守れるか分からない。ましてや――」グラスを指で回し、氷がカランと音を立てる。「これが日下研一との仕組まれた罠じゃないと、どうして信じられる?」
「日下研一」――その名を聞いた瞬間、千雪の胸が痛んだ。
高校一年から大学一年まで、研一は四年間も彼女を追いかけてきた。
当時は、あれが本物の愛だと信じていた。
だが今になって分かる。すべては上辺だけの嘘だったと。
最も信じていた“研一兄”は、結局卑劣な男だった。
ICUにいる父や、留置所の兄を思うと、千雪は息が詰まりそうになる。
もし研一と付き合っていなければ、桜庭家はこんな目に遭わなかったかもしれない。
「私たちは……もう終わったの。」かすれた声で呟いた。
カラン――
倫也の指がグラスの縁で微かに止まる。
琥珀色の酒が静かに揺れる。
千雪は唇を固く結び、一歩踏み出した。
「もし助けていただけるなら……どんなことでもします。」
彼女には、もう自分自身しか差し出せるものはなかった。
これが最後の切り札だった。
倫也は眉を上げ、目の奥に一瞬、得体の知れない光が揺れる。
「どんなことでも?」
「はい、何でも!」千雪は強く言い切る。
「分かった。」倫也はゆっくりとデスクの後ろに座り、脚を組む。「じゃあ、証明してもらおうか。」
証明――?
「どうやって……証明すればいいんですか?」
倫也は静かにグラスの酒を口に含み、しばし千雪を見つめる。
そして、低く冷たい声で告げた。
「キスをして。」
千雪は呼吸が止まりそうになる。
手のひらが何度も握りしめられ、また開かれる。
彼女は倫也の前まで歩み寄った。
男は椅子に身を預け、長いまつ毛の影が表情を隠している。
彼の目を直視できず、千雪は肩にそっと手を置き、身を屈めた。
目を閉じ、彼の唇にそっと触れる。
お兄ちゃんのために、お父さんのために、桜庭家のために――
これが、初めて自分から男性にキスをした瞬間だった。
経験など全くない。
研一と三年付き合っても、せいぜい手を握ったり、抱きしめられたりしただけ。
キスを迫られるたびに、なぜか拒んでしまっていた。
だから、このキスはただ唇を触れ合わせただけだった。
倫也は椅子にもたれたまま、まるで彫刻のように動かない。
「これだけ?研一はキスの仕方も教えなかったのか。」嘲りがその声に滲む。
からかわれていると気づき、千雪は恥ずかしさと悔しさでいっぱいになり、思わず身を引いてドアに向かう。
だが、ドアノブに手が触れた瞬間、後ろから大きな手が彼女の手首を掴んだ。
次の瞬間、世界がぐるりと回り、彼女はドアに押し付けられる。
男の唇が容赦なく降りてくる。
冷たい唇の奥に、ウイスキーの熱い刺激が混じる。
強引で、圧倒的で、まるで罰を与えるようなキスだった。
彼の体がぴたりと彼女を押さえつける。
薄い秋物の下、彼の体温が火傷しそうなほど熱い。
コートが腕から滑り落ち、バッグが床に落ちる。
千雪の足は震え、立っているのがやっとだった。
彼の大きな手が細い首筋を包み、額を重ねて、かすれた声で囁く。
「これが、本当のキスだ。」
千雪がわずかに呼吸を整える間もなく、再び唇を奪われる。
男の手は彼女の腰からセーターの下へと忍び込んだ。
その熱い掌が肌に触れた瞬間、千雪は全身を震わせる。
思わず服の上からその手を押さえた。
「まさか……怖くなったのか?」熱い息が耳元をくすぐる。
「ち、違います……!初めてなんです、だから……もう少し、ゆっくり……」
その言葉が効いたのか、気のせいか、男の動きは少しだけ優しくなった気がした。
それでも、慣れない感触と、電流が走るような刺激に、千雪の体はついていけない。
一度触れられるたび、張り詰めた神経がかき乱される。
目に見えない手で、心の一番弱いところを何度も撫でられるような感覚だった。
彼の唇が首筋を這い、低くささやく。
「研一は……君に指一本触れていないのか?」
「うん……触れられてない。」
「いい子だ。」
心臓が爆発しそうなほど高鳴り、血が頭まで駆け巡る。
彼が最後に何かをささやいたが、千雪には聞き取れなかった。
「……なんて?」
倫也は答えず、急に体を離した。
千雪は力が抜け、ドアにもたれたまま、呆然と彼を見上げる。
彼の突然の態度の変化に、千雪は戸惑うばかりだった。
自分が未熟すぎて、興味を失われたのかとさえ思った。
倫也はテーブルのグラスを取り上げ、残りの酒を一気に飲み干す。
振り返ったとき、彼の表情はいつもの冷たさに戻っていた。
先ほどまで彼女を力強く抱きしめていた男と、同じ人物とは思えないほどだった。
だが、その唇には、千雪の紅が微かに残っていた。
もしかしたら、今の出来事はすべて幻だったのかもしれない――千雪は、そんな錯覚を覚える。
「協力しよう。」倫也は冷静な声で言った。「ただし――条件が一つある。」
「条件……ですか?」
男は艶やかな唇で、はっきりと一言ずつ告げた。
「僕と――結婚してくれ。」