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婚約破棄の日、宿敵の元恋人と婚姻届を提出しました
婚約破棄の日、宿敵の元恋人と婚姻届を提出しました
月城かすみ
恋愛現代恋愛
2025年07月31日
公開日
5.6万字
連載中
桜庭千雪は、家族の崩壊と財政危機に直面した若き女性。 父は昏睡状態にあり、兄は婚約者の策略により拘束され、家業は没落しつつあった。唯一頼れるのはウォール街で名を馳せる投資家、兼松倫也。 しかし、彼との再会は驚きの連続だった。七年ぶりに再会した倫也は、かつての美少年から冷徹な大人へと成長しており、千雪は心の中で複雑な感情を抱えながらも、家族を救うために彼の助けを求める。 千雪は彼に「助けてほしい」とお願いし、代償として「どんなことでもする」と誓う。 その要求は、思いもよらぬ形で「キス」を求められることから始まる。 千雪の心は動揺し、戸惑いながらも彼に応じるが、倫也の真意はただの助けではなく、さらに予想外の「結婚」の提案へと続く。 心情的にも経済的にも追い詰められた千雪は、最後の手段として倫也の条件を受け入れ、彼との結婚を決意する。 彼との関係は単なる契約では終わらず、深い思索と感情が交錯する中で、新たな試練が待ち受けている。 果たして、千雪は桜庭家を救い、倫也との関係をどう築いていくのか?

第1話 これが本当のキス


闇桜の会員制バー、その豪華なVIPルーム。桜庭千雪は緊張の面持ちでハンドバッグの持ち手を握りしめ、控えめに立っていた。


父はICUで生死の境をさまよい、兄の大和は婚約者の日下研一によって留置所に送られてしまった。

桜庭家は没落し、かつての友人たちも皆、距離を置いている。

今や千雪は、借金を背負い、誰一人頼れる者もいない孤独な身となった。

もしこのまま資金を調達できなければ、父が一生をかけて築き上げた天城グループも、日下研一の手に落ちてしまうだろう。


目の前にいるウォール街の大物投資家だけが、彼女の唯一の望みだった。


「助けてほしいって?」

窓辺に立つ男がゆっくりと振り返る。

「桜庭さん、私が手を貸す理由は何ですか?」


窓の外、ネオンの光が彼の輪郭を金色に縁取る。

端正な顔立ちに、研ぎ澄まされた冷たい雰囲気。

その美貌は、どんな人気俳優でさえも霞んでしまうほどだ。


顔をしっかりと確認した瞬間、千雪の心臓は締め付けられるように痛んだ。

まさか、ウォール街で名を馳せる“LION”が、都立一高時代の伝説的人物——兼松倫也だったとは。


七年という月日が流れ、かつての美少年はすっかり大人の男へと変貌していた。

ただそこに立っているだけで、圧倒的な存在感と威圧感が空間を支配している。


千雪は思わず半歩後ずさりし、逃げ出したくなる。

だが、逃げるわけにはいかない。

今、桜庭家を守れるのは彼女しかいなかった。


目の前にいる倫也こそ、唯一頼れる相手。

千雪は深呼吸し、真っ直ぐに彼の視線を受け止める。


「お聞きしています。兼松さんは、日本での事業展開をお考えだと。天城建設は、きっと最良のパートナーになれるはずです。もしご協力いただけるなら、私が所有する天城株の10%、すべて無償でお預けします。」


倫也は表情を崩さず、淡々と答える。

「桜庭さん、あなたは今、借金で首が回らない状態でしょう?その10%の株だって、本当に守れるか分からない。ましてや――」グラスを指で回し、氷がカランと音を立てる。「これが日下研一との仕組まれた罠じゃないと、どうして信じられる?」


「日下研一」――その名を聞いた瞬間、千雪の胸が痛んだ。

高校一年から大学一年まで、研一は四年間も彼女を追いかけてきた。

当時は、あれが本物の愛だと信じていた。

だが今になって分かる。すべては上辺だけの嘘だったと。


最も信じていた“研一兄”は、結局卑劣な男だった。

ICUにいる父や、留置所の兄を思うと、千雪は息が詰まりそうになる。

もし研一と付き合っていなければ、桜庭家はこんな目に遭わなかったかもしれない。


「私たちは……もう終わったの。」かすれた声で呟いた。


カラン――

倫也の指がグラスの縁で微かに止まる。

琥珀色の酒が静かに揺れる。


千雪は唇を固く結び、一歩踏み出した。

「もし助けていただけるなら……どんなことでもします。」


彼女には、もう自分自身しか差し出せるものはなかった。

これが最後の切り札だった。


倫也は眉を上げ、目の奥に一瞬、得体の知れない光が揺れる。

「どんなことでも?」

「はい、何でも!」千雪は強く言い切る。


「分かった。」倫也はゆっくりとデスクの後ろに座り、脚を組む。「じゃあ、証明してもらおうか。」


証明――?


「どうやって……証明すればいいんですか?」


倫也は静かにグラスの酒を口に含み、しばし千雪を見つめる。

そして、低く冷たい声で告げた。

「キスをして。」


千雪は呼吸が止まりそうになる。

手のひらが何度も握りしめられ、また開かれる。

彼女は倫也の前まで歩み寄った。


男は椅子に身を預け、長いまつ毛の影が表情を隠している。


彼の目を直視できず、千雪は肩にそっと手を置き、身を屈めた。

目を閉じ、彼の唇にそっと触れる。


お兄ちゃんのために、お父さんのために、桜庭家のために――


これが、初めて自分から男性にキスをした瞬間だった。

経験など全くない。

研一と三年付き合っても、せいぜい手を握ったり、抱きしめられたりしただけ。

キスを迫られるたびに、なぜか拒んでしまっていた。


だから、このキスはただ唇を触れ合わせただけだった。


倫也は椅子にもたれたまま、まるで彫刻のように動かない。

「これだけ?研一はキスの仕方も教えなかったのか。」嘲りがその声に滲む。


からかわれていると気づき、千雪は恥ずかしさと悔しさでいっぱいになり、思わず身を引いてドアに向かう。

だが、ドアノブに手が触れた瞬間、後ろから大きな手が彼女の手首を掴んだ。


次の瞬間、世界がぐるりと回り、彼女はドアに押し付けられる。


男の唇が容赦なく降りてくる。

冷たい唇の奥に、ウイスキーの熱い刺激が混じる。

強引で、圧倒的で、まるで罰を与えるようなキスだった。


彼の体がぴたりと彼女を押さえつける。

薄い秋物の下、彼の体温が火傷しそうなほど熱い。


コートが腕から滑り落ち、バッグが床に落ちる。

千雪の足は震え、立っているのがやっとだった。


彼の大きな手が細い首筋を包み、額を重ねて、かすれた声で囁く。

「これが、本当のキスだ。」


千雪がわずかに呼吸を整える間もなく、再び唇を奪われる。

男の手は彼女の腰からセーターの下へと忍び込んだ。


その熱い掌が肌に触れた瞬間、千雪は全身を震わせる。

思わず服の上からその手を押さえた。


「まさか……怖くなったのか?」熱い息が耳元をくすぐる。

「ち、違います……!初めてなんです、だから……もう少し、ゆっくり……」


その言葉が効いたのか、気のせいか、男の動きは少しだけ優しくなった気がした。

それでも、慣れない感触と、電流が走るような刺激に、千雪の体はついていけない。


一度触れられるたび、張り詰めた神経がかき乱される。

目に見えない手で、心の一番弱いところを何度も撫でられるような感覚だった。


彼の唇が首筋を這い、低くささやく。

「研一は……君に指一本触れていないのか?」

「うん……触れられてない。」

「いい子だ。」


心臓が爆発しそうなほど高鳴り、血が頭まで駆け巡る。

彼が最後に何かをささやいたが、千雪には聞き取れなかった。


「……なんて?」

倫也は答えず、急に体を離した。

千雪は力が抜け、ドアにもたれたまま、呆然と彼を見上げる。


彼の突然の態度の変化に、千雪は戸惑うばかりだった。

自分が未熟すぎて、興味を失われたのかとさえ思った。


倫也はテーブルのグラスを取り上げ、残りの酒を一気に飲み干す。

振り返ったとき、彼の表情はいつもの冷たさに戻っていた。


先ほどまで彼女を力強く抱きしめていた男と、同じ人物とは思えないほどだった。

だが、その唇には、千雪の紅が微かに残っていた。


もしかしたら、今の出来事はすべて幻だったのかもしれない――千雪は、そんな錯覚を覚える。


「協力しよう。」倫也は冷静な声で言った。「ただし――条件が一つある。」


「条件……ですか?」


男は艶やかな唇で、はっきりと一言ずつ告げた。


「僕と――結婚してくれ。」


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