「君、俺と結婚しないか。……私の理想だ」
出社早々、エレベーターの扉が開いた瞬間に、その言葉は降ってきた。
言葉を発したのは、社長・葉山律。
乗り込んできた彼は、私を見たまま、ごく当たり前のようにそう言った。
「……え?」
あまりに唐突すぎて、聞き間違いかと思った。
栗色の髪に、琥珀色の瞳。190センチ近い長身に、完璧なスーツの着こなし。
まるで映画のスクリーンから抜け出してきたような男性が、真顔で、私を見つめている。
「それって……どういう──」
うまく言葉が出てこない私に、彼はすっと手を差し出した。
そのまま、私の手を取る。
その所作があまりに自然で、咄嗟に拒むこともできなかった。
「理想の体型だ。バランスのいいフォルム。……柔らかそうな脂肪。日本では稀少だ」
「──は、はあぁっ!?」
思わず、声が裏返った。
(な、なに言ってんのこの人!)
社長なのに!? いや、社長だからこそ問題でしょ!
「セ、セクハラです!」
顔を真っ赤にして言い放ったそのとき、エレベーターがチーンと軽やかな音を立てて停止した。
律は私の手を離し、涼しい顔で降りていく。
「考えておいて。俺たち、きっと相性がいい」
ウインクまでつけて、彼はそのままフロアの奥へと消えていった。
ぽかんと立ち尽くす私の中で、さっきの言葉だけが、何度も繰り返される。
(……え、今の現実?)
エレベーターのドアが閉まり、ようやく私はひとつ深く息を吐いた。
でも、あの低く響く声は、しつこいほど頭の中でリフレインしていた。
「君、俺と結婚しないか」
*
私の名前は、望月陽菜(もちづき・ひな)。二十八歳。
ITベンチャー『Corven(コルヴェン)』で、派遣社員として働いている。
肩書きは「営業推進部アシスタント」。実際の仕事は、営業資料の作成や会議サポートがメイン。
前に出て話すのは苦手で、どちらかといえば、裏方のほうが性に合っている。
そんな私には、いくつかのコンプレックスがある。
ひとつは、首にぶらさげた入館証。
社員たちは顔認証でオフィスに入れるけれど、私は毎朝それをピッと機械にかざす。
──私はここに属していない。
そんな現実を、毎日、目の前に突きつけられている気がする。
もうひとつのコンプレックスは、胸。
中学でEカップ、今やH。
重くて、動きづらくて、ただただ不便な「生活の負荷」。
それなのに、「色っぽい」「派手」なんて言われても、どう反応すればいいのか分からない。
できるだけ目立たない服を選んでいても、スーツを着れば自然と強調されてしまう。
社内でも、すれ違う男性の視線を微妙に感じることがある。
──そして、あの社長の視線は、全然「微妙」じゃなかった。
(……見られてた。あのとき、本気で)
あの茶色い瞳の熱っぽさを、今でもはっきり覚えている。
(結婚、って……何?)
私の体型を褒めた真意も、わからない。
変な人。まともじゃない。
だけど──なぜだろう。
心の奥のどこかが、ふっと熱を帯びていた。
(……いったい、なんだったの)
午後の会議室で、私は資料の整形作業をしながら、頭の中でさっきのやり取りを反芻していた。
「理想の体型だ。メリハリのあるフォルム、やわらかそうな脂肪」
もう一度思い出しただけで、顔が火照る。
(セクハラ……だよね? むしろ、問題発言レベル……)
なのに、どうして。
胸の奥のどこかが、ずっとざわついている。
びっくりして、困って、戸惑って。
だけど、それだけじゃなくて。
──ちゃんと見られていた、って思ってしまったからかもしれない。
「望月さん、手、止まってますよー」
「えっ、あっ、すみません!」
声をかけてくれたのは、営業部の先輩・野崎さん。
私の隣に座ると、お弁当を広げながら言った。
「さっき、すごいの見ちゃった。社長とエレベーターで一緒にいたでしょ?」
「え……あ、はい。偶然……」
「……社長、ああ見えて女性のタイプにうるさいって噂、知ってる?」
「え?」
「外資時代からずっと、ハーバードでも社内でも“絶対に理想以外には手を出さない男”って言われてたんだって。で、めちゃくちゃ好みが細かいらしくて──」
「こ、細かい?」
「骨格、体型、肉付き、声、香り。条件がぴったり揃ってなきゃ、ビタイチ興味示さないらしいよ」
(……え)
まさか。
私のことなんて、ほんの通りすがりの、名前も覚えられていない派遣社員のはずで。
でも──
あの目は、確かに、私だけを見ていた。
(違う……よね? 何かの冗談……)
「それにしても、もしあんな人に『結婚しないか』なんて言われたら、私だったら気絶するわー」
「そ、そんなこと……っ」
言いかけて、口をつぐむ。
(言えない、絶対言えない。気絶しなかった自分、ある意味すごい)
──ただの変人。変人。変態社長。
そうラベリングして心を落ち着かせようとするのに、
エレベーターのなかで私の手をそっと握ったぬくもりだけは、
どうしても記憶から薄れてくれなかった。
それどころか、思い出すたびに。
胸の奥が、またうるさく跳ねる。
午後の雑務を片付け、ようやくひと息ついたタイミングで──
メールの通知が、画面にふわりと浮かんだ。
《送信者:葉山 律》
(えっ……)
指が、反射的に止まる。
件名:《営業資料案について》
> ユーザー層の年齢分布が甘い。
データをもう一段掘り下げて、再送してください。
──それだけの文章。
なのに、本文の冒頭にある「望月陽菜様」の文字が、やけにまぶしく見えた。
(私の……名前、ちゃんと……)
たくさんいる派遣社員のひとり。
社長にとって、私なんてただの契約番号にすぎないと思っていたのに。
名前を覚えてもらっていた。
私宛てに、直接メールが届いた。
それだけで、身体の奥がじんわりと熱くなった。
問題点を指摘する内容は、胸にずしんときたけれど。
*
帰宅後。
私はベッドに横たわりながら、スマホを手に取った。
開いたのは──Velvet。
最近人気急上昇中の「理想の彼氏AI」アプリ。
実は、私の働く『Corven(コルヴェン)』が開発元だ。
性格モードが選べて、
甘々モード、年上包容モード、クール毒舌モードなど、いくつかのタイプに切り替えられる。
(今日は……「現実主義クール彼氏」モードにしよう)
葉山さんに似てるのは、たぶんこのタイプ。
そっとチャット画面を開いて、ひとこと入力する。
『上司から仕事の指摘をもらいました。……少し、落ち込んでます』
数秒後、返ってきたメッセージはこうだった。
《落ち込むこと自体は、生きてる証拠。
でも──立ち直れるかどうかは、「期待されている自覚」があるかどうかだ》
思わず息をのんだ。
まるで、心を読まれたような一文。
仕事に関してはとにかく冷静だけど、冷たくなりすぎない声。
(似てる……)
「あの人」と、そっくり。
私は続けて、もうひとつだけ、そっと尋ねた。
『……見られている、って感じるのは、思い上がりでしょうか?』
画面に表示された返答は、たったひとこと。
《違う。君が「選ばれてる」から、気づいただけ》
(──えっ)
その文だけ、なぜか既読にならないまま、表示が消えた。
スクリーンをタップしても、履歴が見つからない。
(……あれ?)
本当に打たれたのか、私の幻だったのか。
でもその一文が、
私の中に、深く、静かに残っていた。
《君が「選ばれてる」から、気づいただけ》
それはまるで、
ほんとうにあの人が言ったみたいで。
私はしばらく、画面を伏せられなかった。