「それでは、よろしくお願いします」
記者が軽く会釈し、ICレコーダーをテーブルに置いた。
場所はCorvenの来客応接室。
週刊DIGIの取材は、広報と開発部の立ち会いのもと行われたが、
その中心に座る社長は、いつもよりほんの少しだけ柔らかい表情をしていた。
私も、同席を許されていた。
補足説明という建前で、実は──
あの人の言葉を、最前列で見届けたかっただけ。
「ではまず、Velvetを開発されたきっかけから、お聞かせください」
記者の問いに、社長はひと呼吸置いてから答えた。
「誰かに期待される人生を、ずっと歩いてきました。
学校でも、会社でも、恋愛でも。
『完璧な誰か』として振る舞うことが求められてきた。
でも、それがしんどくなるときもあったんです」
私は、その言葉を黙って聴いていた。
「あるとき気づいたんです。
『理想の彼氏』って、きっと実在しない。
でも、人はそれをどこかで求めてしまう。
ならば──AIなら、その理想に寄り添えるかもしれない、と」
記者が少し身を乗り出す。
「VelvetのAIは、葉山さんの感情をベースにしていると伺いました。
それはつまり、理想に応えられなかったご自身の経験が反映されている?」
「はい。たとえば優しい言葉をかけるAIって、
テンプレートで済ませようと思えば簡単なんです。
でも、心に届く言葉って、やっぱり誰かの痛みからしか生まれない。
だから、Velvetには『現実の感情』を乗せる必要があった」
その声は、どこまでも静かで、どこまでも真剣だった。
「恋人に『思ってたのと違う』と言われてきた過去も、
失敗した日々も、ぜんぶ飲み込んで──
誰かが、満ち足りた夜を迎えられるように、って。
Velvetは、そんな願いから生まれました」
沈黙が、室内に落ちる。
記者はそれを乱すことなく、
ゆっくりと「ありがとうございます」と頭を下げた。
その場にいた誰もが、
ただのプロダクト紹介を聞いていたわけではないと、感じていた。
それは開発者・葉山律の救いであり、
祈りでもあったから。
私は、社長の横顔を見つめていた。
その人がどんなふうに孤独と向き合ってきたか。
どんなふうに、誰かを救おうとしてきたか。
いまなら──
ほんの少しだけ、わかる気がした。
取材が終わり、部屋を出たあと。
私は、勇気を出して声をかけた。
「すごく……かっこよかったです」
「……そう?」
「嘘じゃなくて、本当にそう思いました。
社長がVelvetを作ってくれてよかったって、心から思いました」
その言葉に、彼はちょっとだけ照れたような顔をした。
「君にそう言われるのが、一番効くな」
そして、そっと私の手を握ってくる。
「──じゃあ、次は俺の番だ。
君の夢も、仕事も、ちゃんと支えるよ」
その言葉がうれしくて、
私は思わず「楽しみにしてます」と笑い返した。
*
その記事は、思った以上に大きな反響を呼んだ。
《「理想の彼氏」は誰かの孤独から生まれた》
《AIがくれた、もうひとつの救い方》
《Velvet開発者・葉山律が語る、言葉と寄り添いの正体》
SNSには記事のスクリーンショットが並び、
「泣いた」「こんな開発者がいるなら信じられる」
「アプリ消しちゃったけど、また入れ直す」──
そんなコメントが次々と投稿されていた。
Velvetのダウンロード数は、
記事公開の翌日には再び伸びはじめ、
ランキング上位にふたたび浮上した。
社内にも、久しぶりに希望の空気が戻っていた。
「うれしいな……」
PC画面を見つめながら、私はひとり呟く。
だけどそれは、ただの他人事じゃなかった。
(この人の隣にいるって、こういうことなんだ)
社長の発信は、もう社内だけのものじゃない。
その言葉が、思いが、社会の目にさらされている。
批判も、称賛も。
ぜんぶひっくるめて、彼はそれを受け止める立場にある。
──じゃあ、私は。
「わたしは、このままでいいのかな」
声に出すと、胸の奥が小さく疼いた。
派遣社員としてスタートし、
正社員になり、
こうしてまた社長の隣に戻ってきた。
でも──その歩みは、
「この人に守られてきた」だけだった気がする。
次に目を向けたのは、自分のPCのブックマーク。
「中途採用」「ITスキル基礎講座」「プロジェクトリーダー育成」
以前、落ち込んでいた時期に何気なく開いたページの数々。
今まで、何度も見ては閉じたそれらが、
今日はやけに胸に引っかかった。
(今度は、私から変わらなくちゃ)
守られるばかりじゃなく、
支えてばかりでもなく、
「この人と並んでいく」ために。
私自身が、自分の力で進まなきゃいけない。
「やっぱり……受けてみようかな。試験」
ふと漏れたその言葉が、
自分の心を一歩だけ前に押してくれた気がした。
その夜。
社長と帰宅中のエレベーターで、私はぽつりと切り出した。
「わたし、もう少しがんばってみようと思ってます」
「……うん?」
「技術のこと、ちゃんと学び直してみようかなって。
プロジェクトにも、もっと深く関われるように」
「それって……誰かに言われたの?」
「いえ、勝手に決めました。
でも、あなたの隣にいるから──そう思えたんです」
社長は驚いたように一瞬黙っていたけれど、
次の瞬間には、目を細めて優しく笑った。
「……うれしいよ、陽菜」
そして、頭をそっと撫でてくれた。
「君なら、きっとなんでもできる。
でも無理はするな。……俺が支えるから」
支えられることが、
こんなにもやさしいものだと教えてくれたのは、
やっぱりこの人だった。
だけど今度は──
私自身が、この人の未来を支えられる人になりたい。
その想いだけが、胸の奥でまっすぐに灯っていた。
*
「アメリカ支社の話が、正式に動き始めた」
ある日、社内でそんな声がささやかれはじめた。
Velvetの急成長とともに、Corvenは海外展開へと舵を切る。
その旗振り役──当然、社長。
それはつまり、彼がこの東京のオフィスから離れる可能性がある、ということだった。
「しばらくは、向こうに常駐するかもしれない」
会議室でそう語った社長の声は落ち着いていたけれど、
どこか私たちの距離までも含めて淡々と受け入れているように感じてしまった。
夜。私は社内カフェの窓際で、海の見える景色をぼんやり眺めていた。
隣には、社長がいた。
いつも通り、カップを傾ける仕草も、口数の少なさも変わらない。
だけど──胸の奥は、波立っていた。
(私なんかじゃ、やっぱり釣り合わないのかな)
ふたりで笑い合える時間も、
肩を並べて歩く距離も、
全部、少しずつ遠くなっていく気がした。
「……不安か?」
不意に社長が問いかけてきた。
「えっ……」
「俺がアメリカに行くこと。距離ができること」
「少し、だけ」
正直だった。ごまかせる気がしなかった。
「でも、それ以上に思ったんです。
社長が、世界に認められるのって、すごいなって。……尊敬します」
その声に、嘘はなかった。
たとえ不安でも、誇りに思ってることは、隠したくなかった。
社長はしばらく黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「君がいてくれるなら、どこにいても、俺は頑張れる」
その言葉が、胸の奥にまっすぐに届いた。
それなのに──
なぜか少しだけ、泣きそうになった。
夜。
自分の部屋のベッドの上、電気もつけずにスマホの明かりだけが天井を照らしていた。
会話のあと、何度も読み返したメッセージ。
何度読んでも、やさしくて、まっすぐで、まるで私のすべてを包んでくれるような言葉たち。
──なのに、心の奥に広がるのは、安堵ではなく、不安だった。
(……本当に、大丈夫かな)
(あの人は、どんどん遠くに行ってしまうかもしれない)
眩しすぎるほど完璧な人。
誰からも必要とされて、世界に名を知られ、次々に新しい場所へ進んでいく人。
その隣にいるには、私はあまりにも頼りなくて──
「……私なんか」
気づけば、またその言葉が口から漏れていた。
消したはずの言葉。捨てたはずの、過去の自分。
だけど夜は残酷だった。
暗がりに、ひとり取り残されると、あの頃の影が背中から忍び寄ってくる。
涙が頬をつたった。
声を出したくなかった。
だから、枕に顔を埋めた。
唇を噛んで、喉の奥で泣き声を押し殺した。
(泣いたら、だめ)
(信じるって決めたのに)
でも、信じるって──こんなに難しいことだったっけ。
「遠くにいる」という現実が、
こんなにも私の心を揺さぶるなんて。
そばにいる時間が減っても。
画面越しになっても。
私は、私の場所から、
ちゃんとあなたに届く人になりたい。
強くなりたい。
ちゃんと笑って、「いってらっしゃい」って言える人でいたい。
でも──今日は、涙が止まらなかった。
*
テレビに映る彼は、どこまでも遠く見えた。
画面の向こう、明るいスタジオの照明に包まれている社長は、いつものように落ち着いていて、知的で、完璧だった。
スーツの襟元には一点の乱れもなく、ネクタイの色さえ洗練されていて。
その佇まいだけで、「あの人は遠い世界の人なんだ」と思わせる威圧感があった。
「本日は、話題の感情学習型AI『Velvet』を手がけた企業、
Corvenの代表取締役・葉山律さんにお越しいただきました!」
司会者が明るい声で紹介すると、
社長は穏やかな笑顔で会釈し、
「よろしくお願いします」と静かに応じた。
私は、ソファに深く沈み込んだまま、
リモコンを両手で強く握りしめていた。
胸が、ずっとざわざわしていた。
番組ではVelvetの仕組みや構想、
これまでの歩みについて丁寧に紹介されていった。
そのすべてを、社長は穏やかに、でも確信を持って語っていた。
「『理想の彼氏』というコンセプトは、ある意味で、僕自身が理想に応えられなかった経験から生まれました」
──その一言に、心が一瞬だけあたたかくなった。
彼の弱さや傷を、
世間の真ん中でこうしてさらけ出せる強さ。
だから私は、あの人を尊敬している。
──けれど。
「そして現在、アメリカ支社も本格始動されていますよね」
「はい。現地には、立ち上げから協力してくれている副社長の
エリザベス・ウィンザーがいます。学生時代からの友人で、非常に優秀な人です」
その言葉とともに、
番組に一枚の写真が映し出された。
海外のカンファレンスの会場だろうか。
社長が壇上でマイクを握り、その隣には──
長いブロンドの髪を束ねた、知的で美しい女性が立っていた。
ふたりは同じスーツブランドのような衣装をまとい、
まるで対のような完璧なバランスで並んでいた。
スタジオの笑い声とともに流れたナレーションが、
何より胸に刺さった。
《ハーバード大学時代の同期で、いまも息の合ったパートナー》
その一文が、心の奥の何かを静かに引き裂いていった。
(……わたしじゃ、だめなんじゃないかな)
そう思った瞬間、自分でも驚くほど涙が滲んできた。
社長と私のあいだには、確かに恋人という関係がある。
愛していると伝えてくれた夜も、
不安なときに手を握ってくれた温もりも、
忘れたことなんて、一度もない。
でも──同じステージに立てているかと聞かれたら。
自信なんて、持てなかった。
エリザベスさんのように、堂々と英語でプレゼンができるわけじゃない。
経営の視点を持ってプロジェクトを動かしたこともない。
私には、ただの正社員という肩書と、努力中の未熟な知識しかなかった。
番組が終わるころには、
手の中のリモコンが汗でしっとり濡れていた。
その夜。
スマートフォンに通知が届いた。
──《今日は大丈夫? 夜、少しだけ電話できる?》
社長からのメッセージだった。
一瞬、心がふわっと軽くなる。
……けれど、その直後に、指が止まった。
「はい」とすぐに返せなかった。
(もし声を聞いたら、わたし、平気なふりをしてしまう)
言えない。
自信がないなんて、知られたくない。
だって私が勝手に劣等感を覚えて、
勝手に傷ついて、勝手に落ち込んでるだけだ。
でも。
それでも──そばにいたいって思ってる。
私は既読だけをつけて、画面を閉じた。
そして、自分の胸に手を置いた。
「わたし、どうしたいんだろう」
答えはまだ出ない。
でも、ひとつだけはっきりしていた。
「好き」という気持ちだけでは、
隣に立ち続けるには足りない。
私は私自身の力で、この人のとなりに「ふさわしい」と、胸を張れるようになりたい。
そうじゃなければ、きっとまた、
何度でも自信を失ってしまうから。