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黒い傘
黒い傘
鈴音
恋愛現代恋愛
2025年08月03日
公開日
5,175字
完結済
彼と彼女が過ごすあたたかくも優しい物語。 二人の柔らかな日常をお楽しみ下さい。 きっとあなたもこんな生活を送りたいと思うはず。

黒い傘

 バーでカクテルを飲んでいた。隣には彼女。落ち着いた光がカクテルの中で揺らめいている。他愛もない話をしながらゆっくりと飲んで静かに帰っていく。帰り道はいつも同じだった。寄り添うと影が一つになる。見慣れた部屋に二人。見つめ合うと自然と笑みが零れる。部屋にはいつも柔らかい陽の光が差し込んでいた。とても穏やかな日々。寄り添って眠ってしまうこともあった。起きた時にはいつも上目遣いの彼女が見つめてくる。あまりにも愛おしい日常だった。まだ、小さな部屋だけどいずれは大きな家に引っ越すつもりだ。「楽しみね」と彼女は言っていた。子供っぽくて未完成な社会に舞い降りた、完璧で大人びた彼女。強気なところもいい。でも、自分の前では甘えてくることもしばしばあった。自分だけに見せる顔が何より嬉しかった。眠る前には口づけを交わす。いつも彼女がリードしていた。言葉数は少なくともお互いのことがよく分かっている。今やりたいこと、考えていること、どんなことも手に取るように分かる。雨の日も風の日もずっと一緒だった。

 首元には赤い宝石をあしらったペアのネックレス。彼女がプレゼントしてくれた。彼女の好きな色である赤いネックレス。いつも大事そうに手に握っていた。日に日に「同じ」が増えていく。そして、自分はどんどん彼女の色に染まっていった。彼女はそんな自分を見て益々愛おしそうな表情を見せる。もう彼女からは逃げられない。そんな毎日がとても尊く愛おしかった。そして、日に日に距離が縮まっていく二人は毎日幸せそうだ。気が付くともう何年もそばにいた。何年経ってもお互いの熱は冷めることはなかった。自分はそろそろ結婚を考えている。最近は彼女もそろそろ、と口を開くことが増えていた。今日は指輪を買いに行こう。彼女がいつも好きだと言っていた宝石をあしらった指輪を。

 彼女はその宝石を大事な想い出が詰まったものだと言っていた。子供の頃、テレビに映った煌めく宝石。それに一目惚れしたようだ。子供に宝石はまだ早いから同じ色のおもちゃの指輪を買ってもらったそうだ。そんな大事な想い出が現実のものになったら彼女はどう思うだろう。渡す前からワクワクしていた。


 ある日のことだった。いつものように寄り添ってテレビを見ていると、着信音が響く。まるで日常を引き裂くような音だった。彼女は躊躇いもなく電話に出る。微かに男の声が聞こえた。通話が終わってから、誰なんだと聞いても仕事の人としか言わない。微かに聞こえていた声は明らかに仕事の話をしていなかったのに。彼女は嘘をついているのだとすぐに分かった。なぜ嘘をつくのか、問いただしてもはぐらかされるばかりだった。彼女はまた口づけをしようとしている。思わず顔を遠ざけると、彼女は寂しそうな顔をした。今までで一番寂しくて辛そうな顔。そんな彼女を見て、胸が張り裂けそうだった。

 部屋には沈黙が広がっていた。謝りかけた時、彼女が涙を浮かべながら赤い傘をパサリと差して部屋を出ていった。一瞬不敵な笑みを浮かべたように見えたが、光の反射だろう。それより、と黒い傘をバサリと開いて後を追う。でも、途中で見失ってしまった。あんなにも目立つ色なのに。辺りを見渡しても赤い花は見つからなかった。電話をしても繋がらない。その場に立ち尽くすしかなかった。問いただしたことを激しく後悔した。あの時、見ないふりをしていれば彼女を泣かせることはなかったのに。どうしようもなくて、部屋にとぼとぼ帰っていった。


 ある日、街で見慣れた赤い傘を見かけた。隣には別の傘。街で見かける度に、彼女の隣には同じ男が立っていた。そして、いつも男に笑顔を向ける彼女。とても楽しそうで、自分には見せたことのない柔らかで淑やかな表情で微笑んでいた。強気な彼女と柔和な彼女。どちらが本当の彼女なのだろう。想いを伝えられたあの日を思い出す。彼女は緊張した面持ちだったけれど、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた。強気の中の不器用さに雷のような衝撃を受けたことを昨日のように思い出す。あの日から沢山の想い出を作った。どこに行くにも一緒だった。雨の日も風の日もずっと。あれから何年か経った今、ちょうど彼女が好きな宝石をあしらった指輪を買ったばかりだった。今度は自分が想いを伝える番だった。それなのに、彼女はもうこちらを向いていない。

 あの男は自分と同じように長い時間を過ごしてきたのだろうか。それとも、付き合いたてなのだろうか。それはあの二人にしか分からない。唯一分かるのは彼女が、赤いネックレスを外し自分の買った指輪と同じ宝石をあしらった指輪を身につけていたことだった。二人は自分達が通っているいつものバーに入っていく。あの自分達だけの大切な空間に。あの男に日常が侵食されていく。キャンバスが上塗りされていく。雨の中で取り残されて世界が色を失っていった。街が無彩色に染まっていく。まるで、雨が自分達の作った絵から鮮やかな絵の具を溶かしているようだった。雨の打ち付ける音だけがやけに五月蝿く響いていた。


 あの日から数日後、彼女からの着信があった。謝罪と甘え。それだけで張り詰めていた心が溶けていくのを感じた。待ち合わせはいつものバー。カクテルには変わらず落ち着いた光が揺らめいている。彼女もいつもの調子でゆっくりと呑み、ゆっくりと話す。静かでも強気なところは変わっていなかった。それが一層愛おしい。今日は赤いネックレスをつけ、指輪はつけていなかった。あの辛かった日々は幻だったのかもしれない。彼女はいつもより甘い眼差しでこちらを見てくる。見つめ合うとその幸せに溺れそうになった。

 でも、しばらくしてあの男の存在が頭をもたげる。思わずあの男の存在について聞いてしまった。でも、「そんな訳ないじゃない」とあしらわれるだけだった。冗談じゃない。こちらは何度も見ているというのに。微かな怒りが沸き上がってきた。そして、とうとう言ってしまった。「街中で見かける男はいつも同じ男だ」と。彼女の表情は凍り付いた後、蔑むような表情に変わった。そして先にバーから出て行った。

 今日もあの時と同じ雨。ようやく色彩を取り戻し始めたのに、またモノクロの世界へと引き戻されてしまった。後を追うと、赤い傘が夜の闇に鮮やかに咲いていた。それを見て、これ以上追うことは出来なかった。


 あれから彼女と連絡が取れなくなった。何度電話をしても繋がらない。気が付いたら発信履歴が彼女の名前で埋め尽くされていた。暗い部屋であの日の蔑むような表情を思い出す。納得が出来なかった。あの男を選び取ったのは彼女の方なのに、なぜあんな目を向けられなければならなかったのか。何年も積み重ねてきた幸せを崩したのは彼女だったのに。あんなにも穏やかな日常だったのに。何より彼女の愛情表現があたたかく、それでいて行き過ぎることもあったのに。なぜ、と問いかけることも出来ないことに悔しさを感じた。

 あの男は彼女と歩いている時にどんな感情だったのだろう。ただ、その様子は明らかに不釣り合いに見えた。ブランドものを全身に身につけていたあの男は下品に見えた。あんな奴のどこがいいのか。彼女は宝石が好きだったが、ブランドで選ぶのではなく想い出で選び取っていた。そんな真っ直ぐでキラキラした彼女が好きだった。そして、ブランドものが大嫌いだった。それなのに。あの男と比べると明らかに彼女と釣り合うのは自分だけだと確信していた。

 もしかしたら、彼女は騙されているのかもしれない。スマホもあの男に取り上げられているから連絡が取れないのかもしれない。なら助けないと。彼女が危ない。もう誰にも渡さないようにしなければ。部屋には雨の音と雷の音が響く。彼女を取り戻さないと。雨の音と共に何かがはじける音がした。


 その日からまた毎日同じ場所に向かった。彼女は必ずここを通る。今までもそうだったんだから間違いない。そして、ある雨の日。あの紅い傘を見つけた。今日はどうやら一人のようだ。またとない絶好のチャンスだった。ゆっくりと後をつける。彼女は路地へと入って行く。路地には誰もいなかった。あのバーがある路地。色んな想い出のあるあの路地。まさか、バーでまた一緒に呑むつもりなんだろうか。そうだと嬉しい。いや、絶対にそうだ。彼女は自分をこの上なく愛してくれている。だからこそ絶対に彼女を取り戻す。いや、彼女をあの男から救うんだ。そして、これからもずっと一緒にいるんだ。永遠に。

 雨音で足音は搔き消されていた。彼女は一切気付かない。声を掛けると驚いた目の彼女が振り向いた。久しぶりに見た顔。やっぱり美しい。そして、持っていた傘の先で頭を思い切り殴りつけた。その音はまるで結婚式のベルのように聴こえた。目の前の彼女はスローモーションのように倒れて、そのまま頭から地面に叩きつけられる。血がじわりと地面に流れるが、すぐに雨で洗い流されていく。笑いが止まらなかった。虚ろな目でこちらを見ている。あの時の彼女と同じように蔑んだ表情で見つめる。嫌な顔をする彼女に腹が立って、思わず首を絞めた。ヒュッと喉が鳴る。その様子を見て愛おしく感じた。死なない程度に首から手を離すと綺麗な赤いネックレスが輝いていた。これでもう他の男に取られることはない。もう二度と離さないと誓った。薬指についていた指輪を投げ捨てて、あの日に買った指輪を彼女に嵌めた。ピッタリだった。緑の宝石が雨に反射してより一層輝きを増していた。そして誓いの口づけをした。雨の音がまるで拍手のように二人を包み込む。彼女の長い髪が新婦のヴェールのように見えた。凄い数の参列者が二人を祝福してくれている。感謝の気持ちでいっぱいだった。彼女は緊張して息が荒いけど、薄く開いた目で幸せそうに微笑んでいる。彼女は目を開いて今も確かに生きている。あの日の蔑む表情が嘘みたいに晴れやかだった。必ず彼女を幸せにすると心に決めた。


 傘を捨ててお姫様抱っこをしたまま部屋を目指す。二人で雨に濡れながら走った。彼女が雨に濡れないように傘は捨てなければ良かったと思った。後で風邪を引いたら大変だ。その時は優しく看病しよう。二人とも元気ならいつものバーに行こう。楽しみだ。穏やかな日々をいつまでも寄り添って歩もう。彼女と描く未来はいつだって鮮やかで美しい。今もこうして体温を感じ合っている。雨の冷たさにも負けない暖かさ。雨なのに晴れ渡る心。彼女はこちらにずっと愛おしい眼差しを向けている。幸せだった。モノクロの世界に彩りが戻ってきた。

 ようやく部屋に辿り着く。二人とも雨でぐしゃぐしゃだった。部屋に入ってそのまま放り投げたら、後ろからガタリと扉が重く閉まった音が響く。キーンと耳鳴りがした。横たわる姿を見たらまた怒りが込み上げてきた。怒りに任せて、近くにあった鏡を殴る。割れた鏡は万華鏡のように景色も感情もめくるめく。その欠片を拾い上げ振りかざすと紅い飛沫が飛ぶ。それでも愛おしくて一心不乱に刺し続けた。白いシャツが紅いシャツに変わる。雨で濡れたシャツにあたたかく染み渡っていく。全身で彼女を感じられて堪らなく幸せだった。その喜びの色は取り戻した彩りよりも強烈で夢のような極彩色だった。彼女の頭上にはいつもの赤い傘が広がっている。その傘が隣にあることが嬉しかった。やっと日常に帰ることが出来た。


 暗闇の中で、まだ微かに生命の光を感じた。生きてもいない、死んでもいない。とても美しかった。口が「助けて」と動いても関係なかった。何もかもが遅過ぎた。もう二人は後に引けない。笑いながら怒りをぶちまける。その度に紅が散る。無我夢中で振りかざした。とうとう僅かな光も消えた。その姿でさえ美しい。永遠に眺めていたかった。真っ暗な部屋に戻る。残ったのは血の生臭さと動かない彼女だった。

 それでも満足できなかった。何かが足りない。欠片を今度は自分に突き刺した。何度も何度も躊躇いもなく刺し続けた。ゆっくりと彼女の血と自らの血が混ざっていく。まるで寄り添って歩いているかのようだった。足りないものはまさにこれだった。正解の道を辿ることが出来て良かった。痛みは感じない。むしろ、こんな時間が永遠に続けばいいのにと思った。だって、自分達は結婚したのだから。これから描く未来は薔薇色だ。新しい家を建てよう。家に帰ると彼女が微笑みかける。そんな美しく楽しい未来だ。胸の高鳴りが収まらなかった。

 徐々に目の前が真っ白になる。まるでこれからの未来へ吸い込まれていくようだった。そして、極彩色の中に崩れ落ちていった。そのまま無限に続く深い夢に堕ちていった。これでまた一つになれたのだ。今度は邪魔者はいない。二人はまた幸せな生活に戻ることが出来たのであった。例え、それが虚像であっても。

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