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時間泥棒
時間泥棒
菊池まりな
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年08月05日
公開日
3,115字
完結済
毎朝10分遅刻していた田中は、ある日「時間を集める老人」に出会い、自分の10分を奪われる。以後、時間感覚が狂い始めた田中は、失った時間の重みを知り、自ら新しい10分を生み出すことで本当の時間の価値に気づいていく──そんな不思議で心に残る物語。

時間泥棒

田中は、また遅刻した。


「すみません、電車が遅れて…」


嘘だった。電車は定刻通りに来ていた。ただ、家を出るのが10分遅かっただけだ。いつものように。


上司の佐藤は呆れた顔で時計を指差した。午前9時10分。田中の出社時刻は、もはや会社の恒例行事と化していた。


「田中君、君はいつも10分遅刻するね。時計が壊れているのかい?」


「申し訳ありません。気をつけます」


田中は深々と頭を下げた。本当に気をつけるつもりでいた。毎朝、目覚まし時計を見ながら「今日こそは」と誓うのだが、気がつくと同じ時間に家を出ている。まるで体内時計が狂っているかのように。


帰り道、田中はいつもの横断歩道で信号待ちをしていた。隣に小さな老人が立っている。腰が曲がり、杖をついた、どこにでもいそうな普通のおじいさんだった。


「すみません」


老人が田中の袖を軽く引いた。


「時間を教えていただけませんか?」


田中は腕時計を見た。午後6時50分。


「6時50分です」


「ありがとうございます。ところで、10分いただけませんか?」


田中は首をかしげた。


「10分、ですか?」


「ええ。あなたの10分を」


老人の目が、一瞬だけ金色に光ったような気がした。しかし、すぐに信号が青になり、田中は慌てて渡り始めた。振り返ると、老人の姿はもうなかった。


変な人だな、と田中は思った。10分をください、とはどういう意味だろう。まあ、世の中には変わった人がいるものだ。


翌朝、田中は目覚まし時計の音で目を覚ました。いつもの時間、午前7時30分。シャワーを浴び、朝食を取り、身支度を整える。すべてがいつものルーティン。


そして、いつものように家を出ようとして、田中は愕然とした。


時計が午前8時50分を指している。


「そんなばかな」


田中は腕時計を確認した。やはり8時50分。壁の時計も、携帯電話も、すべて同じ時刻を示している。


今日は遅刻しない。田中は慌てて駅に向かった。電車に飛び乗り、会社に着いたのは午前9時ちょうど。定刻通りだった。


「おはようございます」


田中が颯爽とオフィスに現れると、同僚たちがざわめいた。佐藤も驚いた顔で時計を見ている。


「田中君、どうしたんだい?今日は時間通りじゃないか」


「はい、頑張りました」


田中は胸を張った。やればできるじゃないか。


しかし、午後になって田中は妙な違和感を覚えた。同僚の山田が、いつもより早く昼食から戻ってきたのだ。山田はいつも1時間きっかりランチタイムを取る男だった。


「山田さん、今日は早いですね」


「え?いつもと同じですよ。12時から1時まで」


山田は不思議そうな顔をした。しかし田中の時計では、山田が戻ってきたのは12時50分。10分早いはずだった。


その日の帰り道、田中は再び例の横断歩道を通った。そして、また同じ老人に出会った。


「昨日はありがとうございました」


老人が田中に向かって微笑んだ。


「昨日?何のことですか?」


「10分をいただいたのです。おかげで、私の時間が豊かになりました」


老人の目が、また金色に光った。今度ははっきりと見えた。


「あなたは…何者ですか?」


「私は時間を集める者です。無駄な時間、余った時間、捨てられた時間。そういうものを拾って歩いています」


田中の背筋に寒気が走った。


「私の遅刻する10分を…」


「取らせていただきました。あなたには不要でしょう?毎日毎日、同じ10分の遅刻。それは習慣という名の時間の無駄遣いでした」


老人は杖をついて歩き始めた。


「でも、私は別に構わないと言っていません」


「構わないでしょう?あなたは今日、遅刻しませんでした。私があなたの『遅刻する10分』を回収したからです。Win-Winの関係です」


田中は追いかけようとしたが、老人は人混みの中に消えてしまった。


家に帰って、田中は考え込んだ。確かに今日は遅刻しなかった。でも、何かが違う。何かが足りない。


翌朝も、田中は定刻通りに起きた。しかし、どんなに急いでも、家を出るのは8時50分。遅刻することができないのだ。まるで体が10分を忘れてしまったかのように。


会社でも、田中の時間感覚は周囲とずれていた。会議が始まったと思ったら、すでに10分経っていた。昼休みが終わったと思ったら、まだ10分残っていた。田中の中から、10分という時間の単位が消えていた。


一週間後、田中は再び老人を探して街を歩いていた。そして、公園のベンチで老人を見つけた。


「あなただ」


田中は老人の前に立った。


「10分を返してください」


老人は穏やかに微笑んだ。


「なぜです?あなたは遅刻しなくなったでしょう?」


「でも、何かがおかしいんです。時間の感覚が狂って…」


「それは当然です。あなたの一部を取ったのですから」


老人は杖の先で地面に円を描いた。


「時間というのは、その人固有のものなのです。あなたの10分は、あなただけの10分。他の人の10分とは違う。それを失うということは、あなた自身の一部を失うということです」


田中は膝が震えた。


「じゃあ、返してもらえませんか?」


「一度取った時間は返せません。しかし…」


老人は立ち上がった。


「代わりの時間を差し上げることはできます。例えば、誰かの『早く帰りたい10分』や、『待ち時間の10分』など」


「それでは意味がありません。私の10分でなければ」


老人は首を振った。


「あなたの10分は、もう私の一部になってしまいました。私はその10分で、別の誰かの時間を修復したのです」


田中は絶望した。自分の一部が永遠に失われてしまったのだ。


「でも、一つだけ方法があります」


老人が振り返った。


「新しい10分を作ることです。あなた自身の力で」


「新しい10分?」


「そうです。10分早く起きる、10分長く働く、10分多く笑う。新しい習慣で、新しい時間を生み出すのです。それは以前の10分とは違うかもしれませんが、確実にあなたのものになります」


老人は歩き去ろうとした。


「待ってください。あなたは一体何者なんですか?」


老人は振り返って微笑んだ。


「時間の管理人です。人々が無駄にした時間を回収し、本当に必要な人に分配する。それが私の仕事です」


「でも、それは泥棒では…」


「泥棒?」

老人は笑った。

「あなたがその10分で何をしていましたか?毎朝同じ遅刻を繰り返すだけ。それは時間の無駄遣いでした。私はそれを、病気の子供の『もう少し遊びたい10分』に変えました。どちらが価値のある使い方でしょうか?」


田中は言葉を失った。


「考えてみてください」

老人は最後に言った。

「時間は有限です。無駄にするのは罪なのです」


老人が去った後、田中は公園のベンチに一人座っていた。時計を見ると、午後7時。もう暗くなり始めている。


田中は決心した。明日から、10分早く起きよう。10分多く家族と話そう。10分長く本を読もう。失った10分を取り戻すために。


翌朝、田中は6時20分に目を覚ました。10分早い。鳥のさえずりが聞こえる。こんなに清々しい朝があったのかと、田中は驚いた。


ゆっくりと朝食を取り、新聞を読み、家族にも「おはよう」と声をかける。そして8時40分に家を出た。10分早い出発。


会社には8時50分に到着。定刻より10分早い。


「おはようございます」


同僚たちが驚いた顔で田中を見た。佐藤も目を丸くしている。


「田中君、今日は随分早いね」


「はい。新しい習慣です」


田中は微笑んだ。失った10分の代わりに、新しい10分を手に入れたのだ。


それから一ヶ月後、田中は再び例の横断歩道を通った。老人の姿はなかった。もう会うことはないだろう。


しかし、田中は老人に感謝していた。奪われた10分の痛みを通して、時間の大切さを学んだのだから。


今、田中の時計は正確に時を刻んでいる。そして、その一分一秒が、以前よりもずっと輝いて見えた。


時間泥棒は、結果的に田中に本当の時間の価値を教えてくれたのだった。


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