田中は、また遅刻した。
「すみません、電車が遅れて…」
嘘だった。電車は定刻通りに来ていた。ただ、家を出るのが10分遅かっただけだ。いつものように。
上司の佐藤は呆れた顔で時計を指差した。午前9時10分。田中の出社時刻は、もはや会社の恒例行事と化していた。
「田中君、君はいつも10分遅刻するね。時計が壊れているのかい?」
「申し訳ありません。気をつけます」
田中は深々と頭を下げた。本当に気をつけるつもりでいた。毎朝、目覚まし時計を見ながら「今日こそは」と誓うのだが、気がつくと同じ時間に家を出ている。まるで体内時計が狂っているかのように。
帰り道、田中はいつもの横断歩道で信号待ちをしていた。隣に小さな老人が立っている。腰が曲がり、杖をついた、どこにでもいそうな普通のおじいさんだった。
「すみません」
老人が田中の袖を軽く引いた。
「時間を教えていただけませんか?」
田中は腕時計を見た。午後6時50分。
「6時50分です」
「ありがとうございます。ところで、10分いただけませんか?」
田中は首をかしげた。
「10分、ですか?」
「ええ。あなたの10分を」
老人の目が、一瞬だけ金色に光ったような気がした。しかし、すぐに信号が青になり、田中は慌てて渡り始めた。振り返ると、老人の姿はもうなかった。
変な人だな、と田中は思った。10分をください、とはどういう意味だろう。まあ、世の中には変わった人がいるものだ。
翌朝、田中は目覚まし時計の音で目を覚ました。いつもの時間、午前7時30分。シャワーを浴び、朝食を取り、身支度を整える。すべてがいつものルーティン。
そして、いつものように家を出ようとして、田中は愕然とした。
時計が午前8時50分を指している。
「そんなばかな」
田中は腕時計を確認した。やはり8時50分。壁の時計も、携帯電話も、すべて同じ時刻を示している。
今日は遅刻しない。田中は慌てて駅に向かった。電車に飛び乗り、会社に着いたのは午前9時ちょうど。定刻通りだった。
「おはようございます」
田中が颯爽とオフィスに現れると、同僚たちがざわめいた。佐藤も驚いた顔で時計を見ている。
「田中君、どうしたんだい?今日は時間通りじゃないか」
「はい、頑張りました」
田中は胸を張った。やればできるじゃないか。
しかし、午後になって田中は妙な違和感を覚えた。同僚の山田が、いつもより早く昼食から戻ってきたのだ。山田はいつも1時間きっかりランチタイムを取る男だった。
「山田さん、今日は早いですね」
「え?いつもと同じですよ。12時から1時まで」
山田は不思議そうな顔をした。しかし田中の時計では、山田が戻ってきたのは12時50分。10分早いはずだった。
その日の帰り道、田中は再び例の横断歩道を通った。そして、また同じ老人に出会った。
「昨日はありがとうございました」
老人が田中に向かって微笑んだ。
「昨日?何のことですか?」
「10分をいただいたのです。おかげで、私の時間が豊かになりました」
老人の目が、また金色に光った。今度ははっきりと見えた。
「あなたは…何者ですか?」
「私は時間を集める者です。無駄な時間、余った時間、捨てられた時間。そういうものを拾って歩いています」
田中の背筋に寒気が走った。
「私の遅刻する10分を…」
「取らせていただきました。あなたには不要でしょう?毎日毎日、同じ10分の遅刻。それは習慣という名の時間の無駄遣いでした」
老人は杖をついて歩き始めた。
「でも、私は別に構わないと言っていません」
「構わないでしょう?あなたは今日、遅刻しませんでした。私があなたの『遅刻する10分』を回収したからです。Win-Winの関係です」
田中は追いかけようとしたが、老人は人混みの中に消えてしまった。
家に帰って、田中は考え込んだ。確かに今日は遅刻しなかった。でも、何かが違う。何かが足りない。
翌朝も、田中は定刻通りに起きた。しかし、どんなに急いでも、家を出るのは8時50分。遅刻することができないのだ。まるで体が10分を忘れてしまったかのように。
会社でも、田中の時間感覚は周囲とずれていた。会議が始まったと思ったら、すでに10分経っていた。昼休みが終わったと思ったら、まだ10分残っていた。田中の中から、10分という時間の単位が消えていた。
一週間後、田中は再び老人を探して街を歩いていた。そして、公園のベンチで老人を見つけた。
「あなただ」
田中は老人の前に立った。
「10分を返してください」
老人は穏やかに微笑んだ。
「なぜです?あなたは遅刻しなくなったでしょう?」
「でも、何かがおかしいんです。時間の感覚が狂って…」
「それは当然です。あなたの一部を取ったのですから」
老人は杖の先で地面に円を描いた。
「時間というのは、その人固有のものなのです。あなたの10分は、あなただけの10分。他の人の10分とは違う。それを失うということは、あなた自身の一部を失うということです」
田中は膝が震えた。
「じゃあ、返してもらえませんか?」
「一度取った時間は返せません。しかし…」
老人は立ち上がった。
「代わりの時間を差し上げることはできます。例えば、誰かの『早く帰りたい10分』や、『待ち時間の10分』など」
「それでは意味がありません。私の10分でなければ」
老人は首を振った。
「あなたの10分は、もう私の一部になってしまいました。私はその10分で、別の誰かの時間を修復したのです」
田中は絶望した。自分の一部が永遠に失われてしまったのだ。
「でも、一つだけ方法があります」
老人が振り返った。
「新しい10分を作ることです。あなた自身の力で」
「新しい10分?」
「そうです。10分早く起きる、10分長く働く、10分多く笑う。新しい習慣で、新しい時間を生み出すのです。それは以前の10分とは違うかもしれませんが、確実にあなたのものになります」
老人は歩き去ろうとした。
「待ってください。あなたは一体何者なんですか?」
老人は振り返って微笑んだ。
「時間の管理人です。人々が無駄にした時間を回収し、本当に必要な人に分配する。それが私の仕事です」
「でも、それは泥棒では…」
「泥棒?」
老人は笑った。
「あなたがその10分で何をしていましたか?毎朝同じ遅刻を繰り返すだけ。それは時間の無駄遣いでした。私はそれを、病気の子供の『もう少し遊びたい10分』に変えました。どちらが価値のある使い方でしょうか?」
田中は言葉を失った。
「考えてみてください」
老人は最後に言った。
「時間は有限です。無駄にするのは罪なのです」
老人が去った後、田中は公園のベンチに一人座っていた。時計を見ると、午後7時。もう暗くなり始めている。
田中は決心した。明日から、10分早く起きよう。10分多く家族と話そう。10分長く本を読もう。失った10分を取り戻すために。
翌朝、田中は6時20分に目を覚ました。10分早い。鳥のさえずりが聞こえる。こんなに清々しい朝があったのかと、田中は驚いた。
ゆっくりと朝食を取り、新聞を読み、家族にも「おはよう」と声をかける。そして8時40分に家を出た。10分早い出発。
会社には8時50分に到着。定刻より10分早い。
「おはようございます」
同僚たちが驚いた顔で田中を見た。佐藤も目を丸くしている。
「田中君、今日は随分早いね」
「はい。新しい習慣です」
田中は微笑んだ。失った10分の代わりに、新しい10分を手に入れたのだ。
それから一ヶ月後、田中は再び例の横断歩道を通った。老人の姿はなかった。もう会うことはないだろう。
しかし、田中は老人に感謝していた。奪われた10分の痛みを通して、時間の大切さを学んだのだから。
今、田中の時計は正確に時を刻んでいる。そして、その一分一秒が、以前よりもずっと輝いて見えた。
時間泥棒は、結果的に田中に本当の時間の価値を教えてくれたのだった。