「もう多分、私は二度と犬を飼うことができないと思います。本当は大好きなんですけれどね」
青ざめた表情でそう語り始めたのは女子大生の遠山由紀さん。
彼女には生涯、心の傷となって消えないであろう出来事を小学校六年生の頃、経験したと言う。
当時、遠山さんの家ではゴンという大型犬を飼っていた。
犬種はゴールデンレトリーバーの雑種。ペットショップでお迎えした子ではない。動物愛護団体が開催する授与会で見染めた保護犬だった。
「元の飼い主からよほど酷い扱いを受けていたのか……。いつもオドオドして、悲しい目をしていました。いつもヒンヒン鼻を鳴らしていましたし」
ゴンの世話全般は主に遠山さんの担当だった。
「あの子の面倒は別に苦じゃなかったですね。元々、犬や猫、ハムスター……学校の飼育小屋のウサギやニワトリの世話なんかもよくやっていました」
自他ともに認める動物好きでしたね、と遠山さんは小さく笑った。
「ゴンの世話で一番大切なこと?……そうですね。やっぱり散歩でしょうか」
ゴンを片道20分ほどの距離を往復するのが遠山さんの日課だった。
一日に二回。朝学校に行く前と帰宅後、日が暮れるまでに、と言った感じで。
「ただ夏場は……暑い日差しの中、歩かせるのは全身毛皮に覆われたゴンにとっては辛いですし、二度目の散歩の時間を夜、夕食の後にずらしていましたね。その方が私も楽でしたから」
しかし、まだ小学生の女の子が大型犬を連れているとはいえ、一人で夜道を歩くのは少々不用心な気がしますね、と私が告げたところ、
「……確かにそうですね。だけど、私の実家ってすごい田舎だったから。家の近所にあるものと言えば、ほとんど田んぼだったんですよね。だから、治安はかえっていいぐらいでした」
そんなわけで――。
その日の夜も遠山さんはゴンのリードを手に散歩へと出かけた。
むせかえる様な熱気の中、等間隔に置かれた街灯と手にした懐中電灯しか明かりがない中、遠山さんは愛犬とともにいつものコースを進んだそうだ。
「さっきも言った通り、私の家の近所は田んぼだらけで——。夏の夜は何百匹もの蛙たちが一斉にゲロゲロ鳴いていてうるさいぐらいなんです。だから、物寂しいとか怖いって気持ちは特になかったですね。……まあ、蛙自体はあまり好きじゃなかったですけど」
やがて折り返し地点――近所のお年寄り連中が良く集まっている、比較的広めな児童公園に到着した遠山さんは公園の中を一回りし、水飲み場の蛇口をひねってゴンに水分を補給した後、来た道を戻って自宅に帰ることにした。
しかし、遠山さんが公園の出入り口に足を向けかけた時だった。
「あのう、夜分に申し訳ないのですが……」
背後から突然、聞き覚えのない声が投げかけられた。
思わず息を飲んで、遠山さんは振り返っていた。
「そしたら立っていたんです。真夏だって言うのにフード付きの赤いダウンジャケットを着たおじさんが」
遠山さん曰く、蚊柱の群がる街灯の下にその男はポツンと一人、佇んでいたという。
男性としては小柄な身体つきで、頭の位置は小学生の遠山さんより僅かに高いぐらい。
頭の位置は小学生の遠山さんより僅かに高い。
遠山さんと逆光状態なのとフードを被っていたため顔は良く見えなかったが、なぜか遠山さんには笑っているように感じられた。
それは決して感じの良い笑顔じゃなかった。
「あくまで私のイメージなんですけど……引き裂くような笑い方っていうか、とにかく圧が強い表情で、何て言えばいいか……」
「威嚇されている?」
「そう、ですね。今思えば……」
それが一番しっくりする表現かも、と遠山さんはうなずいていた。
「あのぅ、夜分に申し訳ないのですが……」
同じ言葉をダウンジャケットの男が繰り返す。
「ちょっと迷ってしまって……。道をおたずねしてもいいですか?」
「はい……」
うなずくしかなかった。
男の口調は柔らかだったが含み笑いをしていて、どこか小馬鹿にされているようで不愉快だったが。
足元ではゴンが見知らぬ男の声がけに緊張しているのか、身を固くしているのがわかった。
「■■市民病院にはどう行けばいいのでしょう?」
「あー……。この公園を抜けて少し行ったら神社があるんですけど、その入り口にバス停がありますよ。それに乗ってもらったら……」
遠山さんは身振り手振りを交え、早口に説明した。
一秒でも早く、この薄気味の悪い男から解放されたかった。
「じゃあ、私はこれで」
失礼します、と震える声で告げ遠山さんは踵を返していた。それからゴンのリードを強くひきながら足早に歩き始めた。
しかし、
「あの夜分に申し訳ないのですが!」
後ろで男の怒鳴り声が聞こえた。
怖くて振り返ることはできなかったが、明らかに後をつけてきていることは明白だった。
「ちょっと迷ってしまって!道をおたずねしてもいいですかぁ⁉」
さっきと同じセリフ。だけど、距離はずっと近い。
「もう怖くて怖くて……。頭の中が真っ白、って言うんですか?とにかく追いつかれたら酷い目に遭わされる、逃げなきゃ。……その一心でした」
しかし、運の悪いことに遠山さんは道に落ちていた木の枝に足を引っかけ、その場に転んでしまう。
その拍子に手首からリードの輪が抜けてしまい――、地面に手をつき顔をあげた遠山さんの目に映ったのは一目散に走り去ってゆく愛犬の姿だった。
「その時は正直、この裏切り者って思っちゃいましたね。あんなに可愛がってあげてるのにって。ゴンはゴンであの男が怖かったんでしょうけど……」
何とか立ち上がり、遠山さんもゴンの後を続こうとした時だった。
スッと影が差し、誰かが目の前に立ち塞がる気配がした。
遠山さんは顔を跳ね上げていた。
後ろをついて来ていたはずのダウンジャケットの男がいつの間にか遠山さんの前に回り込み、彼女を見下ろしていた。あの引き裂くような笑顔で顔を固まらせたまま。
「■■市民病院にはどう行けばいいのでしょう!?」
男が絶叫し、遠山さんは甲高い悲鳴をあげていた。
まるで空気を入れられたアドバルーンのように男の身体がムクムクと膨れ上がってゆく。あっという間に男の身体の体積は三倍以上に増え、遠山さんの視界をほとんど覆いつくしていた。
「あの時の男の私を見る目……。あれは多分、死ぬまで忘れられないと思います。爛々と光って、私にロックオンしたまま動かないって言うか……。あれは獲物を狙う目でした」
その目からは怪しい力が発せられていたのかもしれない、と遠山さんは付け加える。人間性を微塵も感じさせない男に視線にさらされ、彼女は身動き一つできなくなっていた。
「だんだん、意識が遠のいていって……ああ私このまま死んじゃうんだって……」
遠山さんが諦めかけた時だった。
突然、「ギャン!」と切り裂くような叫び声を男が張りあげた。その途端、遠山さんの身体は自由を取り戻し、彼女はその場でたたらを踏んでいた。
そして、ゴンが男のふくらはぎ辺りに喰らいついているのを見た。逃げたと思ったが主人の危機を悟り、引き返してきたのだ。
と、全身を膨れ上がらせていた男の身体にまたもや異変が生じた。
ダウンジャケットを内側から破るようにして露わになった男の身体は真っ黒な毛皮に覆われていた。
凄まじい怒りの唸り声をあげながら男が、男だったものがゴンの首の後ろに喰らいついた。甲高い苦悶の声をあげながらも、ゴンは男だったものから離れなかった。
牙を突き立てたまま激しく頭を振り、相手の肉を引き千切ろうとする。
と、遠山さんとゴンの目が合った。
「都合のいい解釈だったかも知れないけれど……ゴンは私に早く逃げろって言っている気がしました」
それから数分後、遠山さんは這うようにしてコンビニ逃げ込み助けを求めた。すぐに警察が呼ばれ、遠山さんの家族も駆けつけ静かな田舎町の夜は大騒ぎとなった。
それから程なくして……。
捜索に協力した青年団が田んぼのすぐ側で血まみれの姿でぐったりしているゴンを発見した。すぐさま獣医のもとに運んだが、残念なことにそれから一週間もしないうちに傷が悪化し、ゴンは死んでしまった。
遠山さんとゴンが夜道で遭遇した男について誰も信じてはくれなかった。
山から餌を求めて降りてきたツキノワグマをパニックを起こした遠山さんが見間違いしたのだろう、ということになった。
しかし、
「あれは絶対ツキノワグマなんかじゃありません。人間の言葉を話せるツキノワグマなんていますか?……あれは大きなイタチでした」
三角形の身元細長い胴体に長くフサフサした尻尾。
それは友達の家で触らせてもらったフェレットによく似ていたと遠山さんは言う。
「もっとも友達のフェレットとは違ってあいつに可愛げなんて少しもありませんでしたけどね。あれは野生の……、ていうかバケモノだと思います」
強い口調でそう断言した後、ガックリと両肩を落として遠山さんは続けた。
「あの出来事以来、夜道が怖くって……。それは何とか乗り越えたんですけど、街中で飼い主さんに散歩させてもらって嬉しそうにしているワンちゃんを見ると未だに胸が苦しくなってしまうんです」
そう言って遠山さんは目を潤ませた。
(了)