放課後の空は、絵の具で塗りつぶしたような群青色に傾きかけていた。
商店街の雑踏を抜け、俺――霧島蒼は、何となく家へ向かって歩いていた。
鞄は片方の肩にかけ、イヤホンは片耳だけ。音楽のはずが、今日はやけに遠く感じる。
俺には、普通じゃない目がある。
子供の頃から、人が見えないはずのものが見えた。影の形をしているやつ、骨だけのやつ、笑ってるくせに泣いてるやつ……名前もつけられない。
どれも、俺を楽しませようなんて気はない。たいていは、俺を巻き込みにくる。
だから、俺は心に決めた。
――どんな理不尽でも、心で耐えてやる。逃げるより、押し返す。俺様はそういう生き方しかできない。
その夜も、俺はただ帰るつもりだった。
ところが、公園の入り口で足が止まった。
古びたブランコの隣のベンチに、セーラー服姿の女子高生が座っていた。
夕焼けに照らされた横顔は、やけに白く、紙細工みたいに薄い。
……背後の街灯が透けて見えている。間違いない、あれは“こっち側”じゃない。
俺と目が合った瞬間、彼女は微笑んだ。唇だけが動く。
――「ありがとう」
声はないのに、意味だけが頭に突き刺さった。
次の瞬間、こめかみに鋭い痛み。視界が血の色に覆われる。
流れ込んできた映像は、川沿いの夜景。
冷たい風、背中への衝撃、水面が迫る感覚。肺が潰れ、喉が水で詰まり、胸の奥で何かが軋む音がする。
これは……溺れる感覚だ。しかも、俺の体で。
呼吸が奪われる。足が動かない。
「……ふざけんな」
心の奥で叫び、思念を押し上げる。体の中に入り込もうとする冷たさを、力ずくで押し返す。
ぱちん、と糸が切れたように景色が戻った。公園のベンチにはもう誰もいない。
ただ、足元の土がやけに湿っていた。
湿った足元を睨んでいると、背後から落ち着いた女の声がした。
「……ずいぶん派手に拒んだわね」
振り向くと、古びたコートを羽織った長髪の女が街灯の下に立っていた。
三十代半ば。整った顔立ちに、鋭い眼光。
そのくせ、手にはコンビニの缶コーヒー。湯気が立っている。
「誰だ、お前」
「成海。幽霊専門探偵社の所長」
女はあっさりと名乗った。
「探偵社?」
「幽霊の依頼を、生きてる人間が解決する。それが私の仕事」
そう言って一口コーヒーを飲む。
「で、あんた――霧島蒼。幽霊が見えて、しかも思念で弾き返せる。今の拒絶、なかなかのもんよ」
「……勝手に調べたのか」
「ええ、勝手に」
成海は悪びれもせず、俺の足元に目をやる。
「さっきのは、溺死の霊ね。死んだ時の感覚を押し付けてきた。普通の人間なら、そのまま持っていかれてたわ」
俺はポケットからハンカチを取り出し、靴についた泥を拭った。
「感謝はしねえぞ。勝手に巻き込まれただけだ」
「感謝なんていらない。あんたは、仕事ができる」
成海はポケットから名刺を出す。
「明日から、手伝ってもらうわ。報酬は、その命」
「……脅迫かよ」
「事実よ。理不尽は、鍛えなきゃ呑まれるだけ」
そう言い残し、成海は背を向けた。
翌日、雑居ビル二階の探偵社を訪れると、机の上にはファイルとコーヒーの空き缶が散乱し、窓際には半透明の人影が二つ三つたたずんでいた。
成海は椅子に腰かけ、手元の資料をめくる。
「昨日の溺死の子、名前は沢渡真弓。二年前にこの町の川で亡くなってる」
俺は椅子に座り、腕を組む。
「で、何で“ありがとう”なんて言った?」
「まだわからない。でも、あの拒絶で霊に一瞬だけ自我が戻ったのかもしれない。そういう時、感情が漏れることがあるの」
その日の午後、俺と成海は川沿いへ向かった。
成海が持つ“幽痕カメラ”の液晶には、水面の手すり付近に淡い人影が揺れていた。
「ここね」
足元の土を踏むと、昨日の湿り気と同じ感触が靴底に伝わる。
そのとき、耳元でかすかな声がした。――「ありがとう」。
振り返ったが、誰もいない。
ただ、手すりの先、川面が夕陽に照らされて黄金色に輝いていた。
成海はカメラを下ろし、俺に缶コーヒーを差し出す。
「これは、まだ“入り口”よ。覚悟しておきなさい」
俺は缶を受け取り、指先に温かさを感じながら、川面を睨んだ。
「上等だ。来るなら来い」
その足元で、水滴がぽたりと音を立てた。