放課後の空は、夕暮れとも夜ともつかぬ、紫と群青が溶け合った境界色をしていた。
駅前の広場は仕事帰りや学生たちで賑わっているのに、空気はどこか薄く、喧騒の奥で水底のような静けさがひっそりと漂っている。
街灯の光が細かい粒となって零れ落ち、地面に伸びる影は風もないのにかすかに揺れていた。それは普通の影とは違う、不安を呼ぶ揺らぎだった。
「……来るぞ」
隣を歩く成海が、わずかに眉を寄せて小さく言う。声は低いが、確信がこもっていた。
彼女の視線の先――雑踏の流れから浮き上がるように、一人の男が立っていた。背丈も服装もごく普通だ。だが足元から広がる影だけが異様に濃く、輪郭が墨汁を垂らしたようにじわじわと地面を染めていく。これは成海が以前説明してくれた「異常の兆候」そのものだった。
男が足を止めた瞬間、周囲の笑い声や会話がぱたりと途切れた。
残ったのは、耳の奥をざわざわと擦るような低い響き――いや、これは影が放つ声だ。
「影喰いだな……」
成海が短く吐き捨てる。
霊魂だけでなく、生きた人間の影までも喰らう異形。影を奪われた者は、感情も意思も失い、ただの抜け殻になる――そう、俺は聞かされていた。
今日は、成海に呼ばれ、俺とレイが共に影喰いの捜索にあたっていた。
レイ。人間ではないが、影喰いとはまったく別の系統に属する存在だという。細身の体、夜気を吸い込むように光を返す銀色の髪。人混みの中でもひときわ目を引くその姿は、味方でありながら得体の知れなさを纏っていた。
その双眸は鋭く細められ、視線の刃が影喰いを真っすぐ射抜いている。
「……あんた、ビビってない?」
片眉を上げ、挑発めいた笑みを浮かべる。
「ビビるかよ。そっちは本気出せんのか?」
「本気なんて、まだ見せたことないよ」
唇の端がわずかに吊り上がった瞬間、影喰いが動いた。
地面から影が剥がれ、ぬらぬらと蠢く黒い触手となって四方へ伸びる。
その動きは生物の筋肉ではなく、冷たい液体が意志を持って這い寄ってくるかのようだった。
「下がって!」
成海の鋭い声が響く。
俺は即座に思念を集中し、足元に迫った触手を刃の形に変えた意志で切り裂く。切り口から滲んだ黒い液体は霧となって消え、周囲の空気が一瞬だけ冷たく沈んだ。これは影喰いの力が周囲の熱を奪った証だ。
影喰いの本体は人の形を保ったまま、影を揺らしながら真っ直ぐこちらへと歩み寄ってくる。
歩幅ごとに影の形は歪み、足元の模様や段差を呑み込みながら迫ってきた。距離は十歩ほど――まだ時間はあるが、油断すれば一瞬で飲まれる間合いだ。
「レイ、行け!」成海が叫んだ。
「了解」
レイの足元から、黒紫色の影が波紋のように広がった。
その輪郭は花弁のように開き、瞬く間に鋭い棘を備えた鎖へと変形する。音もなく走った鎖が影喰いの両足を絡め取り、動きを封じ込めた。
しかし次の瞬間、影喰いの足元の影が内側から捻じれ、鎖を噛み砕くように破り捨てる。影同士が軋む音が広場に響き、空気がさらに重くなった。
影の唸りが広場に満ちる。
俺は息を吸い、思念を槍の形に変えて一気に踏み込んだ。
狙いは影喰いの胸。だが槍先がぶつかったのは、石のように硬い抵抗だった。筋肉ではなく、凝縮した影の壁だ。
「硬ぇな……」
「無駄口叩く暇があれば、もっと力を込めなよ」
レイの影が再び俺と影喰いの間に滑り込み、棘を広げて進路を塞ぐ。
その刹那、影喰いの影が地面を這い、俺の背後から自分の影を噛みつくように侵食してきた。
影に噛まれる感覚は、骨の奥に冷気が突き刺さるようだ。神経が凍り、視界が一瞬暗転する。
「……ッ!」
膝が折れかけた瞬間、冷たい影が俺の足元に広がり、噛みついていた影を押し返す。
レイの影だ。影喰いの攻撃が遮られ、本体の動きが一瞬止まる。
「かばった……のか?」
「勘違いするな。あんたが倒れたら面倒になるだけだ」
そっけない声だが、ほんのわずかな熱が混じっている――そう感じた。
影喰いの影が路地全体を覆い、街灯の光を完全に飲み込む。
視界は墨で塗り潰されたように沈み、足裏の感覚も頼りない。
影は地面だけでなく壁や空中にまで滲み、形を変えながら口を開閉して近づいてくる。
「蒼、右に三歩! 足元切れ!」
成海の声が暗闇の中の一本の糸となって俺を導く。
声は落ち着いているが、僅かな緊張が混じる。
指示通りに刃を振り下ろすと、絡みついていた触手が裂け、その部分の影が後退して視界がわずかに開けた。
「遅い!」
背後を黒い影が通り抜ける。振り返れば、レイの影が細く鋭く伸び、影喰いの足を再び絡め取っていた。
だがそれも数秒。影喰いの輪郭が脈動するように膨らみ、拘束を力任せに引きちぎる。
「お前、無茶すんな!」
「言ったろ。本気なんてまだ見せてない」
レイの足元に広がる影がさらに濃くなり、輪郭が猛獣のように蠢く。
それは蛇のように絡み、鷲の爪のように尖り、影喰いの影と正面からぶつかった。
黒と黒が押し合い、引き合い、ぶつかるたびに闇色の火花が散る。
俺はその隙に距離を詰め、思念を槍から鎖に変えた。
鎖は唸りを上げて伸び、影喰いの腕ごと胸を縛り上げる。
影喰いが吠え、触手を乱射するが、その一本一本をレイの影が叩き落とす。
「今だ!」
レイの影が一気に収束し、巨大な影槍へと形を変える。
俺の鎖が影喰いを固定した瞬間、その影槍が胸を貫いた。
鈍い衝撃と共に、影喰いの口から黒い霧が噴き出す。
霧は空気に溶け、影の海が急速に退いていく。
やがて残ったのは、人影の輪郭すらない空白――影を喰い尽くされた抜け殻のような消失だった。
荒い呼吸を整える俺に、レイが視線を寄越す。
「……まぁ、悪くなかったんじゃない?」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてると思ったら大間違い」
言葉はとげとげしいが、その瞳の奥にわずかな光が揺れたのを俺は確かに見た。
成海が足音を殺して近づいてくる。
「二人とも悪くなかったわ。影喰いは“残滓”が強い。倒した後も力の残り香が周囲に残るから、しばらくはこの辺に近寄らないこと」
地面に視線を落とすと、影喰いが最後に残した黒い小石のような塊があった。
拾い上げると、冷たい鼓動のような脈動が掌に伝わる。
「何だこれ」
「影喰いの核。力の一部が結晶化したもの。持っていてもすぐには害はないけど、影の力を引き寄せる性質があるから油断は禁物よ」
すると、レイが成海から、成海の手から素早く奪い取ると、蛇のような表情で、それを飲み込んだ。
「旨い、今日の報酬だ」
成海は飽きれたような顔をしている。
「死神と同じね。まあ、あなたの方がだいぶかわいいけど」
レイは少し動揺してたように言った。
「俺がかわいい、なめるなよ、成海」
「それが、かわいいの。ぼくちゃん」
「け、やってられるか」
広場へ戻ると、街の明かりと人の声が当たり前のように戻っていた。
さっきまでの異常は、誰の記憶にも残らない幻だったかのようだ。
「……なぁ、レイ」
「何だ」
「庇ってくれたの、ありがとな」
一言だけだが、胸の底から出た声だった。
レイはわずかに目を見開き、すぐにそっぽを向く。
「さぁ、どうだったかな。……気のせいじゃない?」
頬の端にかすかな赤が差しているのを、街灯の光が拾った。
俺は缶コーヒーを開け、一口飲む。
苦味の奥に、温かいものがほんの少しだけ残っていた――今日の戦いの後味のように。