お昼の休憩時間を使って悠真の会社に来た。
ロビーの天井は高くそびえ、まるで私を見
下す天の目のようだった。昨日のシーンが頭の中で過った。
「一有栖、聞いてほしい」
向かいに座る悠真は、猫なで声で口を開いた。
「あのことは、その・・・勢いで一」
「勢いで他人の寝床に転がり込む男は、見たことがないわ。続けて」
「本当に好きなのは有栖だ」
「好き?それは契約書に書けるの?」
会社受付には可愛い女性が座っていた。
おそらく派遣社員だろうけど、そんなことはどうでもいいんだ。
私は迷いなく指輪のケースを取り、カウンターに置きながら、
カウンターの電話を借りて内線電話をつなげた。
「あなたの手に戻す価値もないから、受付においてく」
電話の向こう側で悠真の感情は抑えながらも音量は抑えきれず「待って」という声が聞こえたが、私は電話を可愛い女性に返した。
そのパチパチする目はまるで私を応援してくれているかのようにも見えたが、まあそんなことはどうでもいいんだ。
外に出た瞬間、茜からのメッセージが飛んできた。
《解散する? 慰労会する? 泣く? 笑う?》
《笑う。毒多めで》
《了解。一軒目は辛口餃子》
夜の店で、餃子が来る前に私の毒はすべて吐き出された。
「指輪を受付に返すなんて、なかなかの毒手ね」
「人の目は一番の噂屋だから」
「性格の悪さに磨きがかかってる」
「それは褒め言葉として受け取るわ」
茜はビールを掲げた。
「次は仕事。来週のピッチはあんたが仕留めなさい」
「勝って、忘れる」
「忘れるんじゃない。上書きするのよ」
会場は投資家と経営者で満ち、欲望と金の匂いが渦巻いていた。
スタッフが「リハまであと5分」と声をかけてきた瞬間、背後から低く鋭い声がした。
「そのスライド、3枚削れ」
振り向くと、黒のジャケットの男が立っていた。眼差しは刃のように無駄がない。
精悍な顔立ちに冷ややかな視線、それでいて一度笑えば周囲を安心させる不思議な魅力を持つ。その人こそ、私が契約している会社のCEO――陸だった。
黒のスーツに身を包んだ彼は、社員の誰もが憧れと畏怖を抱く存在だ。決断力と行動力で会社を急成長させた若き経営者。だが、私にとっては単なる「遠い存在」ではなかった。
「“削れ”は刺さるわね」
「褒めている。余白は時に金を生む」
「どうしたの?」
「今日は僕も審査側だ。投資家は速度と決断を買う」
「私は物語で心を揺らす」
彼は口元をわずかに緩め、私のタブレットを指した。
「8枚目の一文が鋭い。そこに着地すれば勝てる」
「言い切るのね」
「言い切れぬ者は、金を掴めぬ」
私はマイクを握り、会場を射抜くように言った。
「——“好き”は領収書が切れません。でも信用は切れます」
空気が変わるのがわかった。
拍手の中、陸が一度だけ深く頷いた。
控室で陸が話しかけてきた。
「さっきの台詞、よかった」
「失恋を仕入れたばかりだから」
「それは災難だったな」
「損切りは早いほうが傷は浅いわ」
「——君の時間を30分くれ。夕食しながら相談したい」
「私の時間は安くない」
「高いほうが信頼できる」
レストランの窓の外で細い雨が降っていた。
「新規プロダクトのPRを任せたい。条件は上乗せする」
「前の男より?」
「これは市場価格の話だ。個人の価値じゃない」
「その線引きは大事ね」
時計は夜10時を指していた。
店を出ると、街の灯りが雨粒を宝石のように光らせていた。
「送る」
「歩ける距離よ」
「距離の問題じゃない」
信号待ちで、風が私の髪を揺らした。
「仕事は仕事。線を引ける人じゃないと無理よ」
「線は引く。消すときは一緒に確認しよう」
玄関前で彼が言った。
「今日はここまでにしよう」
「握手ならいいわ」
「キスより安全だ」
「投資は段階的に進めるものよ」
手が触れ、体温が移った。その温もりは、冬を越す火種のように胸に残った。
部屋の明かりをつけ、鏡の前で髪をほどいた。
——“好き”は領収書が切れない。でも、私の価値は誰にも値切らせない。
茜からメッセージが届いた。
《今日どうだった?》
《仕事になる。おそらくそれ以上にも》
《フェードアウトは慎重に》
《私の速度で行くわ》
窓の外の雨音が遠のき、指輪の跡はすでに薄れていた。