数か月後、桜の花が舞い散る季節。
私は小さなカフェのテーブル席に座っていた。朝の光が大きな窓から差し込み、ラテの表面に浮かぶ泡がゆらゆらと揺れている。
「本当に、もう大丈夫なの?」
向かいに座る友人が心配そうに尋ねる。
私は微笑んで、指先で薬指のリングをそっとなぞった。
「大丈夫。あのときの私は弱かった。でも今は、自分の足で立てる」
かつての涙と痛みが嘘のように、声には力が宿っていた。
ドアが開く音がして、潮風を運ぶように陸が現れる。
カジュアルなジャケット姿でも隠せない、凛とした存在感。視線が合うと、胸が高鳴った。
「待たせた」
「少しだけ」
二人は自然に笑い合う。
陸はテーブルの上に分厚い資料を置いた。
「次のプロジェクト、君にも関わってほしい。翻訳の力が必要なんだ」
「いいの? 私なんかで」
「君だからいいんだ。有栖の言葉は、人を動かすから」
胸の奥が熱くなる。恋人としてだけでなく、パートナーとしても認められている。その事実が何よりも嬉しかった。
窓の外では花びらが舞い、光が二人を包み込む。
指輪は確かにそこにあり、もう返す必要はない。
それは“所有”ではなく“選択”の証。
ふと未来を思う。
結婚式のこと。
もっと遠い未来、家族のこと。
そして——二人で歳を重ねていくこと。
「陸さん」
「ん?」
「私、この指輪……絶対に外さない」
言葉は照れくさかったが、真っ直ぐな気持ちだった。
陸は静かに笑い、私の手を握り返す。
「なら、俺も外さない」
カップの中のラテが冷めていくのも忘れ、ずっと微笑み合っていた。