目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
雪解けの君と
雪解けの君と
葵ひかり
恋愛現代恋愛
2025年08月14日
公開日
1,119字
完結済
17年の眠りから目覚めた君と。

雪解けの君と

 潮風を感じるテラス席で、お弁当の卵焼きを箸でつまみながら、彼女は言った。


「残酷」


 肩口で切り揃えられた髪と、胸元の赤いスカーフが、風に煽られて揺れる。顔にかかる横髪を、箸を持っていない手でそっと耳にかけると、アーモンド型のパッチリとした目で俺を見た。少し、怒っているようだった。


「怒ってる?」

「うん、怒ってる」


 つままれた卵焼きは存在を忘れられたのか、未だ口に運ばれない。


「どうして?」

「どうしても何もない。あなただけ大人になってしまったんだもの。私が眠っている間に」

「それは、そうだけど。俺は、君が生きていてくれて嬉しいよ」

「そんなのはエゴよ。私は辛い」


 彼女がそっと海の方へと視線を向ける。晴れているけれど、しけっているのか、荒っぽい波が白く見える。ゆっくりと瞳を瞬く彼女の顔は、ずっと変わっていない。十七年間ずっと。十七歳の姿のまま。黒襟のセーラー服も、喋り方も。十七歳の頃の俺が、向き合っていた彼女のまま。


「お父さんもお母さんも、歳をとってしまった。同級生は知らない人ばかりになって、同じ十七歳なのに、同じじゃない。私の知っていることと、あの子たちが知っていることは違うのよ。私だけ化け物になってしまったみたい。得体が知れないのよ、私自身が」


 怖いと続けた彼女は本当に怖がっているようだった。太陽に雲がかかって、彼女の顔にも影が落ちた。そうか、と頷いて返した。そうだよな、と思う。彼女の気持ちにはなれないが、イメージはできるから。


 彼女の両親が、未来の医療技術にかけて、彼女を深く冷たい眠りにつかせて十七年。十七年後の初夏、遅い雪解けのように、ゆっくりと彼女は目を覚ました。ずっとずっと、待ち焦がれていた。春の日が来ることを、ずっと。


「ごめんなさい。八つ当たり」

「いいよ」


 八つ当たりも、君が生きていなきゃされないことだから。そう言おうとして、それは彼女の負担になるかと思って、心の中にしまっておく。


「今、生きていられることは、本当に嬉しい」


 それは本当よ、と彼女は少し肩を竦めた。


「ただ、私も同じように、あなたと月日を重ねていきたかっただけ」


 長く海を見つめていた顔をこちらに戻した彼女は、ふっと柔らかく微笑むと、ようやく黄色い卵焼きを頬張った。遠くで、学校のチャイムが鳴っている。学校に戻らなくていいのか、と出かかって飲み込んだ。彼女もそれを分かっているようだった。「いきたかった」という言葉が「生きたかった」に聞こえたのは、俺だけだろうか。


「私の時間だけ、早く進んだらいいのにね。あなたの時間はゆっくりで。そうしたら、いつか追いつけるのに」


 彼女が言う「残酷」の意味が、俺の中で静かに芽吹いたのが分かった。生温い潮風が、赤いスカーフを揺らす。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?