朝の光は、賃貸の1LDKをやわらかく撫でていた。北向きの窓だから直射は入らないのに、白いレース越しの明るさがじゅうぶんで、私はそのやさしさに何度も救われてきた。
キッチンではスープがことこと鳴っている。鶏と生姜、玉ねぎをじっくり煮た、健介の好きな味。サラリーマンの朝は戦場、と昔の指名客が言っていたけれど、今はその「昔」が、目の前の夫と同じ人間だということが、たまに信じられなくなる。
「起きてる? もうすぐできるよ」
寝室に声をかけると、少し遅れてシャワーの音が止まった。
「助かる。今日、朝イチで客先だから」
現れた健介は、ネイビーのスーツに淡いグレーのネクタイ。営業の標準装備。髪はきっちり、靴はよく磨かれている。三年前、私は「常連」の中で、唯一、本名と職業を正直に明かしてくれた彼を選んだ。嘘の少ない人が良いと思っていた。
夜の世界で、嘘は日常で、だからこそ私は嘘に疲れていたから。
テーブルにスープとトースト、半熟のゆで卵。
「うまい。店出せるよ」
「出さないよ。私、朝だけに強い女だから」
「夜も強かったじゃん」
(あなたがそれを言うの?) と喉元まで出かかった冗談を、私は笑いでごまかした。
私は元・高級店の風俗嬢。彼はいつも私を指名してくれていた。
最後の出勤日——カーテンの向こうに座る彼の横顔を、私は忘れない。
別れ話でも慰留でもなく、ただ「普通の生活が似合うと思う」と、小声で言ってくれた。指名の延長をせがむ男は山ほど見たが、引退を背中で押す客は初めてだった。
食器を片づけながら、私は家じゅうに漂う「普通」の匂いを吸い込む。柔軟剤、ハンドソープ、出勤前のコロン。これが幸福の香りだと、信じたかった。
「帰り、何時になりそう?」
「たぶん九時前。接待入るかも」
「分かった。夜は軽めにしとくね」
「頼んだ」
キスは、軽く触れるだけ。付き合ってた頃より短くて、結婚直後よりも淡い。でも、それが悪いとは思わない。熱が永遠に続く関係なんて、物語の中だけだ。
私は現実の温度を知っている。
玄関が閉まる音。静けさが戻る。
シンクに手を入れ、ぬるい水で皿を流しながら、私は自分に問いかける。
——私は、いま、幸せ?
答えは、たいてい「うん」。
ただし語尾に小さなクエスチョンマークが揺れる。
夜の世界を上がると決めたあの日、私はすべてを畳んだ。
化粧台、ドレス、名刺、そして「源氏名」。鏡の前で髪を切り、ネイルを淡いベージュに変えた。
美咲として生きるって、こういうこと。
その選択は間違っていなかったと、思っている。少なくとも今のところは。
午前のうちに掃除と買い出しを済ませ、午後は近所の図書館へ向かった。司書に顔を覚えられるくらいには通っている。おすすめされる本は、いつも健やかで、真っ直ぐだ。恋愛小説の甘さはまだ苦手で、代わりに生活エッセイを借りた。
帰り道、商店街の角で「藤村ラウンジ」の看板が目に入り、胸が少しだけざわつく。美咲の元同僚、明子が引退後に始めた店。夜の女の卒業先は限られる。明子はそこで、昼と夜の境目を上手に編み上げている。
「久しぶり」
扉を開けると、ベルが控えめに鳴る。
「わ、みさき。来るなら連絡してよ」
「ちょっとふらっと。邪魔だった?」
「むしろ癒し。アイスコーヒーでいい?」
昼のラウンジは、光が似合う。不思議だ。夜の女たちは、ほんとは朝に強い。化粧を落とし、コルセットを外し、ため息の代わりにミルクを注ぐ時間を知っている。
「どう? 結婚生活」
「平和。事件なし」
「それ、嘘の匂いする」
「もー、職業病」
明子は目ざとい。私が笑いの温度をほんの少し下げたことに、すぐ気づく。
「彼、優しいよ。ちゃんと働いて、家でも気を遣ってくれて」
「それはよかった」
「でも……忙しいの、最近。夜も、なんか……距離?」
「ふうん」
明子はグラスの縁を指でなぞった。
「嫉妬じゃなく、勘として聞いて。男は忙しいときほど、わかりやすい嘘をつく。逆に言えば、嘘がない忙しさもある。見分けるコツは、目線」
「目線?」
「あなたの話をしてる時、スマホを見る男は二種類。仕事か、浮気。どっちでもすぐに結論は出さない方がいい。ただ、あなたは昔から、相手の嘘の温度に敏感だった」
私は笑って、氷が当たる音を聞いた。
「でも、決めつけない。私は、普通が欲しいの」
「わかる。だからこそ、普通を守るには、目を開けて」
明子の言葉はいつも現実的で、優しい。
夕方、買った食材を冷蔵庫にしまい、洗濯物を取り込み、スマホで家計簿をつける。
支出は安定。貯金も少しずつ増えている。問題なし。
ただ、通知に既読のつかないメッセージが、ひとつ。
『今日は何時頃?』
一時間前に送ったやつ。営業は忙しいし、返信がないのは普通。
でも、私は「普通」という言葉に過敏になっている自覚がある。
炊飯器をセットし、野菜を切って、常備菜を二つ。時計の針は19時を回った。
健介から、まだ返事はない。
私は連絡を急かすような女にはなりたくないと、自分に言い聞かせる。
21時。着信音が鳴る。
「ごめん、遅くなる。接待、長引いてさ。終わったらまた連絡する」
背後のざわめき。グラスの触れ合う乾いた音。笑い声。女性の笑いも混じるけれど、接待なら普通だ。
「分かった。無理しないでね」
通話を切ったあと、私はリモコンでテレビの音を小さくし、窓を少し開けた。夜風がカーテンを揺らす。
胸の中で、小さな違和感が丸くなって眠ろうとする。眠らせておけ、と理性が言う。起きろ、と別の私がささやく。
23時半になって玄関の鍵が回る音がした。
「おかえり」
「ただいま。ごめん、ほんと遅くなって」
ネクタイが少し曲がっている。ワイシャツの袖口に、淡い香水の香り。柑橘系ではない、粉っぽい甘さ。
私は思わず、自分の鼻を疑った。
「匂い、する?」
健介が冗談半分に訊ねる。
「ううん。気のせい」
嘘をついたのは私だ。プロだった頃の勘が、起き上がってしまったから。香りの層、残り方、時間。女の腕の内側に顔を埋めて嗅ぎ慣れた種類の、残り香。
でも、決めつけはしない。私はもう、夜の捜査官じゃない。
遅い夜食に、軽くスープを温める。「接待で食べたから大丈夫」と言う彼に、私は小鉢をひとつ無理やり置く。
味見、という名目の、確かめたい会話のための時間。
「最近、忙しそうだね」
「うん、まあね。案件が詰まってて」
「営業先、どの辺?」
「都内。丸の内とか」
「へえ。丸の内、好き」
「美咲は似合うよ、ああいう街」
目線は、私の目から半歩ずれる。テーブルの角、時計、そしてスマホ。
私は笑って、箸を置いた。
「今度、二人で行こう」
「もちろん」
その「もちろん」は、ふわっとしていた。形のない風船みたいに、天井へ昇って消えそうな。
夜、健介が眠ったあと、私は静かに起き上がって、クローゼットの奥から薄い箱を取り出した。
そこには、源氏名のカードが一枚。艶のある黒字で書かれた、もう使わない名前。
あの頃の私なら、匂い一つで男の嘘の種類まで当てた。財布の厚み、靴の傷、舌の回り具合、指の角質——全部、情報だった。
でも、私は今、妻でありたい。探偵にも、詮索魔にもなりたくない。
それでも、胸の奥の針は、微かに北をさしてしまう。
スマホが振動した。深夜0時過ぎ。
画面に、未知の番号からのメッセージ通知。
『本日のお客様へ:ご来店ありがとうございました。次回のご予約もお待ちしております。——椎名ゆかり』
心臓が、一拍遅れて落ちた。
私は一度目を閉じ、深呼吸をしてから、もう一度読み直す。
件名も本文も、見慣れたテンプレ。現役の店が使う、予約導線。誤送信、の可能性? でも、私の番号は、もう夜の帳簿には載っていない。
そして、名前。——椎名ゆかり。
私の、元・後輩。
背筋に、冷たいものが走った。
私の「普通の幸せ」は、いま、かすかな音を立てて軋んだ。
私はゆっくりと、箱の蓋を閉じた。
——決めつけない。けれど、目は開けておく。
明日の朝、私はいつも通りスープを作るだろう。
でも、もう、ただの「いつも通り」ではない。
静かな部屋に、レースのカーテンが揺れた。
私の中の、夜の女が、息をひそめて目を覚ました。