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夜を捨てた妻、夫を捨てる。
夜を捨てた妻、夫を捨てる。
Amy
恋愛現代恋愛
2025年08月15日
公開日
3.1万字
連載中
ーーー毎週月水金6:30に公開中ですーーー 水野 美咲(みずの みさき)/29歳 元高級ソープ嬢。夜の世界で鍛えた接客力と色気を武器に、客からの指名もトップクラスだった。 3年前に「普通の幸せ」を求めて風俗を引退し、当時の常連客だった健介と結婚。 尽くすタイプで家庭を守るが、夫の裏切りにより復讐を決意。 水野 健介(みずの けんすけ)/34歳 美咲の元客で、現在の夫(のちに元夫)。 IT関連企業の営業職。表向きは誠実そうだが、実は性欲と承認欲求が強い。 椎名 ゆかり/25歳 現役風俗嬢。美咲の元同業の後輩にあたる。 したたかで金にシビア、男を手玉に取る小悪魔 高橋 誠二(たかはし せいじ)/40歳 美咲が雇った探偵。元刑事で人脈が広く、情報収集に長ける。 一条 蓮(いちじょう れん)/32歳 財閥「一条グループ」の御曹司。表の顔は大手ホテルチェーン副社長。 冷静沈着だが、裏では女性関係に奔放で、本気の恋をしたことがない 一条 彩音(いちじょう あやね)/28歳 蓮の妹。華やかで世間知らずなお嬢様。 一条 慎一郎(いちじょう しんいちろう)/60歳 蓮と彩音の父で、一条グループ会長。 藤村 明子(ふじむら あきこ)/35歳 美咲の元同僚で、風俗業界を引退後はラウンジ経営者。

第1話 普通の幸せ

 朝の光は、賃貸の1LDKをやわらかく撫でていた。北向きの窓だから直射は入らないのに、白いレース越しの明るさがじゅうぶんで、私はそのやさしさに何度も救われてきた。

 キッチンではスープがことこと鳴っている。鶏と生姜、玉ねぎをじっくり煮た、健介の好きな味。サラリーマンの朝は戦場、と昔の指名客が言っていたけれど、今はその「昔」が、目の前の夫と同じ人間だということが、たまに信じられなくなる。


「起きてる? もうすぐできるよ」

 寝室に声をかけると、少し遅れてシャワーの音が止まった。

「助かる。今日、朝イチで客先だから」

 現れた健介は、ネイビーのスーツに淡いグレーのネクタイ。営業の標準装備。髪はきっちり、靴はよく磨かれている。三年前、私は「常連」の中で、唯一、本名と職業を正直に明かしてくれた彼を選んだ。嘘の少ない人が良いと思っていた。

夜の世界で、嘘は日常で、だからこそ私は嘘に疲れていたから。


 テーブルにスープとトースト、半熟のゆで卵。

「うまい。店出せるよ」

「出さないよ。私、朝だけに強い女だから」

「夜も強かったじゃん」

 (あなたがそれを言うの?) と喉元まで出かかった冗談を、私は笑いでごまかした。

私は元・高級店の風俗嬢。彼はいつも私を指名してくれていた。


 最後の出勤日——カーテンの向こうに座る彼の横顔を、私は忘れない。

別れ話でも慰留でもなく、ただ「普通の生活が似合うと思う」と、小声で言ってくれた。指名の延長をせがむ男は山ほど見たが、引退を背中で押す客は初めてだった。


 食器を片づけながら、私は家じゅうに漂う「普通」の匂いを吸い込む。柔軟剤、ハンドソープ、出勤前のコロン。これが幸福の香りだと、信じたかった。

「帰り、何時になりそう?」

「たぶん九時前。接待入るかも」

「分かった。夜は軽めにしとくね」

「頼んだ」

 キスは、軽く触れるだけ。付き合ってた頃より短くて、結婚直後よりも淡い。でも、それが悪いとは思わない。熱が永遠に続く関係なんて、物語の中だけだ。

私は現実の温度を知っている。


 玄関が閉まる音。静けさが戻る。


 シンクに手を入れ、ぬるい水で皿を流しながら、私は自分に問いかける。


 ——私は、いま、幸せ?


 答えは、たいてい「うん」。


ただし語尾に小さなクエスチョンマークが揺れる。


 夜の世界を上がると決めたあの日、私はすべてを畳んだ。

化粧台、ドレス、名刺、そして「源氏名」。鏡の前で髪を切り、ネイルを淡いベージュに変えた。

 美咲として生きるって、こういうこと。

 その選択は間違っていなかったと、思っている。少なくとも今のところは。


 午前のうちに掃除と買い出しを済ませ、午後は近所の図書館へ向かった。司書に顔を覚えられるくらいには通っている。おすすめされる本は、いつも健やかで、真っ直ぐだ。恋愛小説の甘さはまだ苦手で、代わりに生活エッセイを借りた。


 帰り道、商店街の角で「藤村ラウンジ」の看板が目に入り、胸が少しだけざわつく。美咲の元同僚、明子が引退後に始めた店。夜の女の卒業先は限られる。明子はそこで、昼と夜の境目を上手に編み上げている。


「久しぶり」

 扉を開けると、ベルが控えめに鳴る。

「わ、みさき。来るなら連絡してよ」

「ちょっとふらっと。邪魔だった?」

「むしろ癒し。アイスコーヒーでいい?」


 昼のラウンジは、光が似合う。不思議だ。夜の女たちは、ほんとは朝に強い。化粧を落とし、コルセットを外し、ため息の代わりにミルクを注ぐ時間を知っている。


「どう? 結婚生活」

「平和。事件なし」

「それ、嘘の匂いする」

「もー、職業病」

 明子は目ざとい。私が笑いの温度をほんの少し下げたことに、すぐ気づく。


「彼、優しいよ。ちゃんと働いて、家でも気を遣ってくれて」

「それはよかった」

「でも……忙しいの、最近。夜も、なんか……距離?」

「ふうん」

 明子はグラスの縁を指でなぞった。


「嫉妬じゃなく、勘として聞いて。男は忙しいときほど、わかりやすい嘘をつく。逆に言えば、嘘がない忙しさもある。見分けるコツは、目線」

「目線?」

「あなたの話をしてる時、スマホを見る男は二種類。仕事か、浮気。どっちでもすぐに結論は出さない方がいい。ただ、あなたは昔から、相手の嘘の温度に敏感だった」


 私は笑って、氷が当たる音を聞いた。

「でも、決めつけない。私は、普通が欲しいの」

「わかる。だからこそ、普通を守るには、目を開けて」

 明子の言葉はいつも現実的で、優しい。


 夕方、買った食材を冷蔵庫にしまい、洗濯物を取り込み、スマホで家計簿をつける。

支出は安定。貯金も少しずつ増えている。問題なし。


 ただ、通知に既読のつかないメッセージが、ひとつ。

『今日は何時頃?』

 一時間前に送ったやつ。営業は忙しいし、返信がないのは普通。

でも、私は「普通」という言葉に過敏になっている自覚がある。


 炊飯器をセットし、野菜を切って、常備菜を二つ。時計の針は19時を回った。

 健介から、まだ返事はない。

私は連絡を急かすような女にはなりたくないと、自分に言い聞かせる。


 21時。着信音が鳴る。

「ごめん、遅くなる。接待、長引いてさ。終わったらまた連絡する」


 背後のざわめき。グラスの触れ合う乾いた音。笑い声。女性の笑いも混じるけれど、接待なら普通だ。

「分かった。無理しないでね」


 通話を切ったあと、私はリモコンでテレビの音を小さくし、窓を少し開けた。夜風がカーテンを揺らす。

 胸の中で、小さな違和感が丸くなって眠ろうとする。眠らせておけ、と理性が言う。起きろ、と別の私がささやく。


 23時半になって玄関の鍵が回る音がした。

「おかえり」

「ただいま。ごめん、ほんと遅くなって」

 ネクタイが少し曲がっている。ワイシャツの袖口に、淡い香水の香り。柑橘系ではない、粉っぽい甘さ。

 私は思わず、自分の鼻を疑った。

「匂い、する?」

 健介が冗談半分に訊ねる。

「ううん。気のせい」


 嘘をついたのは私だ。プロだった頃の勘が、起き上がってしまったから。香りの層、残り方、時間。女の腕の内側に顔を埋めて嗅ぎ慣れた種類の、残り香。

 でも、決めつけはしない。私はもう、夜の捜査官じゃない。


 遅い夜食に、軽くスープを温める。「接待で食べたから大丈夫」と言う彼に、私は小鉢をひとつ無理やり置く。

味見、という名目の、確かめたい会話のための時間。


「最近、忙しそうだね」

「うん、まあね。案件が詰まってて」

「営業先、どの辺?」

「都内。丸の内とか」

「へえ。丸の内、好き」

「美咲は似合うよ、ああいう街」

 目線は、私の目から半歩ずれる。テーブルの角、時計、そしてスマホ。

 私は笑って、箸を置いた。

「今度、二人で行こう」

「もちろん」

 その「もちろん」は、ふわっとしていた。形のない風船みたいに、天井へ昇って消えそうな。


 夜、健介が眠ったあと、私は静かに起き上がって、クローゼットの奥から薄い箱を取り出した。


 そこには、源氏名のカードが一枚。艶のある黒字で書かれた、もう使わない名前。

 あの頃の私なら、匂い一つで男の嘘の種類まで当てた。財布の厚み、靴の傷、舌の回り具合、指の角質——全部、情報だった。

 でも、私は今、妻でありたい。探偵にも、詮索魔にもなりたくない。

 それでも、胸の奥の針は、微かに北をさしてしまう。


 スマホが振動した。深夜0時過ぎ。

 画面に、未知の番号からのメッセージ通知。

『本日のお客様へ:ご来店ありがとうございました。次回のご予約もお待ちしております。——椎名ゆかり』


 心臓が、一拍遅れて落ちた。

 私は一度目を閉じ、深呼吸をしてから、もう一度読み直す。


 件名も本文も、見慣れたテンプレ。現役の店が使う、予約導線。誤送信、の可能性? でも、私の番号は、もう夜の帳簿には載っていない。

 そして、名前。——椎名ゆかり。

 私の、元・後輩。


 背筋に、冷たいものが走った。


 私の「普通の幸せ」は、いま、かすかな音を立てて軋んだ。

 私はゆっくりと、箱の蓋を閉じた。

 ——決めつけない。けれど、目は開けておく。

 明日の朝、私はいつも通りスープを作るだろう。

 でも、もう、ただの「いつも通り」ではない。

 静かな部屋に、レースのカーテンが揺れた。

 私の中の、夜の女が、息をひそめて目を覚ました。

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