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第13話:若月「そういえば、いつからちゃんと絵を描いてないんだっけ」

 手術から三日が経ち、園田さんが目を開いた。

 その一報を授業中に礼子さんからのLINEで知った僕は、放課後になるとすぐに学校を飛び出して病院へと向かった。

 梅雨の晴れ間の下、全速力で自転車を漕ぐとさすがに汗が吹き出してくる。こんな状態で園田さんがいるHCUに入るのは気が引ける。

 病院に到着しても、すぐに園田さんのもとへは向かわず、談話室で缶の炭酸ジュースを買って、窓際の席に座り、それを飲みながら汗が引くのを待った。

 窓から外を見下ろすと隣のテニススクールのコートがよく見える。小学生くらいの子供達が、体いっぱい使ってラケットを振っている姿が目に入った。


「来てたんだ」


 突然、女性にしてはハスキーで低めの声で話しかけられた。

 誰かに声をかけられると思っていなかった僕は、びくりと体を強張らせてゆっくり振り返る。

「そんな怖がらなくてもいいじゃん」

 制服姿のままの千堂さんが、呆れたような表情で僕を見下ろして鼻で笑った。整った形の切れ長の目が少し赤く染まっている。


「園田さんは起きてた?」

「うん。ナコ起きてたよ」


 千堂さんの目尻に涙が溜まるのが見てとれる。そんな顔を僕なんかに見られたくないのだろう。体ごとあっちを向いて、腕で目を拭った。


「で、あんたはなんでまだ会いに行かないわけ?」


 千堂さんが、体を翻すと同時に尋ねてきた。


「急いできたから汗が凄くてさ。汗が引いてからの方が良いかなって思って」

「そっ。まあ確かに汚そうだしね、あんたの汗」

「汗に綺麗とかあるの?」


 呆れたように聞き返す。


「ナコとあたしの汗は綺麗よ。美人女子高生の汗とか高く売れるんじゃない?」


 千堂さんはくつくつと笑って、自信ありげに鼻を鳴らした。


「一部のマニアには大うけだろうね。特にそれが染み込んだ制服のワイシャツとかだとより高価になりそうだ」

「変態」


 千堂さんは侮蔑の眼差しで僕を睨み、冷たく言い放った。


「あんたさ、ナコの前とあたしの前で態度違いすぎない? ナコの前だとそんな変態みたいなこと言わないでしょ」

「だろうね。園田さんの前では少しでもかっこつけたいし」


 思春期の男子なら、誰だって恋焦がれる女の子の前だとそうなるもんだ。


「だったらその暗い前髪どうにかしろっつーの。あ、その前にあんたの場合はその人殺してそうな目からどうにかするべきか。整形でもしたら?」


 僕の瞳は小さくて三白眼だ。そのせいで千堂さんが言ったみたいに犯罪者の目をしてるって昔から言われることがあった。それが以前は本当に嫌だった。だけど今は違う。園田さんが僕の目を見て、こう言ってくれたんだから。


「残念、園田さんは僕の瞳は綺麗だって言ってくれたから意外と気に入ってるんだ」

「ほんと残念。まさかナコが男を見る目が無いなんてね。唯一にして最大の欠点だわ」


 千堂さんが首を横に振って、嘆くように大きく溜息をついた。

 そんな他愛もないやりとりをしている間に汗も十分に引いた。僕は椅子から腰を上げる。


「それじゃ、行ってくる」


 千堂さんに一言告げてから、空になったジュースの缶を手にとって歩き出す。


「ねえ」


 また千堂さんが声をかけてきた。僕は顔だけ振り返らせて「なに?」と尋ねる。


「ナコ、ちょっとだけなら会話もできるから」


 切れ長で涼やかな目を一瞬だけ伏せたように見えた。何かを言い淀んだように感じた。


「そうなんだ」


 会話もできるようになっているとは思っていなかった。

 どおりで、さっき嬉しそうに涙を浮かべていたわけだ。それを教えてくれる為に話しかけてきてくれたらしい。僕は嫌われているかもだけど、千堂さんも根はいい人だ。


「ありがとう」


 僕はお礼を口にして、空になったジュースの缶をゴミ箱に投げるようにして手から離す。缶がゴミ箱の縁にあたって、中に入らず外に落ちた。

 床に落ちたアルミ缶の甲高い音が響く。僕は慌てて拾い、しっかりとゴミ箱に捨てた。


「ダサッ」


 千堂さんが、物凄く呆れたように呟いたのが聞こえたけど、聞こえていないフリをしてHCUへと向かい、中に入る。

 手をしっかりと洗って、マスクを装着する。

 音をたてないように歩き、一番奥の園田さんがいるベッドへと向かう。途中、常在している看護師に軽く会釈すると、返してくれた。

 昨日まで腕につけられていた管の数が劇的に減っていた。

 それだけで僕は飛び跳ねそうになるくらい嬉しさでいっぱいになる。もちろん、そんなことはできないから気持ちを落ち着かせてベッドの横に立った。


「園田さん」


 大きな声は出せないので、耳元に顔を近づけて優しく名前を呼んでみる。

 すると、園田さんがもぞもぞと体をゆっくりと動かした。そして、閉じていても綺麗な形の目をゆっくりと開いた。感極まって胸が詰まる。

 目を開いてくれたということだけで、僕は涙を流しそうになった。

 今日までずっと眠っていたのだから、やっぱり眩しいのだろう。完全に瞼を開いてるわけではなくて薄目だ。それでも確実に開いた瞼の奥に黒い瞳が覗き見える。


「園田さん、僕だけどわかる? 若月香だけど」


 僕の問いかけに園田さんは小さく頷いて、ゆっくりと口を動かす。僕は慌てて、園田さんの言葉を聞くために口元に耳を近づける。


「おと、う、と」


 園田さんは、空気に溶けてしまいそうなほどか細い声でポツリとそう口にした。

 弟? 頭の中にクエスチョンマークが浮かんだがすぐに理解した。同時に、胸にズシリと重いものが圧し掛かったのを感じたけど、すぐに気持ちを持ち直す。


「弟じゃ、ないけどね」


 僕は微笑みながら優しく否定した。

 園田さんは記憶が混在しているらしい。僕はそれにショックを受けたりしない。この数日、スマホや図書館でくも膜下出血のことを調べた。だから、記憶が混在することがあるってことはわかっていた。一時的に忘れられていても仕方ない。そのくらいは想像していた。それに、色々と調べたからこそ、僕はそれなりの覚悟が出来ている。

 園田さんは後遺症が残るだろう。

 僕は側にいて、色々と手伝って支えていくつもりだ。

 今はそれよりも生きてくれているだけで胸がいっぱいだ。目を覚まして、短いながらも言葉も発することができて、少しずつ回復していることが嬉しい。

 その後、一言、二言、声をかける。園田さんは頷いたり、少し首を横に振って答えてくれた。

 少しすると、薄く開いていた目をゆっくりと閉じた。疲れたのだろう。そのまま静かな寝息をたてて眠ってしまった。

 寝ている姿をしばらく眺めていると、礼子さんがHCUに入ってきた。

 礼子さんは僕に「ありがとう」と小さくお礼を口にした。僕も一言だけ「良かったです」と答えて、礼子さんとバトンタッチする形で、HCUを出る。その足で病院を後にしようとエレベーターに乗って一階まで下り、正面玄関から外に出た。

 今日は晴れているとはいえ梅雨真っ只中だ。湿り気のある風がじとりと僕の体を撫でるように吹き抜けていく。その風に花壇の草花が揺られ、さわさわと音をたてた。

 その音に誘われるように視線を向ける。花壇の縁石に腰掛けて、ポニーテールが揺れる千堂さんの後姿が見えた。


「まだいたんだ」


 声をかける。千堂さんが体を強張らせてこちらを振り向いた。


「そんな怖がらなくてもいいだろ」


 さっき談話室で言われたことをそのまま言い返す。千堂さんが僕を睨みつけて、花壇の中にあった小さな石を投げつけてきた。

 僕はそれを甘んじて体で受けとめて、問いかけた。


「で、どうしたの?」


 千堂さんは少し言い辛そうに一度顔を俯かせて、ほんの少しの間をとった後、こちらに顔を向けて尋ねてきた。


「ナコ、あんたのこと覚えてた?」

「いいや。弟だって言われたよ。実際、弟っているのかな」


 僕は、わざとらしく肩を竦めてみせる。


「いない」


 その返答に、園田さんの記憶はあやふやになっているのだと確信した。


「あたしも、若月も来るって言ったんだけど、誰かわかってなかったみたいだからさ。あんたが話しかけたら、思い出すかなって思ったんだけど……」


 千堂さんが口ごもった。

 なんとなく千堂さんが何を言いたいのかを察した。談話室で言い淀んだように見えたのも気のせいではなくて、このことを言うべきか迷ったんだな。


「大丈夫。色々と調べて覚悟はしてたから。僕のことは覚えてなくても、園田さんが生きていてくれるだけで嬉しいから。それを気にしてくれたんだ? ありがとう」


 そのことに関しては僕なりに気持ちの整理はできている。素直にお礼の言葉を口にすると、千堂さんは少し照れたように頭を掻いた。


「まあ、それならいいけど」

「それで、園田さんは千堂さんのことは覚えてた?」


 逆に問いかける。少しでも記憶が正常な部分があるのなら、そういうところから混在している記憶も回復していくかもしれないと思ったからだ。


「うん。あたしのことは覚えてたよ」

「そっか、それなら良かった」


 安堵する。だけど、千堂さんの表情は浮かばない。僕はどうしたのかと問いかける。


「他のクラスの子とかは、覚えてなかったんだ」


 千堂さんの言葉に、胸がチクリと痛んだ。

 園田さんは千堂さんのことは覚えていた。僕のことは弟だと言って、他のクラスメイトのことも覚えていない。僕のことは、他のクラスメイトと同等くらいの関係と思われていたのだろうか。ダメだ。そんなことを考えるな。今はそれで良い。その覚悟くらいしてただろ。


「でも、少しでもちゃんと覚えてることがあるってのは良いことだと思う」


 僕は震えそうになる声を必死に抑えて、できるだけ平常心を装った。


「あんた、意外と強いんだね。ちょっとだけ見直したよ」


 千堂さんが、初めて笑顔を向けてくれた。園田さんの側にいるときによく浮かべている千堂さん本来の笑みだった。褒められるとは思ってなくて、どこかむず痒い。


「あたしも気持ち強く持つよ。そんじゃ」


 千堂さんは駐輪場の方へと歩いて行きながら、後ろで結っていた髪のゴムを外した。黒い髪が背中の肩甲骨の辺りまで下りた。

 僕も自転車で来てるからそっちの方角なんだけど、なんとなく褒められた後にすぐ後ろをついていくのは気まずい。千堂さんが出てから向かおうとその場で待つことにする。

 激しいエンジン音が空気を震わせた。少しすると、制服姿のままの千堂さんが、中型の赤いバイクに跨って颯爽と目の前を走り去って行く。はためいたスカートの裾から、体操着を折り曲げたハーフパンツが見えた。

 スカートをはためかせながら遠ざかっていく千堂さんの後ろ姿を眺めながら、園田さんが言った「弟」という言葉を思い返す。

 さっき感じた胸の痛みの後に、なんとなく針で刺したような小さい黒い点が残っているような気がして、気持ちが少しだけ重く感じる。

 空を見上げる。梅雨晴れの少しだけ白がかった水色の空。じとりと湿り気のある空気のせいで気分が重いんだろうと自分に言い聞かせて、無理矢理別のことを考える。

 何か園田さんにしてあげられることはあるだろうか。話しかけるだけじゃなくて僕ができることを。そうだ。園田さんが起きたんだから、刺激になるものを見せてあげよう。園田さんは僕の絵の色が好きだって言っていたから絵を描こう。

 花壇の周りを羽ばたく黄色い蝶の姿を目で追いかける。久しぶりにこうして景色を見たような気がして、ふいにこんなことを考えた。

 そういえば、いつからちゃんと絵を描いてないんだっけ。

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