布団の布が擦れる音が聞こえて、寝ている園田さんに視線を向けた。薄目を開けて、黒い瞳がこちらをじっと見つめている。
僕は笑みを浮かべようとする。だけど、さっき礼子さんから聞いた話が頭の中で反芻されて、頬が引きつる。両手で頬を軽く捏ねて、今度はちゃんと微笑んで見せた。
「わかつき、くん?」
園田さんが呆けた顔のまま、か細い声で呟いた。
「おはよう園田さん。よく眠れた?」
平常心、と心の中で強く唱えながら、表面上は普段通り優しく声をかける。
園田さんの白く生気のないこけた頬が、急に血が通ったように赤く染まった。それと同時に、薄く開いていた目を真ん丸くなるくらい見開いて、右手で顔を覆った。
「はずかしいよ。まだ、みないで」
園田さんが顔をそむける。
「おかあさん、わたし、かお、へんじゃない?」
園田さんは、あっちを向いたまま礼子さんに問いかける。礼子さんは、優しく笑った。
「大丈夫。可愛いわよ」
「おけしょう。ちゃんと、してる?」
「してるわよ。莉歩ちゃんにしてもらったんでしょ? 大丈夫、綺麗よ」
「ほんと? ほんとにほんと?」
「本当に本当」
そこまで確認して、園田さんはやっと納得したらしい。ゆっくりこちらを向いて、右手を布団について体を支えながら上体を起こした。背中を壁にくっつけて姿勢を保持する。恥ずかしげに顔を俯かせて、ちらちらと視線をこちらに向けてくる。
「全然、変じゃない」
僕はできる限り優しい口調で伝える。園田さんが俯いていた顔をあげて、微笑んでくれた。
目は倒れる前と同じ、三日月みたいに細く可愛らしい。右側の口角上がりが笑顔になる。
だけど左頬は動かない。唇の左端は持ち上がらず、麻痺で動かなくなった左の口角から一筋、涎が垂れている。
それに礼子さんも気付いたらしい。枕元に置いてあったボックスティッシュから一枚引き抜いて、優しく園田さんの涎を拭った。
「よだれ?」
園田さんが礼子さんに尋ねる。
「ううん、蚊がとまってたから捕まえようとしたの。逃げられちゃった」
「え、やだ。かまれちゃったかなあ。おかあさん、あとに、なってない?」
園田さんは、礼子さんが拭った辺りを動かせる右手で隠すように軽く押さえた。
「痕にはなってないわよ。噛まれる前にお母さんが気付いたから大丈夫よ」
「ほんとにほんと?」
「本当に本当よ」
また園田さんは何度も念入りに確認する。さっきと同じように礼子さんは微笑んで答えた。その通り痕なんてない。蚊なんて止まってなかったんだから。だけど、それが礼子さんの気遣いだということはわかった。女の子だから涎が垂れてる姿なんて見られたくないに決まってる。そういう羞恥心がでてきたのは良いことだ。回復しているってことなんだ。
園田さんは納得したらしく「よかった」と胸を撫で下ろしていた。
突然、礼子さんのスマホの着信音が病室に響いた。礼子さんは慌てて鞄からスマホを取り出して、一瞬画面に視線を落とした後、申し訳無さそうに眉尻を下げて僕に確認してきた。
「若月くん、ちょっと任せて良い? おばさんの兄から電話なの」
「はい大丈夫です」
「ごめんね」
そう言って、礼子さんはスマホを持って病室を出て行った。
「わかつきくん。まだ、いれる? わたし、ひとりにしない?」
ドアが閉まってから、園田さんが心配そうに問いかけてきた。
「大丈夫。まだまだ時間はあるよ。夏休みだからね」
「そっかあ。なつやすみ、なんだね。みんな、げんきかなあ」
「元気だよ」
「ん、だれがげんきなの?」
園田さんが皆が元気かを気にしたのに、僕が答えるとそれを忘れたように首を傾げた。
会話がちぐはぐになることはたまにある。最初に比べるとほとんど無くなった。それでも、この瞬間はやっぱり少し辛い。胸が苦しくなる。
それを態度に出してはいけない。園田さんに見せてしまうと傷つけてしまう。だから僕は、自分には似合わないとわかっていながら、おどけた口調で「僕がだー」と答えて、園田さんの枕元に膝をつき、硬直している左頬をマッサージするように指で軽くぐりぐりと捏ねる。
園田さんの左頬は硬直したままだけど、猫みたいな笑顔を浮かべて、くすぐったそうに顔をもぞもぞと動かした。
「そっか。わかつきくん、げんきなんだ。よかったあ。わたしもげんきだよ」
「本当に元気?」
ふいに言葉が口からついて出て、「しまった」と思った。
私も元気という園田さんの言葉に対し、思わず真剣な口調で尋ねてしまった。「ご飯を食べてないのに?」と言ってしまいそうになった。
「わかつきくん」
園田さんが僕の名前をポツリと呼んだ。その声にドキリとする。僕が聞きそうになったことを悟られてしまったのかと思った。
「ごはんのときも、いっしょに、いてくれる?」
園田さんが不安そうな表情でお願いしてきた。
「夕飯のときも?」
聞き返すと、園田さんは小さく「うん」と頷いた。
「それじゃ、今日は夜ご飯のときも一緒にいることにするよ。そこのコンビニで僕も自分のご飯買ってくるから、一緒に食べよう」
「うんっ。いっしょに、たべようね。たのしみだなあ」
園田さんは不安そうな表情から一転、笑みを浮かべ、嬉しそうに体を左右に揺らした。
「あ、そうだ。これ持ってきたよ」
ここに来る途中、図書館で借りた絵本を鞄から取り出して、園田さんに手渡す。園田さんは目を少しきらきらと輝かせて、絵本を受け取った。
「ありがとう。わかつきくんからの、おみやげだ」
絵本そのものなのか、僕が持ってきたことなのか、園田さんはどっちに嬉しさを感じているのかはわからない。だけど、こういう良い感情はきっと今後の為にもプラスになるはずだ。
園田さんは絵本を布団の上に置いて、右手で一枚ずつめくっていく。たまにめくったページが戻りそうになると、麻痺が残った左手を重しのように絵本の上に乗せ、ページを押さえて視線を平仮名ばかりの文字の上を走らせている。
絵本だからページ数は多くない。だけど、園田さんは半分くらい読んで視線をあげた。
「つかれちゃった。ちょっと、ねるね」
そう言うと、右手で支えながら、ゆっくりと寝転んだ。頭が上手く枕の上に乗らなくて、うんうんと唸りながら体を左右によじって位置を調整する。掛け布団がめくれたまま目を閉じる。すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
冷房で冷えた病室。園田さんが風邪をひいてはいけないと、めくれあがった掛け布団を起こさないように静かに肩が隠れるまで掛けた。
千堂さんが買ってきたウィッグの毛先が園田さんの左側の唇の端に挟まっていたから、それを指で優しくどける。
園田さんの側でしゃがんだまま穏やかな寝顔を眺めた。少しして大きな窓にかけられたカーテンの隙間から見える夏の空に視線を移した。
去年の夏の空って、どんなだったかな。
ふと、そんなことを考える。だけど、僕は自分の記憶の中から一年前の空の様子を引っ張り出すことができなかった。
病室のドアが開かれた。礼子さんが入ってくる。布団の中で静かに寝ている園田さんを見て、「寝た?」と声には出さず口だけを動かして問いかけてきたので、小さく頷いてみせた。
僕は立ち上がってドアの方へと歩いていく。礼子さんの近くまで来たところで尋ねる。
「まだいますか?」
礼子さんが「ええ」と微笑んだ後、「帰るの?」と聞き返してきた。
僕は首を横に振った。
「今から僕の夜ご飯をそこのコンビニまで行って買ってきます」
礼子さんはきょとんとした目で首を少し傾げた。
「園田さんと夜ご飯一緒に食べようって約束したんです」
僕の分の夜ご飯を買ってくる理由を告げる。礼子さんはとても嬉しそうに目を細めた。
「そう、若月君が一緒ならひなもご飯を食べるかもしれないわ。ありがとう」
「それなら良いんですけど。もしそれでちゃんと食べるなら、明日からうちの母に頼んで弁当作ってもらって、できるだけ一緒に食べます」
僕の言葉に、礼子さんは「そんな、お家の人に悪いわ」と遠慮した。そして、すぐに両手を胸の前で軽く付き合わせた。
「それなら、私がご飯作ってくるから、それを食べましょう?」
今度はこっちが遠慮する。その後、少し押し問答が続いたあと、僕の母親が良いなら一日置きに作ってもらうことにしよう、ということになった。
一応、話がついたところで僕は病室を後にする。
非常階段を下りて一階へ行き、リハビリ室のすぐ前を通って正面玄関へ向かう。
自動ドアが閉まっていて、冷房の聞いた病院はとても涼しい。外に出ると涼しさが一転、目眩がする程に熱された空気が襲ってきた。
「暑い、焼ける、溶ける」
思わず口をついて出る程の猛暑。確か天気予報では真夏日だって言ってた。真夏日って何度からだっけ、暑さのせいで思考が鈍る。
けたたましい蝉の鳴き声を聞きながら、容赦なく照りつける太陽の下をゆっくりと歩く。陽射しは暑いを通り越して痛いと感じるくらいだ。
コンビニまで五分くらいの道のりを、周りの景色を見ながら歩く。
蝉が止まる木。木陰にぶち模様の猫がだらけたように寝転んでいる。温い風が吹く。その風に枝が揺れて、葉がじゃれあう音がする。太陽が雲に隠れたので、顔を空に向けた。
空はどこまでも高く真っ青で、白い入道雲が我が物顔で浮かんでいた。顔を前に向けると、青空に映える田んぼの鮮やかな緑色が目をひいた。
去年よりも景色をしっかりと見れている気がする。どうしてだろうと考える。その答えはすぐに思いついた。
去年は園田さんの隣を歩くのに必死で、景色を見る余裕なんて無かったんだ。
園田さんと出会う前は、こうやって景色を眺めながら歩いた。風景を見るのが何よりも好きだった。去年はそんなことを忘れて園田さんに夢中になっていた。今年は園田さんが倒れて、また景色を見れる余裕ができた。
なんて皮肉なんだろう。
僕は目に映る景色が好きだし、園田さんのことも大好きだ。
それなのに、その二つを同時に楽しめる余裕が自分にはない。それが凄く残念に思う。
コンビニに到着する。駐車場には赤や青、白に黒といった様々な色の車が停車していた。
入店してご飯は何にしようかしばらく悩んだ結果、ミートスパゲッティに決める。
病院への帰り道、蝸牛みたいにゆっくりと歩きながら眺めた風景は、とても色鮮やかな世界で、僕は少し胸を踊らせていた。