朝の成田空港。人でごった返す搭乗ゲートに、結衣は小さく溜息をついた。
手には黒いキャリーバッグと、社用のノートPCが入った重たいショルダーバッグ。きっちりと結んだポニーテールが、さっきから湿気で少しずつ崩れてきている。
5月の連休明け。まさか、台湾出張のタイミングが重なるとは。チケットカウンターの長蛇の列を見て、思わず心の中で毒づいてしまう。
でも、隣に立つ彼の姿を見て、それもすぐにかき消えた。
彼──ドンジュ課長は、静かに列の先を見据えている。スーツの胸元には会社のネームプレート、肩からかけた薄型ビジネスバッグがきっちりと収まっている。
(やっぱり、この人は、どこにいても目立つな)
結衣は心の中でそう思う。派手じゃない。大きな声も出さない。でも、不思議と視線を惹きつける。研ぎ澄まされた静けさがある人だ。
「……松山さん」
「はっ、はい!」
突然呼ばれて、反射的に姿勢を正す。
ドンジュは、わずかに口角を上げた。
「荷物、重くない? 預けるなら一緒に並ぶけど」
「あ、だ、大丈夫です! 機内持ち込みサイズなので」
「そう」
短いやり取り。けれど、たったそれだけで、心臓がぎゅっと締めつけられる。
名前を呼ばれるときの、あの低くてやさしい声。目を見て話すときの、どこか遠くを見るような視線。結衣は何度もこの瞬間を繰り返してきた。社内でも、出張でも、何気ない日常の中で。
そしていつも、同じ結論にたどり着く。
──好きだ、この人のことが。
ただの上司と部下。それ以上の関係になることはないと分かっている。
彼は35歳。既婚者。
飲み会の席で他部署の同僚がぽろりと漏らした「子育て大変だよな〜」の一言で、結衣はその現実を突きつけられた。
でも、気持ちは止められなかった。
むしろ、あの人の“家族”という存在が、自分の中にある「恋愛」とはまったく別のものとして、胸に居座ってしまっている。
「……もうすぐ搭乗ですね」
結衣はそう言って、自分をごまかすようにスマホを確認する。
搭乗開始まで、あと10分。
「台湾、初めて?」
「はい。海外は大学の卒業旅行以来です」
「ふふ、それは楽しみだね。5月と言っても蒸し暑いから、水分はこまめにね」
穏やかに、さりげなく気遣ってくれるその言葉。
そのすべてが、結衣の心をざわつかせる。
もっと話したい。もっと知りたい。でも、それは許されない。
──だったらせめて、同じ景色を見られる時間を、大切にしたい。
それが、この出張の間に結衣が自分に課した、唯一のルールだった。
***
台北桃園国際空港に到着すると、熱気が肌にまとわりついた。
日本よりも湿度が高い。けれど、空は鮮やかな青。タクシーの車窓から見える街並みは、どこかノスタルジックで、雑多で、それでも息づいていた。
「このままクライアントオフィスに直行するよ」
ドンジュの指示に頷きながら、結衣は心の中で小さくガッツポーズした。
飛行機では隣の席だった。クライアント訪問も同行。予定されていたスケジュールは、彼と常にペアだった。これ以上ない“幸運”。
クライアントとの会議では、彼が流暢な英語でプロジェクトを進める姿に、結衣は惚れ直すばかりだった。
ドンジュは表情を変えずに相手の心を読み取り、的確に落としどころを提示する。しかも、こちらに向けて一度も強い語気を向けたことはない。
会議はわずか2時間でまとまった。
今後10年のパートナーシップの概要を簡単かつ明瞭にまとめ上げ、契約案の大筋まで合意を取り付けるのはさすがだった。
しかも仕事をもらったのはこっちなのに、クライアントが喜んでくれた。
(なんかこの人となら、どこまでもついていける)
──心からそう思った。
夕食はクライアントが高級台湾料理のレストランに招いてくれた。
円卓に並んだ小籠包やフカヒレスープ、精緻に盛り付けられた前菜の数々。
ドンジュは、会話の合間にさりげなく料理を取り、結衣の取り皿に分けてくれた。
「これ、この店の名物だから食べてみてよ。
取ってあげるのはこれが最初で最後ね。」
微笑みを浮かべて彼は言った。
そのスマートな立ち居振る舞いに、私は何度も胸の鼓動を抑えきれなくなる。