私は木下昌景32歳、中小企業で営業事務をやっている平凡な会社員だ。毎日朝8時に家を出て、電車に揺られながら得意先に頭を下げ、夜遅くに帰宅する。
そんな繰り返しの中で、唯一の生きがいは恋人の彩だった。
付き合って3年、彼女の温かい存在が、私の疲れを癒してくれたのだ。そろそろプロポーズでもしようかと、指輪の値段をネットや店頭で調べ始めた矢先のことだった。
異変に気付いたのは2ヶ月前。
彩が「友達と出かける」と言う回数が増えた。最初はまったく気にもしなかった。
彼女は自分とは違い、明るくて社交的だから、飲み会くらい珍しくない。でも、LINEの返信が遅くなり、週末のデートを断られることが増えたのだ。不安が膨らんで、ついに先週、俺は彼女の後をこっそりとつけたのだった。
辿り着いたのは、都心の会員制の高級クラブだった。ガラス張りの窓から見えたのは、彩がドレスアップしてソファに座っている姿。
隣には、見るからに遊び慣れた男がいた。背は高く20代後半くらい。大きなピアスと金髪に染めた髪に派手な柄のシャツ、腕にはロレックスが光っている。そいつが彩の肩に手を回し、耳元で何か囁くと、彼女は恥ずかしそうに笑った。
……くそっ!
あんな笑顔は、私にも見せたことがないのに。
あとで分かったのだが、そいつは大手の不動産会社社長の息子、西村悠馬ってやつだった。働かずに毎日ジム通い。そして親の金で遊び回っている御曹司らしいのだ。
SNSには毎晩高級ホテルでのパーティーの写真が並び、高級スポーツカーに最新のクルーザー、そして美しい女たちに囲まれる姿を自慢げにアップしている。
私みたいな中小企業の平社員とは住む世界が違う男だったのだ。
「ねえ、悠馬くん。次はどこ行く?」
彩の声がガラス越しに聞こえてきた。
「悠馬くん」か。私を呼ぶときとはまるで違う甘ったるいトーンだ。西村がグラスを傾けながら彼女に顔を近づけると、俺の胸が締め付けられた。
……どうしてこうなった?
俺が残業でデートをキャンセルしたからか?
安月給の冴えない男じゃ、彼女を満足させられなかったのか?
その夜、俺は高級クラブの前で立ち尽くしたまま、彩が出てくるのを待った。でも、彼女は西村と一緒にタクシーに乗り込んで、すぐに夜の闇に消えたのだった。
翌朝、彩からのLINEは短かった。
「ごめんね、さようなら」たったそれだけ。私との3年分の大切な思い出が、こんな一文で終わりだったのだ。一体、彼女にとって、私はどんな存在だったのだろう。
会社に行っても頭が全く働かない。頭蓋骨の中に砂がぎっしりと詰まっているような感覚だ。得意先の電話が鳴っても、彩の笑顔と西村のニヤけた顔がちらついて、手が止まる。
俺のデスクには、彼女と撮った旅行の写真がまだ置いてあった。
……あの頃は幸せだったのになぁ。
やっぱり、西村みたいな金持ちには敵わないのか?
毎晩遅くまで働いて、僅かなボーナスで彩にちょっとしたプレゼントを買うのが精一杯の俺じゃ、彼女を引き留められなかったのか?
窓の外を見ると、雨が降り始めていた。低く降りていている空は、俺の人生みたいにどんよりしている。
彩は今頃、西村の運転する外車でどこかをドライブしているのだろう。
……俺にはもう何もない。毎日まじめに会社に勤めていたのに、こんな形で全てを奪われるなんて酷すぎる。こんな俺に、もう生きる希望なんて、ひとかけらさえ残っていないのだった。
彩からの「別れよう」というLINEが頭から離れず、私は会社を出た。
時計は21時を過ぎ、空は真っ暗だ。いつもの駅に向かう途中で激しい雨が降り出し、スーツがびしょ濡れになった。
冷たい水が首筋を伝う。
「……私には何もない」
そう呟くと、途端に足がふらついた。路地裏のアスファルトに力無く膝をつき、視界がゆっくりと暗くなっていく。
……もういい、全部終わりにしたい。
彼女のいない人生なんてなんの意味もないのだ。
この世界なんか滅びてしまえ。
――そう思った瞬間、私の意識は闇に沈んだのだった。
「……適合者、確認。空間転送開始!」
どこからか、低い電子音のような声が脳に響く。
目を開けようとしたが、体が動かない。内臓が宙に浮かび上がる感覚がした後、血管や筋がゆっくりと引き延ばされる感覚を味わう。
「肉体組成ノ、次元変換。生体強靭化ヲ開始スル」
……何だ、一体!?
全身に熱い脈動が走り、骨が軋み、筋肉が膨張する感覚が襲った。
彩を失った私に恐れることなどないのだ。好きにしてくれ……、だが、私の体が何か別の強靭なものに生まれ変わっていく感覚だけは確かにあったのだった。
「……憎キ人間ヲ根絶ヤシニ、ソシテ蒸気ノ力ヲ滅セヨ。サラニハ我ラヲ蘇ラセルノダ」
再び、低い電子音がする。
薄く目を開くと、薄暗い空間の中に水槽があり、巨大な胎児のような存在が静かに身を丸めている。
透き通る肌は青白く輝き、しかし、その閉じられた瞼の奥からは、確かな敵意が滲み出ていた。
「胎児」はゆっくりと瞼を開き、その異形の目で私を睨みつけてきたのであった。
「人ヲ憎ミシモノヨ、ユクノダ……」
胎児の口が動き、周囲の空間に低く重い電子音が響いた後。
周囲の空間は、さまざまな色が捻じり吸い込まれるように様に暗転。
そして、私の意識は、再び深い闇の中へと沈んでいくのであった。