妻として二十年間尽くしたのに、夫が地震で咄嗟に守ったのは私が雇った家政婦でした
みょん
恋愛結婚生活
2026年03月30日
公開日
3.9万字
連載中
二階堂和也――
幼い頃のトラウマにより、深刻な感情障害を抱えた男。
誰一人として彼に近づくことはできなかった――ただ一人、葉月を除いて。
八歳のとき、孤児院から引き取られた平沢葉月は、
「孫の世話をすれば、家を与える」
その一言で二階堂家の門をくぐった。
だが彼女が得たのは、家でも家族でもなく、ただの“役割”だった。
彼女は十年をかけて、彼のあらゆる崩壊を支え、
さらに十年をかけて、彼を再び人の中へと戻した。
やがて妻となった彼女に、彼が与えたのは三つの禁令だけ――
「口を開くな。触れるな。書斎に入るな。」
結婚して五年、夫が彼女にかけた最も長い言葉は――
「スープがしょっぱい。塩を減らせ。」
それでも葉月は耐え続けた。
いつか彼が、自分を見てくれると信じて。
――だが、ある秋の午後。地震が起きた。
本棚の上の花瓶が転がり落ち、破片が葉月の足首を切り裂く。
それでも夫は振り向きもしなかった。
彼が本能的に抱きしめ、守ったのは――
半年前、葉月が自ら面接し採用した家政婦だった。
「奥様、けがを……」
「自分でなんとかする。放っておけ。」
その夜、葉月は静かに離婚届に自分の名前を書いた。
涙はなかった。
ただ一つの思いだけがあった――
――もう、十分だ。
しかし運命は、彼女を簡単には解放しなかった。
彼女が去るとき、そっと残した一通の手紙。
砕けた銀の梅の簪。
そして、二十年積み重ねられた沈黙――
それらが、和也の心の奥で、静かに何かを揺り動かし始める。
けれど、葉月はもう振り返らない。
長野の片隅にある小さな花屋で、彼女はようやく理解する。
祖母がその名を授けたときに言った言葉の意味を――
葉月。
どれほど激しく流れる水でも、静まれば、やがて澄んでいくのだと。