アンダ心
恋愛現代恋愛
2026年05月27日
公開日
4.3万字
連載中
老舗「鶴乃松」の若き社長・清原司の契約妻――森川葵。だが京都の老舗界隈での彼女の立場は、「社長夫人」の肩書だけを持つ笑い者だった。平凡な家の出身で、名門夫人たちのお茶会では遠回しな嫌味を向けられる。
「あなたには釣り合わない」――そんな言葉を古典の引用に乗せて突きつけられても、夫の清原司は体裁を守るように沈黙を選んだ。
冷え切った屋敷に少しでも温もりを増やしたくて、葵は金魚を買って帰る。だが彼は厳しい声で言い放つ。
「面倒を増やすだけの、脆くて管理の必要な命だ。すぐに処分してくれ」
その瞬間、葵はようやく悟った。
この結婚に、愛なんて最初からなかったのだと。
彼女は離婚届を差し出し、天才的な和菓子作りの腕を武器に仲間と工房を立ち上げる。やがて新作は話題を呼び、葵自身も職人として注目を集めていく。
新作発表会。自信に満ちて笑う彼女の姿を、司はただ遠くから見つめていた。
――そのはずだった。
彼女が悪意ある噂で傷つけられた時、彼は誰も反論できない専門的なデータを突きつけ、公衆の面前で彼女と作品を守った。深夜、危険な目に遭った彼女の前には、怒り狂った獅子のように現れ、相手を叩き伏せる。何より大切にしていた服が汚れることさえ構わず、震える彼女を強く抱きしめた。
かつて「金魚なんて余計だ」と言った男は、不器用に飼育の本を読み始める。
そして初雪の積もる庭で、土まみれの手のまま彼女の手を握り、静かに問いかけた。
「……まだ、汚いと思うか?」
雨の病院の前。膝をついた男は、震える声で言う。
「契約は俺が結んだ。離婚も受け入れる。だから――たった一度だけでいい。森川葵さん、もう一度チャンスをください」