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第14回

 気付けば、暗闇の中に座っていた。


 意識はクリアだ。どこにも痛みは感じられない。

 記憶に残る最新のものは、幼い子どもを抱きしめておびえている母親に何か言葉をかけようとしたところまでだった。

 体中串刺しにされたはずなのに、痛みも傷もない。

 不思議に思っていると、どこからか子どもの泣き声が聞こえてきた。


 まだ化け物に襲われている子が?


 すっくと立ち上がり、急いで声のするほうへ向かうと、そこには白い髪をした2~3歳くらいの男の子がいた。

 茶色の何か、大きな物を抱えている。それは男の子と同じくらいの大きさがある物で、抱えきれずに下半分を引きずっていた。

 毛皮と尻尾、手足から見て、狐のようだ。


「あーん、ああーん……」


 涙に濡れた金色の瞳。

 その姿に、まさかと立ち止まる。

 まさかと。そんなはずはないと。

 一歩も踏み出せずにただただ泣く子を凝視し続けていると、暗闇から白い両腕が現れた。

 細くなめらかなその腕は、女性のものだった。


 腕は泣く男の子のほおに触れ、頭をよしよしとなで、抱き上げる。

 すると、女性の胸元が現れた。

 着物を着ている。はっとするほど美しい、紅に萌木の重ねだ。

 泣き疲れた男の子が、ふうと息を吐いて肩にもたれると、あごのラインと、頭の傾きに応じてさらさらと流れる白い髪が見えた。


「そのように泣いて。どうしたのです? 吾子よ」

 男の子はもう声を上げて泣いてはいなかったが、長く泣いた余韻のように真っ赤な顔を涙で濡らしてひくひくとしゃくり上げている。

「さあ、この母に吐き出しなさい。そして忘れるのです」

 母親に優しく揺られて、男の子は誘われるように口を開いた。

「……怖い、歳のいった男の方が、床から体の半分だけ出して、をにらんでいたのです」

「ほう」


「それで、それで……オウラミモウシアゲル、って。ニクイ、ニクイ、ホウシメ。ニクイガマワリヲカコムシキドモノセイデテガダセヌ。アアニクシヤって何度も言って、に飛びかかってきたのです。

 そうしたら、この子が……」

 男の子は抱きしめていた狐に目を落とし、またぽろりと涙をこぼした。

のかわりに、このようになってしまいました」

 母親も目を閉じて動かない、息子の遊び相手だった狐の頭をなでる。

「そう。それはかわいそうなことをしました。ですが、これも吾子を護れて誇らしかったでしょう」

 狐の息はほとんど感じられず、体は弛緩して手足もだらりと伸びきったままだ。まだ死んではいないが、その命が残りわずかなのは明らかだった。


「なおりますか? ははうえは、この前、の足にできた傷もきれいになおしてくださったでしょう? あのときのように、この子も――」

「吾子よ。死は、生あるものが持てる特権なのですよ。あなたはこの狐から、誇りある死を奪いたいのですか?」

 男の子は考えるようにうつむいた。

「……分かりません。だけど、この子がこのようになったのは、のせいです。この子がいなければ、こうなっていたのはだったでしょう。

 ははうえは、がこのようになったとしても、同じことをおっしゃるのですか?」


「ああ、吾子よ。そのようなことを言うとは。本当に賢く、そしてずるい子ですね。

 分かりました。では、母がこのものを召し上げましょう。

 このものの名は?」

「チガヤ」

千茅ちがや。信太森大明神に連なる野狐。そなたの真魂、この葛葉くずのはが預かりましょう。

 刻苦精励、仕えるのですよ。さすれば徳が積まれ、いずれはわたくしのように天狐となれるでしょう」

 母親の指が触れた箇所から狐の毛皮が茶色から白へと変わっていく。完全に白くなったとき、狐はぱちりと目を開け、応じるように一声鳴いた。ペロペロと小さな舌で男の子のほおに残った涙を舐め取る。

「チィちゃん。よかった。

 ははうえ、ありがとうございます!」

 元気になった狐に、男の子はほおずりをすると、面を上げて母親に笑顔を向けた。



◆◆◆



「あの子には見鬼けんきの才がある」


 葛葉のもとを訪ねた晴明はるあきらは、葛葉から話を聞いて、そう返した。

「さすがあなた譲りの目を持つ子です。あの髪もそう。白い髪。白は鬼どもが嫌う色。あの髪を1房だけでも懐に忍ばせておけば、十分鬼を遠ざける護りとなるでしょう。

 母上、あの者をに預けてはくれませんか?」

 なぜ、と葛葉は訊かなかった。ただ、ほう、と息をき、

「それほどに乱れているのですか」

 とこぼした。


「今はまだ。さほどでもありません。しかし、すぐそうなるでしょう。天と地、そしてその狭間に生きる者、すべてはつながっております。天が乱れれば地も乱れる。地が乱れれば、天も乱れる。その騒動に狭間に生きる者は引きずられる。人心が荒れれば鬼どもが増え、鬼どもが増えればまつりごとが乱れる。

 自明の理でございましょう。

 はその前に、打てる手はすべて打っておきたいのです。人のために」


 は、人ですから。


 晴明は、しかたないでしょう? と言うように、明るく笑った。

「ですが……」

 葛葉はためらった。かわいい吾子を手放したくない、との思いが強かった。


 きゃははという楽しげな笑い声が聞こえて、視線を庭へと移す。そこでは鷹速丸はやとまるがよみがえった白狐と手まりを使って遊んでいた。幼な子の無邪気な笑い声は聞くだけで心が安まり、いつまでも聞いていたくなる。

 そんな母親の幸せそうな横顔を御簾みす越しに見て。晴明はふっとほほ笑んだ。


「分かりました。今回はが折れましょう」

「晴明」

「此度の件は、の落ち度です。まさか、母上や鷹速丸を狙うとは思いもよらず。

 二度とそのようなことが起きないようにしておきましょう。

 式鬼神しきがみを身近に置くのはお嫌いでしょうから、結界を張っておきます」

 葛葉も当然張っていただろう。だがそれを突き破ってしまうほど、人の執念はすさまじい。

 だからこそ、鷹速丸が必要なのだ。


「長くは待てませんよ。人の世はあなたが思っているより目まぐるしい。あの子もじきに大きくなる。

 人として生きさせるのであれば、出自を伏せるにも限度がある。今ならの子としても通じるでしょう。の子であるなら、多少の神通力があっておかしくない。

 あの子は珍重されるでしょう。のように陰陽道について学び、あなたの子としての能力が開花すれば、そう遠くない先でその力を存分に発揮することができるようになります。いずれは陰陽寮を束ねる陰陽頭になれるかもしれないし、みかどより位階を賜り宮中に出仕することも十分あり得る。

 それとも狐の子として、終生こんな穴ぐらで暮らさせるつもりですか?」

 言い終えると晴明は立ち上がった。今すぐの返答は期待していない、次の来訪まで熟慮してもらえればよかった。


 身を翻して廊下へと出れば、そこはもう外だった。

 振り返れば狐の穴がある。

 中に入れば京の都のどんな邸宅にも負けない、立派な御殿が広がっているが、それらは全て、天狐・葛葉の神通力によるものだ。

 しかしそこから一歩出れば……。


「母上。はあなたの子であることを誇りに思っております。あなた譲りの力が、を人の世で、本来なら望むべくもない地位につかせてくれました。だからこそ、思うのです。鷹速丸は人の世で生きるべきだと。

 あの子には以上の才がある。この乱れた世において、その希有な力はあの子をきっと天下に知らぬ者などない傑人としてくれるでしょう」

 たとえ、狐の子と陰で揶揄されようとも。


 昔、母が消えたあとの自分を思いだして、知らず皮肉げな笑みが口端に浮かぶ。

鷹速丸はあのころの自分より幼い。だがあの子もきっとのように周囲からの反発をばねにして、終生変わらぬ得がたき友を得て、気骨ある者として育つだろう。


 晴明はそう信じていた。



◆◆◆



 晴明があせるのには理由があった。


 時は天慶4年(西暦941年)。朱雀天皇の御代である。

 平 将門が国府を襲撃して印鑰を強奪、自らを『新皇』と称して朝廷に弓を引き、藤原 秀郷、平 貞盛らによって討伐されたのが前年の940年。そして平 将門に呼応するように瀬戸内海で海賊を追捕する身であったはずの藤原 純友が海賊を率いて朝廷に反旗を翻したものの、源 経基らによって壊滅させられた年だった。

 約6年も続いたこの承平天慶の乱は、朝廷をひどく疲弊させた。


 また、朱雀天皇は若干8歳で即位。元服してからも変わらず病弱であったため、皇太后の藤原 穏子をはじめとする藤原家が宮中では力をふるっていた。

 そして朱雀天皇自身も、母・穏子から鬼(怨霊・生霊)に対する恐怖を幼いころから植えつけられていた。そのため、だれに吹き込まれたのか、もしくは鬼への恐怖から自身で思い込んでしまったのか、平 将門と藤原 純友が鬼となって自分をたたり、呪い殺しにくると信じておびえ、ねやにこもる日々が続いていた。


 事実、平安京は長年に渡る朝廷に対するさまざまな恨みによって夜な夜な鬼が跳梁跋扈する妖の都になっていたため、それもあながちではないと言えるだろう。


 地乱れれば、天もまた乱れる。


 朱雀天皇の治世中、富士山の噴火、地震、はては洪水などの災害、天変地異が次々と起きた。大勢の者が犠牲になり、田畑は荒れ、住む場所を失った人々はひんし、餓死する者も少なくなかった。そしてその恨みは、都に住む、富む者たちへ向けられたのだった。


 毎夜のように都に出没する鬼どもを相手に、陰陽の術に優れた賀茂 忠行を師とする晴明と忠行の息子保憲は、日々退魔を行ってきた。

 当然ながら、恨みを晴らす邪魔をする者として、陰陽道の使い手は多数の者から恨みを買っている。しかし彼らの使う法術、式神にかなうものはそうはいない。特に晴明は、ほかの同業の者たちと違って鬼(妖怪)をくだして式神(式鬼神)として使役していたため、なおさらに、彼に勝る者はいなかった。


 晴明は、帝の覚えめでたく、天下に並ぶものなしと言われるほどの傑出した陰陽師である忠行のそばにあって、齢20にしてすでにその才能の片鱗を見せており、それを面白がった忠行の寵愛によって、まるで瓶の水を移すかのように陰陽道のすべてを吸収し、自分のものとしていた。目立つ職にこそついてはいなかったが、同門の者たちから一目置かれる存在になっていた。


 数年後。日夜に渡る怨霊退治の功績により、都の者たちから絶大な支持を受ける彼らに朱雀天皇より聖断が下った。


 平安京にある2つの寺、東寺と西寺それぞれに天下泰平を願う鎮護の護摩行を幾度となく行わせてきたが、一向にその成果が見られないことに業を煮やした朱雀天皇は、怨霊退治を心得る陰陽師に任せてみようと考えたのだ。


「毎夜、あの者たちがちんねやを訪れ、朝まで枕元で恨み言をつらつらと言いつのるのだ。忠行、どうにかしてくれ」


 衰弱し、寝付いた床の中からの言葉に、忠行は応じた。

 天下泰平・万民豊楽を願い、怨霊の鎮魂を祈って行う破折屈伏しゃくはくっぷく柴燈大護摩供奉修さいとうおおごまくほうしゅうである。




「まさかこんなに早いとは、も想像だにしていませんでした」


 夕刻。都の外れにある晴明の邸宅を密かに訪れた葛葉に、晴明は苦笑しつつ言った。

「こうなる前に、この子をのもとに、と思っていたのですが」

 母の胸に抱かれて眠そうな鷹速丸のほおにそっと触れた。

 指の感触に鷹速丸は片目を開き、そこにいるのが兄と知って、うれしそうな顔になる。

「あにうえ」

 抱かれるのを期待して手を伸ばしてくる無邪気な弟を受け止め、抱きしめたくなった晴明は、袖の内で手をぎゅっと握り締め、後ろへ一歩下がった。


「いつ……」

 葛葉が問うた。

「今夜、すぐにも。すでに山伏たちの手で、護摩壇が築かれております。もう1刻ほどで完成するでしょう。完成すれば、忠行さまたちによる祈願護摩木の梵焼と一昼夜に渡る加持祈祷が始まります。もこれに参加します。

 母上にご連絡を差し上げたのは、一刻も早くこの国から離れていただくためです」


 晴明はこれを出世の足がかりと考えていた。

 平安京はまつりごとに口を挟むほど強大な力を蓄えた仏教の力を削ぐために造られた都である。そこに唯一建立を許されたのが東寺と西寺。彼らにもできなかったことを忠行が為し遂げたとなれば、賀茂の名声はさらに高まり、都での地位を押し上げる力となる。そうなれば、忠行の愛弟子・晴明の名も上がるのは必定。

 そのため、晴明はこの柴燈大護摩供奉修に全力を尽くす気でいた。


 陰陽師たちによる加持祈祷。それ自体は恐れるほどのものでもない。これまでも何千回と行われてきたことだ。

 しかし、そこに晴明が加わるとなれば、話は変わってくる。


 晴明の力は本物だ。彼が本気で怨霊の折伏を行うとあれば――もちろんそこには数百名の陰陽師や、希代の陰陽師と謳われる忠行、保憲親子の法力も加算される――その力は平安京のみにとどまることなくこの国全体にあまねく広がり、覆い尽くし、全ての怨霊、妖怪、それに連なる化生どもを一掃してしまうに違いなかった。


 葛葉とて、それは免れない。


「母上。お目にかかれるのはこれが最後となるでしょう。

 に鷹速丸をお預けください。あなたと違い、鷹速丸には人の血が流れています。鷹速丸はとともに人として、人の世で生きるべきです」

 晴明の言葉に葛葉の心は大きく揺さぶられた。腕の中の鷹速丸を見る。

「ははうえ……?」

 母と兄の会話が分からなくとも、雰囲気を感じとってか、鷹速丸は不安そうな表情で葛葉を見上げていた。


「きっと、おまえの言うことが正しいのでしょう。この子はわたくしとあるより、人と生きるほうがずっと幸福になれる……。

 ですが、おまえに預けるわけにはいきません」

「母上?」


「この世に2人の『晴明』は不要。おまえなき世にこそ、この子は必要です」


 きっぱりと告げる母の言葉に、晴明は言葉を失った。

 晴明はそこまで考えてはいなかったのだ。

 人は、死ねばそれまで。晴明の鷹速丸に対する兄としての思いは、自身が死ぬまでに鷹速丸の居場所を確たるものとし、その地位を築くために自身の持てる知恵、力、人を与えればいいという考えだった。

 自身が死んでからのその先までは考えていなかった。


 これが『人』である自分の限界か。


 千年を生きる天狐には、遠くおよばない。


 深く息を吸い、吐いて。

 今一度、その姿を目に焼き付けるように母と子を見つめたあと、背を向けた。

 晴明の名を呼び、捜している者たちの手にした火が木々の間からちらちらと見える。


「母上、長らくお世話になりました。この世にを産んでくれて、ありがとうございました。

 天上にて、また会える日が来ることを楽しみにしております」

 今生の別れを告げて、晴明は仲間たちの元へ去った。


「あにうえ? あにうえっ」

 自分に背を向けた晴明の姿になんらかを感じた鷹速丸が、必死に兄を呼んで手を伸ばす。

 だがその声に晴明が振り向くことはなかった。


 葛葉はそっと涙を袖先でぬぐう。

「さあ、わたくしたちも行きましょう、鷹速丸」

「ははうえ。あにうえも一緒ではないのですかっ」

「晴明には晴明の務めがあるのですよ。おまえにはおまえの、わたくしにはわたくしの務めがあるように」

 鷹速丸は母と兄を交互に見て、分からないと頭を振った。そして懸命に兄を呼ぶ。


「あにうえ、あにうえ、あにうえーーーっ!」


 振り向かせたくて、行かせたくなくて。駆け寄り、袖を引こうとして鷹速丸は母の腕から抜けだそうともがいたが、葛葉の腕は優しくも頑として抱く力を緩めようとしなかった。

 やがて晴明は彼を捜していた仲間たちと合流し、見えなくなる。


 ふわりと、葛葉は強まった夜の闇に溶け込むように空へ上がった。

 今生の別れは済ませたけれど、立ち去りがたく。足下の平安京、護摩行の行われる場所を食い入るように見つめる。

 やがて柴燈大護摩供が始まった。さまざまな願い事の書かれた護摩木が順番に護摩壇へとくべられる煙、数百人におよぶ者たちが一斉に唱える真言の声は、空にいる葛葉の元まで届く。

 そして彼らの霊力が光の波動となって放たれるのを見て、その光から逃げるように、葛葉は金の光をまとった4本尾の白狐の姿に戻って天空を駆けた。


 同じように、空を飛べるモノ、く地を駆けることができるモノたちの姿が視界の端に映る。しかしその妖怪、怨霊たちのだれもがやがては力尽きて光に飲まれていき、ついには葛葉だけになった。


「ははうえ……?」

 顔に当たったあたたかな雫を不思議に思い、鷹速丸は首を傾けて母の顔を覗き見ようとする。

「吾子や。頭を伏せて、母にしがみついていなさい。決して手を離してはいけませんよ」

 葛葉は振り返らなかった。

 振り返ったなら飛速が落ちる。光に追いつかれてしまう。そうなったら吾子が……。


 まっすぐ前だけを見つめる葛葉の金の目からこぼれ落ちる涙はきらきらと輝きながら夜の闇へ散っていった。





 北へ。

 ただひたすらに、北上する。

 そうして夜も更けたころ。東北の地で、葛葉は妖怪に襲われている農民の若い夫婦を見つけた。光の波動から逃げるだけの力も知恵もないこの醜い化け物は、本能にあかせて手近な人間を襲うことにしたのだろう。


 葛葉はひとかみでこの妖怪を片付けると、おびえて泣きながら震えている人間の夫婦に、交渉を持ちかけた。


「おまえたちにわたくしの宝を預けます」

「……たから……?」

「そう。この玉です。この玉をずっと大切に持ち続けてくれたなら、その礼として、おまえたち、おまえの子、おまえの子々孫々に渡って、わたくしの加護を授けましょう。おまえたちは決して飢えず、貧せず、苦難なく富と名声を得ることができるでしょう」

 葛葉が夫婦に渡したのは、光る玉だった。玉の中には、丸くなって眠る鷹速丸の姿があった。


 ふわふわと漂って、目の前で止まった光の玉に、おずおずと手を伸ばしたのは女のほうだった。

 半信半疑といった面で中の子どもを見つめる彼女の姿に、葛葉は目を細め、頭を垂れる。

「どうか、どうか、その子をよろしくお願いいたします」

 「はい」と女は答えた。

 事情はよく分からないが、目の前の美しい白狐は自分たちを助けてくれた命の恩人だし、それにとても神々しい金色の光を放っていて、悪い獣には思えなかったからだ。むしろ、神様のお使いのように思えて、女は目を閉じるとお経を唱えた。両手が玉でふさがっていなかったら、手も合わせていただろう。

 妻のその姿を見て、腰を抜かしていた男もあわてて居住まいを正し、手を合わせて葛葉を拝む。

「大切に、預からせていただきます」


 葛葉はその言葉に満足し、もう一度「頼みます」と言ったあと、4本の尾をひるがえして空へ上がり、眷属である千茅を召喚した。

 あの夫婦はきっと吾子を大切にしてくれるに違いない。けれども、その先々の者たちもそうしてくれるとは限らない。

「おまえに命じます。あの子とともにあって、片時も離れず、あの子を護るのです」

「へえ。たしかに承りましたえ。おひいさまの大切な坊ちゃんは、あてが命にかえてもお護りいたします。

 すべて、あてがあんじょうやりますので、おひいさまはどーんとかまえて、どうか心安らかにいてくださいまし」

 千茅はぺこりと頭を下げると、玉を大切そうに抱いて家に戻ろうとしている若夫婦のあとを追って、宙を飛び跳ねていった。



◆◆◆



「……これは、おまえの記憶なんだな」

 ぽつり、隼人が言うと、いつの間にかとなりにいた白狐が「へえ」とうなずいた。

 最初は自分の記憶だと思っていた。だがそれにしては細部がいろいろと細かいし、自分が知らないところまで見えているのはおかしい。


 隼人の身代わりになって命を落としかけ、葛葉の眷属となることで妖狐となった千茅は、ずっと玉に閉じ込められた鷹速丸を見守り続けた。若夫婦が年老いて亡くなり、玉と葛葉の言葉が正しく代々受け継がれていくのを見続けた。

 やがて彼らは『烏眞』という名字を得、その地に根付き、葛葉の加護によって代を重ねるごとに家を栄えさせていった。戦時中も、烏眞一族だけは被災や戦死を免れ、財を失うこともなかった。そのすべては玉のおかげと、伝承を疑わず――疑い、離反した者たちは全員、加護を失ったとしか思えない末路をたどったため――幼な子の眠る玉を家宝として密かに祀り続けた。


 まるで母の胎内のような玉の中で眠りながら隼人は千茅越しに世相を吸収し、ゆっくりと、120年に1歳ずつ歳を取っていき。

 そして2019年。13歳で、ついに目覚めたのだった。


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