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第九十三話

ここはどこだろう。ここはいつだろう。

時間も場所も、すべてが霧の中にあるような不確かさ。


そんな中で、『私』は傷ついた一人の青年を見ていた。

絢爛な外套を羽織り、青く輝く星の剣を掲げる、大英雄──。


「──」


彼が、何かを言った。でも、その言葉は霧の向こうに消えていく

どうして、彼はそんな悲しみに満ちた表情を浮かべているのだろう。

どうして、彼への憎しみが『自分』の中で渦巻いているのだろう。


分からない。分からない。

何も、分からない──


「……!」


青年が剣を高く掲げる。星々の光を放つ剣が、月光を浴びて輝きを増す。

そして、その剣は緩やかな弧を描きながら、『私』へと振り下ろされていく──。


あぁ、そうか。


これは──



♢   ♢   ♢  




「う……ん」


地下宮殿の貴賓室で、メーラが寝返りを打つ。

柔らかな羽布団の上で、薄い絹の寝間着に身を包んだ彼女は、まるで子猫のように体を丸めたり伸ばしたりしていた。


「もう、朝……?」


窓から差し込むシャヘライトの柔らかな光に、メーラは目を細める。

なんだか、不思議な夢を見ていたような気がする。

でも、その内容は霧の向こうにあるように、どうしても思い出せない……。


「目が覚めたかい」


ふと聞こえた馴染みのある声に、メーラは視線を向ける。

そこには既に身支度を整えたアドリアンが、椅子に腰掛けていた。


「おはようメーラ」


彼の優しい声に、メーラも思わずいつものように挨拶を返そうとするが……。


「つーん」


彼女は頬を膨らませ、むっとした表情でアドリアンから顔を背けた。


「朝の挨拶ならトルヴィア姫にどうぞ。昨夜、あんなに素敵なダンスを一緒に踊った、彼女にね」


その皮肉めいた言葉に、アドリアンは思わず苦笑を浮かべた。

舞踏会でのトルヴィア姫とのダンス──。

あの光景は、ドワーフの貴族たちを感動させ、エルフたちを驚嘆させ、そしてメーラの機嫌を最悪にしていた。


その後、アドリアンがメーラを舞踏に誘っても、彼女は一貫して冷たい態度を取り続けている。

どうやら魔族のお姫様の機嫌を相当損ねてしまったらしい。アドリアンは諦めたように肩を竦めた。


「参ったね。お姫様はどうしたら機嫌を直してくれるのかな」

「さあ。トルヴィア姫にアドバイスをもらったら?あんなに息ぴったりなんだから、きっといいアドバイスをしてくれる筈だよ」


これは深刻だ。いくら先約があったとはいえ、メーラの機嫌を損ねてしまったことは間違いない。

ここはひとつ、お菓子で機嫌を取るしかないか。


「それじゃあ、後でお菓子でも買いに行かない?実はシルヴァから美味しいお店を教えてもらって──」


シルヴァ、という名前が出た瞬間、メーラの目が鋭く細まる。


「また女の子の名前が出てくるの!?そんなに自然に出てくるものなの!?アドの周りには女の子しかいないの!?もう知らない!どうでもいい!」


メーラはそのまま勢いよく立ち上がると、顔を真っ赤にしたまま怒った様子で部屋を飛び出していった。

一人取り残されたアドリアンは「しまった」と、困ったように頭を掻く。


「う~ん。お姫様の機嫌取りは、日々難しくなるばかりだ」


そして数分後──

寝間着姿のまま飛び出したことを思い出したメーラが、顔を真っ赤にして、そーっと部屋に戻ってくるのだった。




♢   ♢   ♢




グロムガルド帝国の謁見の間。

威厳に満ちた謁見の間の玉座に座するのは、皇帝ゼルーダル。

そして、その眼前には……アドリアン、メーラ、ザラコス、そして大使フェイリオンが膝を付いていた。


「──英雄アドリアンよ」


彼は、目の前で凛として佇む英雄アドリアンを見つめ、穏やかな微笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。


「四公爵の同意を取り付け、シャドリオスの脅威から帝都を守り抜いた手腕……貴殿こそ、まさしく英雄の称号に相応しい存在であろう」


アドリアンは優雅に一礼して返す。


「いえ、これくらいは英雄の仕事としては序の口です。私の真骨頂は世界の危機を救うことですから、一つや二つの国を救うくらいは朝のコーヒー程度の軽い仕事ですよ」


そんな軽口めいた返答にも、皇帝は穏やかな笑みを浮かべるばかり。

そして、皇帝の横にいる皇姫トルヴィアもまた、まるで別人のような柔和な眼差しでアドリアンを見つめている。かつての鋭さは影を潜め、清らかな穏やかさだけが残っていた。


「英雄アドリアン。魔族の姫メーラ。本来ならば、帝国を救った英雄としてずっとここにいてもらいたいところだけど……」

「素晴らしい申し出ですが……実は、私たちには壮大な使命が待っているのです。シャドリオスから世界を救い、魔族の国を復活させる……そんな気の遠くなるような仕事が山積みでして」


その慇懃無礼とも取れる態度に、以前のトルヴィアなら即座に剣を抜いていたことだろう。

だが、今は違う──。


「──そうね。貴方たちには、まだ果たすべき使命が残されている。世界を一つに統べるという、英雄に託された使命が」


そうして、トルヴィアは父を見つめる。

父・皇帝ゼルーダルもまた、トルヴィアを見つめ返し、二人は静かに頷き合った。


「さて……ザラコス殿。我が帝国は、対シャドリオス連合への正式参加を、ここに表明する。この決定を、皇国へと伝えていただきたい」

「御意!陛下の英断、必ずや皇国へと伝えて参ります。偉大なるグロムガルド帝国の参加により、連合は盤石なる布陣を整えることとなりました……」


アドリアンの横で、ザラコスが恭しく頭と尾を下げる。


「そして、帝国の連合参加が決定した以上……アルヴェリア王国もまた、連合への参加を表明する運びとなっております。この二大国の参画により、連合の礎は更に強固になるでしょう」


以前、エルム平野でランドヴァール侯ガラフィドと交わした約定……それは、帝国が承諾すれば、王国もまた連合に加わるという確約であった。

そして今、その条件は満たされたのだ。


「私はまずアルヴェリア王国へ赴き、連合の正式な承認を得た後に、皇国へ帰還する所存ですが……」


ザラコスはそう言うと、チラリと横にいるエルフの大使、フェイリオンを見やる。

端正な顔立ちのエルフは、彫像のように微動だにせず佇んでいた。


「この場にエルヴィニア森林国の大使どのがおられるので、ここで話が纏まってくれると実に有難いのですが」


この世界には、他にも様々な国や勢力が存在する。だが、その中でも強大な国なのがエルフの国だ。

その国の大使がここにいるのだから、この場で話がまとまれば話が早い。

その場にいる全員の視線を一身に受けながら、フェイリオンはいつも通りの、内心を巧みに隠した微笑みを浮かべていた。


「対シャドリオス連合……なるほど、実に卓越した枠組みでございます」


フェイリオンは、手にした神聖樹の杖をトンッ、トンッと床に鳴らし続ける。


「しかし、誠に申し訳ないのですが……我が森林国は……その……」


フェイリオンにしては珍しく、言葉に詰まる様子を見せる。

そして、恥ずかしい秘密を告白するかのように、意を決して言った。


「我が国の外交案件は、まず評議会による合議制を経て、後に守護者会議による審議、さらにエルフ・ダークエルフ・妖精の三王による承認、最後に神聖樹の祝福を受けねばならず……」


その途方もない説明を聞いて、全員の動きが止まった。

メーラは、フェイリオンの言葉の意味すら理解できないという様子で首を傾げている。

皇帝や皇姫は「これは……」という表情を浮かべていた。


アドリアンが苦笑しながら、言った。


「つまり、一言で言うと?」

「……我が国の外交は、とてつもなく非効率的で、気の遠くなるほどの時間を要するということです。数年単位で……」


フェイリオンは諦めたように溜息をつく。それは彼自身も日々痛感している問題なのだろう。

そう、無意味なほど煩雑な手続きの数々に、フェイリオン本人すら辟易としているのだ。


「す、数年……」


その言葉に、メーラは暗い表情を浮かべる。

期限が決まっているわけではないが、そこまで時間がかかってしまえば、シャドリオスによる被害は取り返しのつかないほどに広がってしまうのだから。

さて、どうしたものか……とアドリアンが思案していると、フェイリオンが口を開いた。


「私としても、魔族の姫と英雄殿をそこまでお待たせするのは気が引けます。人間の寿命は我々エルフと違って、あっという間に過ぎてしまいますからね」


そして、優雅に金色の髪を靡かせながらアドリアンを見つめ、言った。


「そこで、私が先に森林国へ戻り、この件に関する議案を通しておきましょう。大使特権を使って、最優先事項として……少々強引にでも」

「フェイリオン殿がこんなに親切とは珍しい。ところで、この英雄に何を頼みたいのかな?」


フェイリオンという老獪なエルフが、見返りなしでこのような申し出をするはずがない。

そのことを熟知しているアドリアンは、即座に切り込んだ。


「何を仰いますか。私はただ、魔族の姫君の崇高な理念に心を打たれ、シャドリオスの恐ろしさを身に染みて理解し、連合の重要性を痛感しているだけですよ」


そんな美辞麗句を並べ立てるフェイリオンだが……。


「……もっとも?英雄殿が進んでお願いを聞き入れてくださるのでしたら?私とて断るような無粋な真似はしたくありませんねぇ」


ほらきた。少しでもスキを見せれば、こうして巧みに攻め込んでくるのがフェイリオン流。

さて、どんな厄介なお願いが飛び出してくるのかな──とアドリアンが身構えていると……。


「いやなに。最近貴方たちと行動を共にしているレフィーラとケルナのことでして……実は二人とも、貴方たちの理念に深く感銘を受けているのです。できましたら、これからも魔族の姫と英雄殿の旅に同行させていただければと」


その言葉に、アドリアンとメーラは顔を見合わせた。


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