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第130話:春の行く先【最終話】

 すっかり長居をしてしまった。

 眞鍋院長は、さっそくわたしの勤務時間を伸ばす方向であれこれ話をしてくれた。詳しいことは資格の要項を確認してからになった。そして、知り合いの相談員に話を聞いてくれると言う。

 クリニックの裏手から小走りで出て行く。




 街中のブティックは、一足先に春一色だ。淡い黄色のスカーフや、小花柄のスカートが店頭のショーケースに並ぶ。リリユリのポスターもすっかり薄着の春服で、どこか大人びて笑うようになっていた。


 わたしは行き慣れた大通りを曲がった。低木の生垣の向こうはテラス席が立ち並ぶ。パラソルは閉じられ、まだ開店前だ。シックな店が立ち並ぶ通りを過ぎ、カフェ&バー「Toute La Journée」の小さな看板が見えてくる。螺旋階段を降りた半地下の店。重たい金属のドアを開けた。

 一歩入ると同時に、涼しげなバンブーチャイムが鳴る。音がフロアに響き渡ると、「お疲れさま」と声がした。香月さんの声だ。

「ああ、瀬野ちゃん。早いね。アンならまだだよ」

 香月さんはカウンターの入口で、届いたばかりの段ボールを開けていた。

「わたし、冷蔵庫にしまっておきますよ」

「頼める? 月末の締めのために早く来たんだけど、まだでね」

 そう言うと、香月さんは手に持っていた野菜だけ先に冷蔵庫に入れ、開きっぱなしの帳簿の前に戻った。カウンターで事務作業を始めた彼に代わり、エプロンを付けてカウンター内に入ったわたしは、段ボールの中の野菜を次々に入れる。季節が変わると、仕入れる野菜も少しだけ変わる。年中ある野菜の中に、春を知らせる菜の花や新ジャガが入り込む。

「ちょっと久しぶりだよね」

 カウンターにペンを放り投げ、スマホを打ち始めた香月さんが言った。

「はい。10日ぶり? ですかね。クリニックの勤務の引き継ぎが徐々に始まって……シフト調整していただいてすみません」

 冬の指先が冷えて仕方ない日に、生身の人間――眞鍋院長の腕に針を刺すことができた。そのあとも、院長には練習台になっていただいて、季節が変わるころには針を刺すときに出ていた手の震えも、動悸も、すべてが嘘のように消えていた。


「遊佐ちゃん、本当に辞めちゃうんだ」

「そうなんです。次のところは決めてないって言って」

 わたしが針をさせるようになってすぐ、遊佐さんは眞鍋院長に退職の件を申し出た。ベテランの遊佐さんの退職はクリニックにとって痛く、すぐに代わりの看護師を探す話が出たが、眞鍋先生は1か月前に取りやめた。

 もう臨床に進んでもいいのでは、とわたしに提案してきたのだった。

 それからというもの、香月さんにシフトの調整をしてもらう日々が続いている。

「遊佐さんが訪問していた困難事例の患者さんを、今いるほかの常勤スタッフとわたしで分けることになりました。っていうのは、それで」

「困難事例? なんか大変そうだねえ」

 よく分かんないけど、と言いながら、また香月さんは帳簿と睨めっこし始めた。

「わたしにとってはの方が分かりませんけどね」

「あー! そうじゃん。早く瀬野ちゃんに帳簿の付け方を教えとけばよかった。そしたら今ごろ俺は悠々自適に……」

 香月さんが大袈裟に残念がる最中、お店のドアが開いた。

「そうですよ。瀬野さんに教えててほしかった」

 パタリと閉まる音とともに声がして振り向くと、アンが出勤してきていた。彼はカウンターをさっさと横切り、テーブルにどさっと荷物を置く。「おはよ」と声をかけると、アンは涼しい顔をして「おはようございます」と言った。こちらを見ることはない。

 アンと会う機会も減った。アンのお母さんの退院後、彼からの連絡は減り、すっかりプライベートで会うことも無くなった。もともとわたしは彼にとって、傷ついた世界で初めて目に入ったものにすぎなかったのだ。一番手近な、寄る辺。

 でもそれでもよかった。途中からは、わたしが彼の大きな手に救われていて、針が刺せるようになったのも、アンの言葉が背中を押してくれた。


――「大丈夫だと思うまで、いたらいいんですよ。刺せたって、刺せなくたって、ここでは関係ないんですから」


 これほど心強い言葉がこれまでにあっただろうか。

 支えられていたのは、ずっとわたしの方だった。



 開店する直前、香月さんは帳簿をぱたりと閉じると、「うーん、飲も!」と言い放った。アンが露骨に睨む。

「違う、ちゃんと理由はあるから!」

「嘘つけ」

「あるある。今日で瀬野ちゃんは、この店のメインメンバーを卒業します!」

 重たい腰を上げ、カウンターに入って行く香月さんを捕まえて、アンは言った。

「は……俺、聞いてない」

「あれ? てっきり瀬野ちゃんからもう言ってたのかと」

 血相を変えたアンが香月さんの腕を掴んでいる。

「すみません、ちょうどアンとシフトがかぶらなくて……」

「あんたたち連絡先知ってるでしょ」

 ちょうど、なんとなく連絡が取りづらかったなんて言えない。当の本人はどう思っているかも分からない。

「じゃあ今聞きます」

「えっと……辞める常勤さんの仕事を新年度から引き継ぐことになりました。それでカフェタイムは卒業することになりまして」

 訪問看護に夜勤はない。そうそうにフルタイムとはいかないが、いずれは週5日勤の生活になる。残念ながらカフェタイムの勤務は遅かれ早かれ入れなくなってしまう。苦渋の決断だった。

「なんでそんな大事なこと言わないんですか」

「言うつもりだったよ。でも出勤が久しぶりで。それにバータイムは時々手伝いに来るから……」

 時々、と言ったが、現実的にいつまで来れるかは分からない。この不確定さも言えなかった理由のひとつだ。アンはどう思うだろうか。アンの独立は止めたくせに、自分はひとり出て行くのかと思うだろうか。

「連絡してくれたらいいじゃないですか」

「そうだけど、でも」

「でもって……なんですか」

 こんなことばかりだ。

 アンを怒らせることが増えた。周囲に無頓着な彼のもともとの気質にわたしが上手くついていけなくなってしまった。何を考えているのかも分からず、そのうちに怒らせては、上手く話ができない。


「まあまあ」

 見かねた香月さんが割って入る。わたしたちの小競り合いの中、作っていたのは自分の飲み物だけではなかった。

「はい、桜のモヒート。瀬野ちゃんの新しい門出に」

 後ろにまとめた長髪に、おくれ毛が横顔を隠す。こういうとき、香月さんは決まってキザなセリフを言う。それがさまになるから、バーテンダーという生き物は怪しい。怪しくて、かっこいい。


「なんにも変わってないですよ」

 香月さんに対抗するように、アンは言い放った。

「ねえ、アン」

「……なんですか」

 声色は暗い。わたしに怒り、そっぽを向いている。

 それでも、どうしても今日、伝えなければと思った。ことあるごとに背中を押してくれたアン。彼が他者へ向ける愛情は、いつだって器から溢れていて、それが危なっかしいときもあれば、生きる支えにもなっていた。

「アンは、いつだって必要とされていて羨ましい。お母さんにも、香月さんにも」

「そんなの、瀬野さんの方が必要とされてるでしょ。患者さんにも、これからはクリニックの人たちにもなおさら頼られるはずです。俺の比なんかじゃない」

 わたしが患者さんに向けられる愛情と、アンが他者に向けて来たそれは違う。どちらかだけでは、十分とは言えない。すべて揃って、あるいはマッチするどちらかと出会って、初めて人は耐えがたい逆境の中でも前を向けるのかもしれない。

 わたしを引き戻してくれた彼に、どう伝えたらいいだろう。


「ううん。アンはちゃんと、みんなの居場所になってあげてる。……それにわたしも、が一番しっくり来る」

 そっぽを向いていた瞳がやっとこっちを向いた。目が合って、そして心臓が跳ねた。その衝撃の名前を、わたしはもう知らないわけはない。

 アンももう怒っていないようだ。先ほどまでの冷めた目つきはどこへやら、きょとんと眼を丸くし、唇に薄く力が入る。


 どうしようもなくなって、ふたり揃って香月さんに助けを求めた。

 はあ、と香月さんが大きなため息をつくと、誰からともなく笑い出した。


【完結】

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