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 第五十八話 ひとりのコーヒー

 楽しい思い出を、返せと責めるのは誰だろう。

 裏切ることなど許さないと、怒りに満ちた声を出しているのは、誰。

 ああ、そうか。これは夢だ。夢なのだと、優菜はぼんやりとした頭で理解した。

 目の前に広がる光景は、かつての自分。

 そして、学生時代の頃の令と、姫乃が仲良く並んで立っている。

「お前に価値などない」

「汚されちゃった、可哀想な女の子。同情の目はあっても、もう令には愛されない」

 そんな言葉を、目の前の優菜に吐き捨てる。

 優菜はただ黙って涙を堪えるしかないが、ふと気づいた時、それを別の視点から見ている自分がいるとわかった。

 その自分は、長かった髪を切っていて、幸せいっぱいとまでは言えないが、笑みを零している。その傍らに、令の姿がある。令はやはりクールな印象ではあるが、優菜と共にいて安らぎを感じているのか、表情が柔らかい。

 ああ、そうだ。そうだった。私が守りたいものは、これなんだと、優菜は気づく。

 汚されただとか、そんなことは、きっと令だって気にしちゃいない。

 汚らわしいと、本人の口から直接聞いたわけでもないじゃないか。

 裏切ったのは、誰だろう。

 ふとそう思った優菜はすぐに「……きっと、誰も裏切っていない」と呟いた。

 皆、自分に正直に生きている。

 自分も、令も、姫乃も、自分に正直に生きているじゃないか。

 悩むな。悩むな。

 もっと、自分の生きたい世界で生きればいいのだから。

 誰が悪いのかなんて犯人捜しよりも、ずっとやらなければいけないことがあるはずだ。

 学生時代の令が、今の令が、互いに言葉を優菜に投げかける。

 相反する言葉。きっとその言葉は、優菜との距離が違う今と昔では全く違うということで、どちらの言葉も令の言葉かもしれない。

 夢の中だから、優菜の心の中での令の言葉ではあるが、きっと現実とそう変わらない。

 裏切ったのは……きっと、私自身。

 優菜はそのことに気づいた。

 自分自身を騙して、裏切ってしまった。素直になればよかったのに。

 だから、だからこうなった。

 汚されたのは、身体だけ。心までは、まだ、汚されていない……!

 真っ暗だった世界に一筋の光が入り込み、ガラスがひび割れるかのように光が外から次々と差し込んでくる。

 そして、優菜は夢の中の令ではなく、姫乃に目を向けてから、現実世界へと目を覚ますのだった。

 目を覚ました優菜は、顔を洗って、歯を磨き、髪を梳かしてからコーヒーを淹れる。

 もう一度、令の隣に居たい。いや、令の隣に居続けたい。

 でも、その前に、まずは自分を落ち着かせること。

 そうしないと、相手に勝てない。姫乃に、勝てない……。

 彼女は、驚くほどに人を唆せる。そして、手段を選ばない。でも、実際のところは子供と同じ。姫として扱われてきたから、それが当然だと思い込んでいる。

 でも、そんなもの、いつまでも続くものじゃない。

 優菜の望みは、簡単なこと。それが、いつも叶いそうになって、また終わりかけるのはそんな姫乃の我がままのせい。

 令から連絡が少なくなってきたのも、きっと、姫乃からの指示か何かだと思われる。

 ……彼女は、諦めていないのだ。

 優菜から、令を奪い返すことを。

 でも、だったら、こちらも諦めない。

 幸せに生きる道をどうやってでも、見つけて、その道を歩く。

 優菜は時計を見た。

 まだ、午前四時を回ったところで、出社まで時間が余っている。

 もうすぐ、コーヒーが淹れ終わる。

 そうしたら、のんびりとコーヒーを飲もう。

 優菜はそう思いながら、カップを取り出した。

 ……隣に、令のためのカップがあるのを見て、寂しさに瞳を揺らす。

 でも、素直に助けてと言えなかった自分のせいでもある。

 悲劇のヒロインになるんじゃない。

 強くならなければ。

「私の望みは何? なんて、そんなのわかりきっている……」

 優菜はカップにコーヒーを淹れた。

「令と、一緒に生きること」

 ああ、そうだ。そのためならば、悪役令嬢にでも、何にでもなると、そう決めたじゃないか。どうしてこんなに大事なことを忘れていたのだろう。

 望みは、願っているだけでは叶わない。

 行動に、移さなければ、意味がない。

 言葉だけなら、ただ願うだけなら、誰にでも出来る。

 そこからどうやって行動に移すか。また、どうやってその行動を結果に結びつけるかだ。ただ泣きわめくことは行動とは言わないし、大人のすることではない。

 きっと、これから姫乃は以前よりももっと、優菜に対してきつく当たるか、逆に優しくなるかの両極端だろう。何故なら、恐らく令をその手の中に入れたから。

 彼女はそうやって、欲しい物を全て自分の物にしてきたから、きっと今回だってそうだろう。優菜は容易に想像がついた。

 いいじゃないか。

 悪役令嬢と主人公。

 どちらが強いのか、勝負といこうか。

 互いに愛する人を賭けて。

 優菜は久々に、笑みを見せた。

 その笑みは、絶対に負けないという強気の笑みだった。

 ……女はいくらでも強くなれる。堕ちるのも一瞬だけど、上がるのも一瞬だ。

 堕ちるだけ堕ちたら、あとは上がるだけ。

 大丈夫。まだ、令に手が届く。

 そう信じて、優菜は再び戦うことに決めたのだった。

 とはいえ、令と優菜は姫乃によって再び引き離されてしまったのだ。

 これをまた元通りの距離にというのはなかなか難しい問題だ。

 しかし、優菜はそんなこと、問題としては見ていない。

 何故なら、ダメになったのならばまた繋ぎ直せばいいとそう本気で思っているからだった。そして、それが何よりも強い令との絆となる。

 優菜がスマホを開くと、やはり令からは連絡がなかった。

 だから、優菜から連絡を入れることにした。

 こんな早朝に迷惑だろう。でも、送らなければいけないくらい、優菜は今すぐにでも、令と会って話したかったし、ごめんなさいを言いたかった。

 あんな酷いことを言ってしまったことに対して、優菜は罪悪感を抱いていたのだ。

 そして、メッセージアプリでメッセージを送り、しばらくすると既読が付いた。

 こんな時間なのに、起きていたのかと驚いた優菜だったが、令のことだからきっと仕事の準備でもしていたのだろうと思うことにしたのだった。

 優菜はコーヒーを飲み干し、令への想いを整理し、そして積み重ねてきた互いの大事な思い出を何度も振り返った。

「……この思い出は、私達だけのもの。たとえ、姫乃でも、この思い出を作ることは出来ないし、いくらこの世界の主人公と言えど、なり代わることは出来ない」

 そんな、愛しい思い出達を胸に、優菜は着替え始める。

 しかし、パジャマのボタンに指をかけると、まだ震えることがある。

 でも、この恐怖に打ち勝たなければ、あの姫乃には勝てないだろう。

 姫乃は優しさと恐怖で人を縛り付ける。

 それはずっと昔からわかりきっていること。

 だからこそ、その恐怖をなくしてしまえば、あとは簡単なはずなのだ。

 人間という生き物は、恐怖に打ち勝った時、爆発的なエネルギーを得ることが出来るとどこかで優菜は読んだような、知ったような気がしていた。それが何だったかは忘れたが。

 だが、そのエネルギーを、自分も持っているに違いないと、そう思うのだった。

 それに、このまま令と離れてしまったら、きっとその先に待っているのは、空虚な世界。何も喜べず、楽しめず、悲しんでばかりいて……、次第に悲しむことすら忘れてしまうような、何もない世界だろう。

 そんな世界、絶対に嫌だ。それに、姫乃と戦うと決めたのだから、戦わなければ。

 自分に負けたら、一生負け犬のままだ。

 立ち向かおう。これまでの自分に。

 思えば、令におんぶに抱っこだったようにさえも思える。

 何かあればすぐに令に助けてもらってばかりで、何かを自分一人だけで解決したことなどなかったかもしれない。

 そんなことではいけない。

 それに、本当の意味で自分を傷つけたのは令でも、姫乃でもない。自分だ。

 自分で自分を傷つけて、それで満足する、質の悪い遊びにも似たことをしていた。

 それに気づけただけ、優菜はまだ自分がマシな人間だと思うことにした。

 優菜は出社の準備をゆっくりと始める。

 そして、化粧もばっちりとして、最後に大好きなピンクの口紅を引くと、心が引き締まったような、そんな気がした。

(負けてなんていられない。負けたら、生きるか死ぬかの戦いから自ら降りたことになる。そんなの、絶対に嫌。私は、ただ令と一緒に幸せに生きたいだけ……! もしかしたら、姫乃もそうなのかもしれない。だけど、あまりにも、していることが酷すぎる……。姫乃も、純粋な気持ちでただ生きているのかもしれない。だけど、だったら……、私だって同じだ)

 姫乃に対する対抗心……などではない。対抗などしたくはない。ただ、欲しているものが同じで、どちらもそれを譲れないということだけが確かだった。

 令との幸せを手に掴むのは、どちらだろう。

 それは、今の時点では、世界にもわからないのだった。

「また令と一緒にコーヒーが飲みたいなぁ……」

 優菜はそう言って、二人でコーヒーを飲んでいた楽しかった時の記憶を再生した。

 そうだ。それでいいじゃないか。大きな目標なんて考えなくてもいい。ただ、また一緒にコーヒーを飲むため、そのためだけに動けばいい。それから、幸せに二人で生きていけたら、最高なのだから。そう思いながら、優菜はお気に入りの服を着て、ヒールを履く。

 ヒールを履いたらドアの鍵を開けて、ドアを開く。外からの朝の陽ざしが入り込み、眩しさを感じた。でも、それが心地よかった。確かに外の世界は恐ろしく感じる。だけど、いつまでも内に引きこもっているわけにはいかない。必ず、外に出る時はどこかしらのタイミングであるのだから、自分でそのタイミングを決めなければ……。

 外に出て、玄関のドアの鍵を閉めてから会社に向かって行く。

 少しばかり早いが、遠回りをしたりして歩いて行けば多少時間稼ぎは出来るだろう。

 人々の視線が、自分に突き刺さっている気がするが、それはきっと気のせい。

 そう思いながら、恐怖に打ち勝とうと必死になって会社に向かう。

 きっと、自分の穴をあの姫乃が埋めていることだろう。

 でも、その穴埋めは、いつまでも続かない。

 何故なら、優菜自身がその居場所に戻ると決めたからだった。

 そして、優菜は会社の前に立ち、その外観を眺めていると、背後から姫乃の声がしたのだった。

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