「あれ? もしかして優菜ちゃん……? もう、大丈夫なの……? 身体、どこか傷とか出来てない? 大丈夫?」
優菜の姿を見つけるや否や、嬉しそうに、楽しそうにそう話しかける姫乃。
姫乃は一見したら、ただ心配しているようにしか思えないのだが、優菜にはそれが嘘だとわかりきっている。
だから、彼女が嬉しそう、楽しそうに見えるのだ。
「……優菜ちゃん、もしかして、やっぱり。まだ、外に出ちゃダメなんじゃない? お医者さんに行った……?」
優菜にはそんな姫乃の声が歪んで聞こえた。
笑い声に、聞こえたのだ。
でも、優菜は決めたのだ。
また令と、コーヒーを飲むのだと。
令とコーヒーを飲むためには、まず、自分が死なないこと。
そして、姫乃に負けないことが絶対条件だろう。
しかし、その条件さえなんとかなれば……。
そうすれば、きっと望んでいる輝かしい未来は、手にできるはず……。
「姫乃さん……」
「どうしたの? なんだか、顔色が悪そう」
「……私、あなたには負けませんから」
その言葉を聞いた瞬間、姫乃は一瞬だけ目を見開いた。
しかし、すぐに優しそうな視線を優菜に送りながら「お馬鹿さん」と唇の形を変えた。
「世界に愛されていないあなたに、勝てるとでも?」
優菜は姫乃がこの世界の主人公であることを、知っているのだと思った。
少なくとも、主人公かどうかを知らないにしても、世界に愛されているということだけはわかっているようだと優菜は理解した。
だったら、それこそ……。
「絶対に、負けないわ」
確固たる意志を貫くと、優菜は決めた。
迷って、何度も絶望の淵に落とされても、それでも、令の側に居たいと思った。
令の側で、目を覚まして、コーヒーを飲んでいたいと、ただそれだけを願う。
それさえもダメならば、一体何ならばいいと言うのか。
彼女に、姫乃に……そんな権限、あるはずがない。
「あ、そうだ。優菜ちゃん。あなたが休んでいる間、あなたの穴を埋めるために私もあなたと同じように令の手伝いをするようになったの。だから、今後も顔を合わせると思うけれど、よろしくね」
わざわざ令が姫乃と出会わないようにしてくれた場所……。そこへ、姫乃は易々と入ってきた。きっと、令のためだとか優菜が可哀想だとかそんなことを令に吹き込んだのだろうと優菜は思う。もちろん、そのくらいのことはすぐに考え付いたのだが……。
「そうそう。あなたの仕事も見させてもらったのよ。優菜ちゃん。あのね、やり方がね……。あと、スピードも……」
優菜は落ち着け、落ち着けと自分に言って、大きな心臓の鼓動を鎮めていく。
「姫乃さん、いえ、姫乃部長。私、そんなに言われるほど、自分の仕事にミスがあったとは思っていません。事実、令は何も言いませんでしたよ」
「それは……令は優しいから」
「じゃあ、間違っていましたか。確かに、時間は掛かったかもしれない。手際も悪い方だし……。でも、そんなに言われるほどの酷い仕事をした覚えはないんです。やり方について文句があるなら令に言ってください。教えてくれたのは、令ですから」
「……そう。じゃあ、勘違いだったかも。ごめんなさい」
姫乃は小さな声で謝った。
その表情も「あらあら……」と、まるで自分には非がないとでも言いたそうだった。
でも、それでも優菜はいいと思う。
なぜならそれは予想出来ていたことだったからだ。
ふと季節の花の香りが漂った。
そうか。季節は移り変わっていたのかと、優菜は知った。
ならば、余計にこの問題を留まらせておくべきではない。
季節が移り変わるように、時間というものは流れていくのだから。
時間は止められない。
人の気持ちも、時間によって変わっていくものだ。
だから、優菜はより強くなることを願い、そしてこの会社に……、姫乃の前に立っている。
戻ってきたのだ。再び、戦う場所へと。
そうだ。何度嫌になろうとも、生きるため……。
いや、最高の生き方をするために、何度だって戦ってやると、優菜は拳を握りしめる。
こんな泥のようになった自分でも、令が愛してくれるかは、わからない。だけれど、泥の中でも光る星……、希望を見るくらいのことは許されるはずだ。
そしてその星を手に掴もうと必死になることは、罪ではない。
胸を張って生きていけるような生き方、それは綺麗なだけじゃないと優菜は信じている。
誰だって、堕ちたくて堕ちたんじゃない。
這い上がることだって、可能だろう。
人は一回堕ちたらそのまま堕ちるだけなどとどこかで優菜は聞いた気がしたが、そんなことはないはずなのだ。確かに努力してもどうしようもないことはある。だが、現代において、全てがそうであるとは限らない。
優菜は希望を信じることにした。
「姫乃さん」
「……なあに?」
「私、令を返してもらえるように頑張りますから」
速くなる鼓動を感じながらも、優菜は震えそうになる声を抑えながらそう静かに言った。
すると姫乃は目を見開いて、しばらくするとくすくすと笑い出す。
「まるで私が令を奪ったみたいね。違うのよ。令はね……」
姫乃は優菜の耳元でこう言う。
「望んで私のものになったのよ。もう、優菜ちゃんの熱が移ることもない」
その意味を瞬時に理解した優菜は、姫乃の頬を叩いた。
「最低な女ですね……」
「最低な女? ……どっちのことかしらね。ねえ、令?」
優菜が姫乃の視線の先を見てみると、そこには令がやって来ていて、目を見開いてこちらを見ていた。