令の外れた視線は、姫乃と優菜が言い争っている間も、それが終わってからの仕事中もずっと外れたままだった。
それだけ、二人に対して自分が悪いと思っている罪悪感からなのだろうか。
令は心の内で、何故こうなってしまったのだろうと考えていた。
まず、姫乃と優菜を離すべくしてこうして自分の仕事を手伝ってもらうために優菜に来てもらったというのに、今では自分から姫乃を再び優菜と一緒に居させてしまっている。
ましてや、穴埋めになどと言い訳をして、姫乃を優菜のいるべき仕事の居場所に居座らせてしまった。
令が今、本当に好きなのは優菜だ。それは変わらない。
だが、支えてくれたと言ったら聞こえがいいが、隙を突いて懐に入り込んできた姫乃のことも、嫌いになりきれない。
昔から一緒に居る仲だ。余計にそう思わせるのかもしれない。
だが、その化けの皮……と言ってもいいのだろうか。取り繕われた顔の下に、どんな表情の「女」がいるのかは、令が一番わかっている。
そんなことを考えながら仕事をしている時だった。
バインダーを机に叩きつける、大きな音が聞こえ、令はその音のする方を向いた。
そこにはにこにこと微笑みながらバインダーを持っている姫乃の姿があった……。
「ちょっと、姫乃ちゃん。いい加減にしてね」
「そう言われても……。やり方は合っていますし、確かに時間は姫乃部長よりは掛かりますが、確かな仕事をしています」
「それじゃあ間に合わないでしょ? やっぱり、私じゃなくちゃダメね。私がヘルプでここに来なかったら、令にもっと負担を強いてたんだから……」
「私は、そんなつもりはありませんよ」
「そんなつもりはなくても……」
「……いい加減にしないか」
令はそう静かに言った。
二人はぴたりと口の動きを止めて、令を見る。
「二人共、少し頭を冷やせ。ここは職場だ。今は業務時間中だぞ。私情を、持ち込むな」
俺もだが……。などと思いつつ、令は冷静を装って書類に目を向ける。
「……」
優菜と姫乃は「ごめんなさい」と謝って、自分の仕事に集中しだした。
しかし、それでも二人は仲が良くなるなんてことはなく、業務上の報告、連絡、相談のみ最低限して、それ以外では話したりなどあまりなかった。
ただ、姫乃が周りからよく見られたいと思っているのもあり、部屋から出ると優菜を気遣うような言葉を掛けたりし、その度に優菜は虫唾が走るような思いをしているのだった。
いい加減、この茶番劇もどうにかしたいと、そう思っていたのだ。
もちろん、そのことに姫乃も気づいていた。だが、この方法こそ、一番優菜を傷つけられると思いながら優しい振りをする。
周りは見事に騙され、優しい小鳥遊姫乃部長と持ち上げ、優菜は出来ない子として認識されるのであった。
また、そのことについて令が何も言わないのもよくなかった。
そのために、優菜は令のダメな婚約者というレッテルまで貼られてしまったのだから……。
でも、それは元々のことだと優菜は開き直った。
その開き直り方は清々しいもので、周りの目からしても堂々としていて、「あれ?」と思うほど、前の優菜とは明らかに違っていた。
汚されたものはあっても、綺麗なままのものもある。
優菜はそう信じ、生きている。
令はそんな優菜を見て、胸を張って抱きしめてやれない自分を、悔やんでいた。なんと愚かなことをしたのだろうと、ただただ、それだけを哀しんでいた。
でも、傷ついた優菜にどう触れたらいいのかわからなかった。
姫乃の言う通りにしていればいいのだと、そう他人の言う通りになっていれば、自分に責任はないのだと、令にしては驚くほどに消極的に物事を考え、そして愚かな選択をしてしまったのだった。
優菜の隣で笑っていた自分が、酷く遠くにいるような、そんな気がした。
こんなのは自分らしくないとは思っている。それでも、変えられない。
優菜との距離は、今どのくらいあるのだろう。
もしかしたら、婚約を白紙にしたいというのも、こんな自分に呆れてのことなのかもしれない。口ではああ言ってくれていたが……。
だが、令は自分の出来ることはないのだと悟ると、ただ仕事をすることだけに打ち込み、それ以外ではまるで昔に戻ったかのように冷酷で令に戻るのだった。
これでいいんだと、言い訳がましいことを考えながら。
ふと、姫乃が居ない時、優菜はそんな令を見て令にこう言った。
「令。今、楽しくないでしょう」
それは疑問形などではなかった。
「……それが、どうした」
「悲しそうな表情をしているもの。冷酷って言われてる令の表情に似ているけれど、違う。どうしたの。姫乃さんとの間にあったことは、許せないけれど、でも、許すから。……矛盾してるけど、でも、ただわかってほしいのは、私は令の味方だってこと。それだけは覚えていて」
ふと、コーヒーの香りがした。
優菜は、また自分と一緒にコーヒーを飲んでくれるだろうか……。
そんなことを、令はしっかりとした視線で優菜を見ることも出来ずに思うのだった。