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第63話 試写会の日が来た

 十月六日日曜日。試写会の日が来た。


「じゃあ帰り遅くなるから」


 夕方の五時過ぎ。絵を描いている湊君の背中にそう声をかけるけれど反応がない。


「夕飯、あっためて食べてね!」


 返事はないけれど、私はさっさと家を出た。

 外に出ると冷たい風が吹いていて、辺りは夕暮れ色に染まっている。

 もうしばらくすると日が沈むだろう。

 試写会は、駅の近くにある映画館を借りて行われる。なので待ち合わせは映画館前だった。

 六時に開場だそうなので、待ち合わせは五時半だ。

 試写会楽しみだけど……分裂騒動が起きているアイドル、セプトリアスが主題歌で、しかも主演のひとりは抜ける側であり、リードボーカルである伏見綾斗だ。

 そして、湊君のひとつ上のお兄さん。世の中って狭いんだなぁ。まさかこんな身近にアイドルの兄弟がいるとは思わなかった。

 このことはもちろん誰にも話していない。調べた限り、伏見綾斗は今の兄弟の話はしているけれど、離婚して離れて暮らす兄弟がいることに言及しているものはなかった。

 ってことは、湊君のことやお母さんの事は公表していないんだろうな。

 伏見綾斗、どんな人なんだろう。テレビや写真でしか見たことないけど……

 今日の試写会、マスコミ、多いんだろうなぁ。

 そんな憂鬱な思いを抱えつつ、私は映画館に向かって行った。




 映画館の前に着き、私は思わず踵を返して帰りたい衝動に駆られた。

 マスコミの数もすごい。だけどそれ以上に、セプトリアス、というか伏見綾斗のファンと思われる女性がたくさんいて、警備員の人たちの姿もたくさんあった。

 どうしてファンだとわかるのかというと、皆一様にうちわやぬいぐるみを持っているからだ。

 これは……すごい。っていうかやばい。

 怖いなぁ……試写会行くの。

 人が多いの、苦手なのに。でも試写会という初めての経験には心惹かれたから、私はぐっとこらえて待ち合わせ場所である映画館近くのコンビニに向かった。


「あ、森崎さん」


「灯里ー! やっほー」


 コンビニの前に、ジュースを飲みながら立っている三人の姿を見つけた。鍵村さん、ななみ、稲城さんだ。


「お待たせしました。映画館の前すごいですね」


 私が言うと、鍵村さんは苦笑する。


「あはは、そうだよねぇ。警備員を増員したって言っていたよ」


 でしょうね。

 その時だった。


「あやとー!」


 という叫び声がたくさん聞こえてきて、私たちはいっせいにそちらを向いた。

 映画館に横付けされた車から降りてきた、ひとりの青年。

 今話題の、伏見綾斗だった。

 彼はにこにこと笑って手を振っている。


「伏見さん! 今の心境は!?」


 この声はマスコミだろう。

 その呼びかけに彼は何も答えずただ笑って手を振るだけだった。


「やめないで!」


「セプトリアスどうなるの!」


 なんていう声が方々から聞こえる中、伏見綾斗は沈黙したまま映画館の中に消えていった。

 ……あれ、試写会って本人たちも見るんだっけ……

 すごく帰りたい気持ちと、すごく映画を見たい気持ちが私の中で拮抗している。

 そんな私の不安を感じ取ったのか、それともたまたまなのかはわからないけれど、ななみが私の腕をがしり、と掴んでテンション高めに言った。


「こんな試写会初めてだから色んな意味で楽しみなの!」


 それなんてポジティブシンキング?

 楽しみか……いや、確かに楽しみではあったけれど今は恐怖の方が大きいわよ。


「そう、ねえ……うん、楽しみではあるけれど」


「なに、どうしたの? 灯里。こんな注目を浴びる試写会、二度とないよ?」


「いや、私は普通の試写会がいいです」


 苦笑して私が言うと、鍵村さんが頷きながら言った。


「そうだよねぇ。まさかこんなことになるなんて思わなかったんだよ」


 でしょうね、今回のセプトリアス分裂騒動について知っていたのは当人たちと湊君くらいなものでしょうね。

 だから仕方ないことはわかってはいるんだけど。

 人ごみ嫌いな私が、帰りたい、って訴えている。でもせっかっく来たんだから頑張ろう。


「にしてもセプトリアスってそこまで人気ある風じゃなかったですけど、分裂騒動からランキング独占状態ですごいですよね」


 ななみが言い、私は頷く。

 そうなのよね。人気でいったら三人組アイドルのフリューゲルが一番なはずだ。

 だけど連日セプトリアスの話題で持ちきりで、CDやダウンロードの売り上げが伸びている。

 もしかしてこれが狙いとか?

 まさかねぇ。分裂騒動なんてリスキーすぎるわよね。そこまで深い意味はないのかもしれないけど、年末に脱退することを考えたら今が適切だったってだけかな。

 十二月にこの映画の公開があって、シークレットライブがあるわけだし。


「おかげで売り上げ伸びてるし嬉しいような大変なような……」


 そう呟き、私は疲弊している他の営業の姿を思い出す。

 メーカーと小売店の間に立つ人たちは大変よね。

 売れるうちに売りたいから、今すぐ在庫が欲しい小売店。まさかこんなことになるなんて思ってないから生産数は少ないし、在庫も大して持っていないメーカーと問屋。

 小売店もお客さんに色々言われるだろうし、誰も幸せにならないよねぇ。


「とりあえず、関係者パスはこれだから、首からかけてね。襲われないように気を付けて」


「ちょっと鍵村さん、シャレにならないですよそれ」


 ひきつった笑いを浮かべながら、稲城さんは言い、パスの入ったネックストラップを受け取った。



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