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第98話 温泉へ行こう

 二月って一年のうちで一番寒いらしい。

 厚手のコートを羽織り、熱海までやってきた私たちはひと通り観光を済ませてホテルにチェックインした。

 ちなみにツインだ。

 同じ部屋にするかどうかで話し合いがあったあと、ツインかダブルかは即決だった。

 同じ部屋に寝るのは別に今更だから気にならない。

 だけど同じベッドは無理だ。私にはまだそんな勇気はない。

 私と湊君、宙ぶらな感じだもんね。

 あのライブから湊君はなにか吹っ切れたのか、様子がちょっと変わった気がする。

 今まで私の顔色うかがうことが多かったけれど、最近はずいぶんとそれが減ったように思う。

 雰囲気変わったな。と思うけれども、私との距離感はなんとなく遠い。

 それは私がどうしたらいいのか分からないせいもあるだろう。

 最初、契約するときにちゃんと話し合わなかったからなぁ……

 もう、半年以上経ったんだな、あの契約を結んで。

 最初は何の冗談かと思ったけれど、まさか一緒に暮らして旅行にまで来るなんて思わなかった。

 一緒に暮らさなかったらここまでのことにならなかったかな。

 ストーカーのことがなかったらちょっと違っていただろうな。やたら湊って、ホテルに行きたがっていたしそれに私は戸惑っていたし。

 なのに今日、とうとうホテルに来てしまった。人生って何があるのかわからないなぁ……

 荷物を片付けたあと私は窓際に立ち、外の風景を見つめた。眼下に広がる海に、はるか向こうに見える水平線。太陽の光をあびて煌めく水面。

 私が住む町には海がないから、海が見える部屋はとても新鮮だった。


「おっきいなぁ」


 という、月並みな感想しか出てこないけれど、久しぶりに見る海に私は感動をしていた。


「月末なら花火が見られたらしいよ」


「花火? 花火って冬でもやるの?」


 花火は夏だけだと思っていたけど冬でも見られるのね。


「うん。冬の方が空気が乾燥して綺麗に見えるって聞いたことあるけど」


「へえ、そうなんだ」


 そして私は窓際から離れて振り返り、室内を見回す。

 ソファーやテレビなどが置かれたいわゆるリビングと、ベッドがある寝室と別れている広い部屋だ。

 ここはソファーが置かれているいわゆるリビングで、ゆったりくつろげるようになっている。

 寝室の方はベッドがふたつ並んでいたけど、あれって同じ部屋で寝るんだよね……当たり前よね。そもそも部屋だって相談して決めたんだから。

 初めての旅行だからと、ちょっと奮発してこんな広い部屋を選んだんだ。

 そうなんだけど……今まで一緒に寝たことなんてないからそう思うとなんだか気恥ずかしくなってくる。

 いや今さらだということはわかっているし、「恋人」なら普通なことだ。

 そう、ふつう……

 だめだ、私、今まで普通の恋人なんていたことないからイマイチ想像できない。頭の中が真っ白で、何にも考えられなくなってしまう。


「……ねえ、大丈夫?」


 気が付いたら、目の前に湊君の顔があって私は大きく目を見開いて彼を見た。

 不思議そうな顔をして私の顔を覗き込む彼は、私の頬に手を触れて言った。


「声かけても返事しないからどうしたのかと思ったんだけど……大丈夫?」


「え、あ、え、うん! だ、だ、大丈夫、だよ!」


 とても大丈夫じゃない高い声で言い、すっと湊君の手から逃げてしまう。

 そして残ったのは宙に浮いたままの湊君の手。

 あぁ……これ、まずかったかな、どうしよう……えーと、えーと……

 だめだ、考えても何にも出てこない。

 湊君はゆっくりと手を下ろしたかと思うと、にこっと微笑み言った。


「ならいいけど。夕食までまだ時間あるから温泉行ってこようかと思うんだけど」


「あ、私も行く」


 せっかくの温泉地。

 入りまくらないと損だよね。このホテルにはスパリゾートやレストランや土産物屋さんが集まるモールが併設されていて、ホテルの宿泊者はそのスパリゾートを無料で利用できるそうだ。

 土曜日だし人が多いんだけど、温泉ならそこまで気にならないといいなあ。

 ホテルからスパリゾートに繋がる通路を通ると、私たちと同じ考えらしい人たちが多く、談笑しながら歩いていた。

 うう、思ったより多いかも。

 女の子が、親に向かって一生懸命話しかけているのが聞こえてくる。


「でね、綾斗とかセプトリアスを辞めちゃったけど、新しいグループ作ってね」


 なんて言っている。

 たぶん小学生の低学年だと思うんだけど、それくらいの子にもセプトリアスって知られてるんだなあ。

 綾斗たち、抜けた人はアイドル事務所の「キャラット」を辞めて前に噂されていたように元アイドルの相川秀星が作った「エトワ」に移籍。

 新年に入って早々、抜けた人たちで新しいグループを作り今月にはデジタルシングルを配信する予定になっている。


「あの子、綾斗さんのファンなのかな。すごい笑顔で話してるね」


 笑いながら私が言うと、湊君は関心なさげに呟く。


「そうだね」


「人を笑顔にできるのってすごいねー」


 ライブでも思ったけど、こんなに人の感情を動かせるのってすごいよねぇ。


「うん……まぁ、そうなのかな」


 気のない返事をする湊君はどこか遠くを見ているようだった。どうしたんだろう、なにかあったのかな。

 綾斗のことになると、湊君はどこか他人風になる。前は嫌悪感がすごかったけど、それは感じなくなった、かな。

 一月に入って電話で話しているのを一度聞いたけど、そこまで嫌そうな感じじゃなかったし。

 でもやっぱり割り切れないものがあるのかな。

 綾斗の片想いはしばらく続きそうな感じがする。

 彼はこちらを向いたかと思うと、私の手をつかみぐっと、顔を近づけてきて言った。


「ねえ、早く行こう。夕飯の時間、迫ってくるし」


 近すぎてちょっと恥ずかしいんだけど。

 そう思いつつ私は頷いた。


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