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レクイエム 下

 何処からともなくピアノの音が聞こえた。


 細くしなやかな指が軽やかに鍵盤の上を跳ね、途切れること無く音を紡ぐ。


 『月の光』『G線上のアリア』『エリーゼの為に』『幻想のポロネーズ』……クラシックの名盤が鼓膜を撫で、微睡む意識を幻想の湖畔へ揺蕩わせる。鋼の安楽椅子に背を預け、乾いた指先でリズムを取っていたネームレスは、瞼を閉じながら鍵盤を叩く少女へ視線を移す。


 人の才能、或いは天才性とは何処に眠っているのか分からないものだ。必死に鍵盤を叩く風でもなく、ミスを恐れるワケでもない。ただ学んだことを反復練習が如く鍵盤に叩き込み、楽器から生まれる音楽という魔物を飼い慣らそうとする若きピアニスト。カナンの後ろ姿を眺めたネームレスは、ホログラムで作られた奏者を数人増やす。


 ピアノを弾けると言う人間が多けれど、楽器の濁流に個を光らせる者は多くない。いずれにせよ、自分だけの音を奏でられぬピアニストは肥えた自尊心を自ずと圧し折り挫折する。名高いミュージシャンであろうとも、大衆に寄せた音楽はその者の声ではなく、金の音。真に人の心を震わせることが出来るピアニストとは……己の魂を以て音を紡ぐ者なのだ。


 ならばカナンの奏でるピアノはどんな音を発し、どんな想いを紡いでいるのか。他人の心を覗き見ることは人の目に叶わず、本音を引き出す言葉を持ち合わせている者は数えるに値しない。妖精の舞踏を思わせる美しい指捌きと、瞼を閉じながらも正確に鍵盤を叩くカナンの表情から汲み取った意思は一つ……彼女は自分の為だけにピアノを弾いているのではない、誰かの為に魂を燃やしているのだ。


 その意志は称賛に値する高尚な想いなのだろう。金にならない音楽など無価値とされようが、名が方舟に知られなかろうが、彼女の努力と才能は誰かに認められるべきなのだ。地球という母なる星が戦争によって死に、地下の方舟でのみ生存を許された人類はカナンの音楽に耳を傾けるべきだ。最後の音符を弾いたカナンへ拍手を送ったネームレスは、少女と共に深い溜息を吐く。意味は別として。


 「……」


 「……」


 重い沈黙が二人の間に流れ、空気が停滞する。ネームレスの言葉を今か今かと待ち望みつつも、どんな評価が下されるのか分からないカナンの不安。指導者として、ピアニストとして、どんな言葉で彼女の音楽を言い表そうかとするネームレス。


 一秒、二秒、三秒……。ネームレスの機械技師がピアノ・ホロを閉じ、少女の頭を撫でると「良いピアノだったぞ、あぁ……とても」薄い笑みを浮かべる。


 「本当!?」


 「嘘を吐く必要もあるまい。そうだな、お前が弾く音楽には感情が乗っていた。どんな楽器を弾く時も、常に奏者は心を燃やさねばならん。もうお前に教えることは何も無い……いや、そもそも私はピアノを教えられる立場に無かった」


 疲れたように、諦めたように、無邪気に喜ぶ少女を一瞥した老人は、安楽椅子に深く沈み込む。


 「あの、先生」


 「カナン」


 「はい!」


 「お前は……リチャード・ロウというピアニストを知っているか」


 「リチャード・ロウ? えっと、その人って大戦前の? それとも戦後の」


 「大戦前でもあり、大戦後の人物でもある。リチャード・ロウはな、世間一般的……誰もが知るピアニストではない。それこそ生きるために音楽を使い、自分の為だけにジャズ・カルテットのメンバーを利用した人間だ」


 ネームレスの目が遠い過去を見つめるように虚空を見つめ、ドス黒い瞳に深い憎悪が宿る。


 「リチャードには仲間が居た……いや、仲間だと思っていたのは彼だけであったのかも知れないし、カルテットのメンバーは彼のことをみすぼらしく貧しいピアニスト……苦学生の一人だと思っていたのかも知れない。違うな……そもそもリチャードという名前こそ本当だったのか、偽物であったのかも、彼には分からなかった」


 「リチャードって普通の名前じゃないの?」


 「カナンよ、リチャード・ロウとは身元不明の男を指す言葉だ。私の名前がネームレスであるのと同じように、彼にはリチャードという名前だけがあり、ロウとは物心付いた後に足された性なのだよ。父母の愛も知らず、賢さだけが取り柄だった青年……それがリチャード・ロウ。哀れで愚かな男」


 クツクツと自嘲するように笑ったネームレスと、目を瞬かせるカナン。ピアノ・ホロを空間に投影した老人は『ワルツ・フォー・デビイ』の楽譜を目で追い、鍵盤に指を添える。


 「苦痛は汝の母にして、片時も離れぬ恋人のよう」


 指が鍵盤を叩き、静かな声が部屋に響く。


 「貴方を受け入れようと、拒絶しようと、貴方は何時も私の前に現れる。片時も離れぬように、遠ざからぬように、その視線は何時も私を捉え、追い縋る」


 シットリと濡れたピアノの音色、しゃがれた老人の歌声。音楽を嗜む人間であれば煩いレコードを止めろと怒鳴り、彼の歌に心を掻き乱されるだろう。


 だが、カナンはネームレスの声とピアノに耳を塞ぐことはできなかった。歌詞一つ一つに人生の苦味が凝縮されているように感じたから。


 「苦しみ喘ぎ、人生を捨てた男にも貴方は寄り添い離れない。痛みに耳を塞ぎ、瞼を閉じた老人を貴方は優しく抱き締め、そっと囁くのだろう。まだ歩ける、まだ立ち上がれる、まだ生きていられる―――と。もう無理だと分かっていながらも私の背中を押すのだろう」


 過去がどんな形で現れようと、今でさえも苦痛に満ちた道を歩んでいる。憎悪と憤怒が枯れ落ち、諦念へ変わる。執念を無意味と断じ、無価値な生を歩もうと、苦痛は決して彼を裏切らず、希望だけが溶け落ちてゆく。


 「だから私は君を愛そう、苦痛を名乗る恋人を。いつ如何なる時も私の背中を押し、茨の道を指し示す君を信じよう。それがたった一つの許される為の方法ならば、恐れずに抱きしめよう。だって……君は最後の友達なのだから」


 「……」


 「……久しぶりだな、こうして歌ったのは」


 「先生」


 「いい、感想など不要だ。耳を汚したのならば謝罪しよう。これは私の身勝手な行為……意味のない贖罪なのだから。罪を重ね、悪を知り、罰から逃げる己に課した苦痛へのレクイエム。それが私にとっての『ワルツ・フォー・デビイ』だ」


 なんと言ったら分からない。苦しみだけを飲み下し、痛みに喘ぐ老人へ何と声を掛けたらいいのだろうか。悲しみに濡れた声を聞き、圧倒的な感情の濁流に飲み込まれたカナンは、小さな掌を握る。


 「レクイエムって……鎮魂歌でしょ?」


 「細かな意味は違うが、死者へ向ける意味としては間違っていないだろうな」


 「なら……先生の歌は昔の誰かへ向けてるの?」


 「……とうに過ぎ去った過去の記憶、私を信頼してくれた仲間、信じられなかった希望、自ら壊した愛……。その全てへ向けた歌故にレクイエム。カナンよ、元来私はこの時代に生きてはいけない人間なのだ。亡霊は墓へ埋まるのが筋であり、死者が生者へ鑑賞してはならぬ。今の人類……否、支配者は生きる屍を飼育する化生に違いあるまい」


 「……ねぇ先生」


 「あぁ」


 「もし私とイブが計画を……EDEN計画を成功させたら、先生は死んじゃうの?」


 「……」


 「私……先生が死んだら嫌だよ。もっと色々教えて欲しいのに、死ぬための歌なんて歌わないでよ! 先生、お願い……もうレクイエムなんて歌わないで。死のうとしないで……生きてよ、お願いだからッ!」


 「……」


 それはできない相談だ。今までのネームレスであれば少女の願いを鼻で笑い、死を望んでいただろう。だが、彼女の涙を目の当たりにした老人は視線を宙に彷徨わせ、


 「あぁ……そうだな」


 と、曖昧な気持ちで答えるしかできなかった。


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