「ただいま戻りました」
紗希が声をかけると、鋭い叱責が飛んできた。
「遅い! 早く来なさい!」
紗希の実父である蘇我俊樹が、玄関横の応接間から肩をいからせて出てくる。
怒りを露わにする父親に、紗希は一瞬怯みながらも駆け寄った。彼の手には、スマートフォンが握られている。
「あの……警察の方は?」
「なぜ呼ぶ必要がある? そんなもの呼ぶわけないだろう!」
「……どうしてですか?」
激しい物音が響く。俊樹がスマートフォンを床にたたきつけたのだ。割れるような音が、紗希の心までもかき乱していく。
あれほど家の中で人が暴れていたというのに、何故父親は『呼ぶ必要がない』と判断したのか、理解できなかった。
ぎょろりっ、と俊樹は紗希の顔を睨みつける。
黒々とした頭髪に、整った目鼻立ち。昭和の映画スターを彷彿とさせるような凛々しい面立ちであるにもかかわらず、紗希にはどうもその顔がおぞましいものにみえた。
「どうしたもこうしたもない! お前は昇吾さんを裏切っただろう!」
あっけにとられて「何の話ですか?」と素直に紗希は聞き返してしまった。
彼を裏切った?
「そうだ、裏切ったんだ! 彼という婚約者がいるくせに、白川家の長男と連絡を取り合ったんだろう!」
俊樹の手が、テーブルにしわくちゃの紙切れをたたきつける。
それは間違いなく、紗希が古い日記に挟み込み、そして持ちだしたはずの篤の連絡先だった。
紗希は冷や汗が止まらなかった。
「お父様。これを、どこからどうやって見つけたの?」
絶対に、この連絡先を持ち出した覚えはない。どうして、今、篤の連絡先が書かれた紙がここにあるのだろう。
紙も文字も、非常によく似ている。だが、瓜二つなだけで、別物の可能性が高い。
何しろ本物は紗希のキャリーケースに入っているのだ。
しかし俊樹は、テーブルを拳で叩きつけ、怒声を張り上げた。
「お前は嘘をついている! 和香が、お前の部屋からこの紙を見つけたんだ!」
紗希は父親の怒りが落ち着くように、必死に言葉をかけた。
「ですが、それはありえません。なぜなら」
「ありえない、だと? いいや、お前は、青木家からの信頼を、昇吾さんを裏切ったんだ!」
俊樹は、赤くなった目で紗希を睨みつけた。
「お父様、私は……!」
紗希は鋭く反論しようとしたが、俊樹は聞く耳を持たない。
「嘘をつくな! お前は何か企んでいるんだ!」
「違います! 私はただ、職場で篤さんと会い、少しだけ昔話をした際に連絡先をうけとったのです。それ以上のものではなく、なにより!」
紗希は勢いよくキャリーケースを開けた。
そして古い日記帳から、あの篤のくれた連絡先を取り出す。筆跡と書かれた紙はそっくりだが、紗希のもらった紙の方が古いのは一目瞭然だった。
俊樹は、顔を歪め、まるで怪物のように紗希を見つめた。
「そんなはずはない! ありえない!」
「お父様、お願いです。信じてください。私は……」
「もういい!」
俊樹は、突然、言葉を遮り、部屋を飛び出していった。
紗希は、一人残された部屋で、崩れ落ちるようにソファに倒れ込んだ。なぜ、こんなことになったのか。どうして、父親は私を信じないのか。
和香が見つけたという話も変だ。通報したにもかかわらず、屋敷に来ない警察も……。
すると、部屋の外に和香が現れた。和香は真顔のまま、紗希を見つめていた。
「……和香さん。私の部屋は今、どうなっているの?」
紗希は静かに尋ねた。
「朝から何一つ変わっておりませんが、どうなさいましたか?」
和香はひたすらに冷ややかな声で、紗希に返した。彼女のまなざしには、紗希がこの三年間で取り戻したはずの信頼は見えない。
だが紗希は、このような目をした和香をよく知っていた。
前世の彼女は、常に、紗希を氷の様な冷淡な眼差しで観察してきたのだ。
「お父様があなたに失望したのは当然のことです。あなたは婚約者がある身ながら、どうして男性の連絡先を隠すような真似をなさったたのですか?」
錆びついていた歯車がいっぺんに廻りだしたような気持ちになった。
キャリーケースに二枚分の篤からの連絡先をしまい込み、席を立つ。
「隠していたわけではないわ。お母様が亡くなったとき、不安を一番に分かち合ったのは白川様だったの。そんな方から連絡先をいただいて、思い切って捨てられないのは人の情として、理解してもらえないかしら?」
震える声で紗希は言うが、和香は何も言わない。ただ彼女は、紗希に失望した様子で小さくため息をついた。
「やはり真琴が言うように、貴女はどうしようもない人ですね」
紗希は和香を見つめる。
真琴はいったい、何時から動き出したのだろうか。少なくとも紗希が昇吾との関係にまごついているうちに、彼女は徹底的に紗希を追い詰めるための布石を打ってきたのだ。
「和香さんは、真琴さんを信じるの?」
「娘を信じない母親がどこにいますか?」
ひどく重い一撃だった。少なくとも、紗希にとっては。
味方のように思えていた和香だが、彼女はそれ以前に真琴の母なのだ。
「……分かりました。では私は、今日限りで蘇我家から出てゆきます。青木様からご連絡がありましたら、ぜひとも、婚約解消の手続きを進めてくださるよう、お父様にお伝えください」
和香から返事はない。だが、満足そうな笑みを彼女が浮かべる。
紗希は胸を引き裂かれたような悲しみに襲われながら、和香の前より踵を返した。
そして今度はタクシーも何も使わずに、屋敷を出ることにした。俊樹……いや、真琴は紗希の行動を監視しているのかもしれない。
タクシーを使おうものなら、すぐに連絡が行くだろう。
父親や和香の異変、須藤の変貌ぶり。
三人は真琴に何か言われて、紗希への対応を大きく変えたのだろうか。
紗希は最後に、蘇我家の屋敷を振り返った。
母の琴美が亡くなる前、この屋敷がまだ活気づいていたころが、もはや思い出せないほど過去に思える。
もともと、さほど思い出のない家。
いったい自分が何をしたのか、紗希には分からなかった。
真琴が幸せになるための世界で、紗希が幸せになろうとしたから、天罰が下ったのだろうか。
少なくとも、この屋敷に、紗希が愛したものはもう、何も残っていない。
暑さで汗が噴き出す。頬を流れる涙は、汗が目に入ったせい。そうに違いない。
蘇我不動産の関連会社ではないホテルを頭の中で思い返しながら、紗希は生まれ育った家を後にした。