蘇我家の邸宅から歩くこと、ほぼ一時間。
着の身着のまま。紗希はとあるホテルの一室に身を置いていた。蘇我不動産とは関係がない、他業種の大手企業が経営するビジネスホテルだ。
特別なサービスなど何もないが、かえって紗希には気が楽だった。
室内に置かれた無料のミネラルウォーターを口にすると、半分ほど一気に飲み干してしまう。口の中がカラカラで、朝食を食べたのが信じられないほど空腹だった。
「……どうしようかしら、本当」
あっという間だった。紗希は家族から見放され、事務所という居場所まで失った。
莉々果に深く話すことはできない、とも感じている。真琴がどう動くのか、今の紗希には予測すらできないからだ。
では、昇吾に話す? いったい何を話せばいいのだろう。
いっそ篤に事の次第を確かめるべきだろうか。いいや、もっと恐ろしい事態に追い込まれてしまうかもしれない。
とにかく頭の中がいっぱいで、どうしようもならなかった。
すると、仕事用のスマートフォンが紗希を責めたてるように短く振動する。
「牧本さんから電話?」
今日は紗希に出社の予定はない。
上司である彼が、勤務時間外に連絡をしてきたことに驚いて、紗希は思わず電話に出た。
「もしも── ……」
『あぁ、よかった。電話に出てくれたなら話が早い』
颯爽とした口ぶりで言うのは、聞き覚えのない男性の声だった。
紗希は驚いて尋ね返す。
「牧本さんの番号のはずですが、どなたでしょうか?」
『蘇我さん、取締役執行役員の三神剛志です。はじめまして、が適切な間柄ですが、こうした状況での挨拶となったことは、私としても遺憾に思っています』
思わず紗希は息を飲んだ。
三神剛志は、グリーン・リアリティ社の日本支部の取締役執行役員だ。紗希の立場からすれば、雲の上の様な上層部の人間ということになる。
『蘇我さん、我々の会社が掲げる理念を、あなたも十分に理解しているはずです。『自然と調和した信頼』が我々のブランドの核だと。だが、あなたの最近の行動は、その信頼を根底から揺るがすものです。白川篤氏のような影響力を持つ方との接触は、慎重に行うべきだった』
何を言われているのか、紗希はすぐには理解できなかった。だが続く三神の言葉で、事態をようやく飲み込んだ。
『しかし、あなたは彼から連絡先を渡されるという軽率な行動を許しましたね? 社内でその事実が広まればどうなるか、想像に難くありません。我々は公私混同が許されない職場です。そして、外部からの誘惑に屈する社員など、我が社には必要ありません』
誤解です。唇のすぐ裏側まで出そうになった紗希の声は、ぴたり、と止まった。
なんと言えばいいのだろう。三神とは初めて話すが、彼は紗希が篤から連絡先を受け取ったことを知っていた。つまり、それは社内でその噂がすでに広まった可能性を示唆している。
紗希が青木昇吾と婚約を結んでいるのは、グリーン・リアリティ社の中でも公然の秘密だ。
そのことであれこれと揶揄された経験は一つや二つではない。
となれば、おそらく噂はもはやどうしようもないところまで広まっているのだろう。いったいどこから、どうやって。
ありうるとしたら、篤とそのマネージャーの二人くらいだ。だが、二人に噂を広めるメリットがあるようにも思えない。
「三神さん。私は」
何かを言おうとして、紗希はすぐさま考え直した。
自分の弁明は、篤がこれまで築き上げた地位を揺るがすものになるかもしれないと、ふと思ったからだ。
大スターとしてテレビやCMに出ない日はない篤が、過去に心の傷から自殺を試みたなんて、あっという間に週刊誌やWeb記事が特集を組むだろう。
かつて自分を、母親の死という不安から救ってくれた篤を裏切ることはできない。
黙ったままの紗希の耳に、淡々と資料を閉じる音が聞こえてくる。
『誤解の余地を残した行為でも、それが企業の信頼を傷つけるのなら、厳然たる措置が必要です。蘇我さん、あなたには即刻退職していただきます。これは、我々の未来のためです。分かりますね?』
もうこれは、確定したことなのだろう。覆すだけのカードを、紗希は持っていない。
「……分かりました」
『賢明な判断です。退職日は今月末、詳細は人事部から改めて連絡します。あとはスムーズに手続きを進めていただければ、それで結構です』
紗希は何かを言おうとした。言い訳、謝罪、動揺。すべてが綯交ぜになった吐息に、三神が答える。
『これは個人的な意見ですが、感情で判断を揺るがせるのは経営者となるなら、おすすめしません。それが責任を果たす立場というものです』
三神が電話を切った。紗希はしばらく黙ったまま、通話が途切れたスマートフォンを見つめる。
なら、どうしたらよかったの?
「退職を受け入れる……それが現時点では、最善のはずよね?」
まるで自分自身に尋ねるように紗希は言うが、返事があるはずもない。篤や昇吾の立場を守るには、これ以上の波風を立てるべきではない。
けれど内心は、静まりようのない葛藤と悔しさでいっぱいだった。
自分が引けばすべて丸く収まるはず。そう思って決めた婚約解消だったにもかかわらず、前世とほとんど変わらない状況に突き進もうとしている。
紗希は思わず、ベッドに横たわった。
これからどうすればいいのか、何も分からなかった。ぼんやりとスマートフォンの画面を眺めていると、莉々果の配信が始まったことを知らせる通知が画面の上部に表示された。
思わずタップする。見慣れた配信画面に、莉々果が映った。
明るい彼女の笑顔が画面いっぱいに映し出される。
「みんな、今日も来てくれてありがとう~! あ、そうそう! 紗希ちゃんとやってたインテリア企画なんだけど……」
コメント欄の動きが速くなった。
『もしかして新作? 楽しみ~!』
『参考にしてハロウィンやる予定!』
『今度、クリスマス企画が見たい!』
コメントの数々に、じんわりと紗希の胸は温かくなった。自分の配信を評価してくれる人たちこんなにもいる。
その事実に救われると同時、大きな無力感が襲う。
紗希は今、配信の拠点だった事務所に自由に立ち入れない。
そればかりか、仕事も失おうとしている。
「ごめんなさい」
画面を見ながら呟くと、声が大きく震えるのが分かる。気が付けば頬を涙が伝っていた。どれほど後悔しても、今の紗希には何もできない。
莉々果の笑顔に癒されつつも、たとえ死に戻ったとしても自分には何もできない無力さが、胸に重くのしかかった。
その時、不意にコメント欄に目を引くメッセージが投稿された。
『これ、本当の話?』
URLが添えられたメッセージを皮切りに、コメント欄の様子が変わっていく。
『えっ、なにこの記事?』
『紗希さんの話題じゃん』
『やばくない? 白川篤って、あの白川?』
紗希の顔から血の気が一気に引いた。