コメント欄が加速していく。
炎上待ったなし、莉々果の人気を悪用、不正な利益を得ようとした社員の告発など……。
さらに中には、白川篤と紗希の不適切な関係を匂わせる、関係者からの情報が漏れたとしか思えない根拠のない中傷まで。
すると莉々果が言う。
「んー。そーいうネット記事はあんまり好きじゃないな。ガチじゃないかもじゃん? 逆に全部嘘だったら……書いた側も、告発した側も、やばくない?」
コメント欄は、一気に沈静化していった。莉々果自身が好きで来ている視聴者ばかりだからだろう。
また、URLを貼れないように設定してくれたらしい。それでも耐えきれなくて、紗希は配信アプリを閉じる。
スマホを持つ手が震えるのを感じた。
真琴が言った通りだ。紗希は今日、これから、悪女として再び世間を騒がせることになる。堕ちていく一方、誰からも信用してもらえない日々が始まる。
それは昇吾も同じだろう。彼の立場を考えれば、誹謗中傷を受ける紗希を婚約者に据えておくことに、何の価値もないはずだ。
「どうして……」
紗希の呟きは空気に溶けた。自分が身を引く。それで全てが丸く収まると思っていたのに。
目の前に広がる記事。そこに書かれた悪意に満ちた言葉の数々が、彼女を無力感の中へと押し込んでいく。
AI技術が発達した今、こうした記事を書くのは数分でできてしまうだろう。人の感情を揺さぶるような言葉遣いを、後から付け加えることだってできる。
ふと涙がまた溢れそうになるが、紗希は頭を横に振った。泣いているだけでは、何も変わらない。それは、死んで学んだことだった。
「考えて、考えるの……まず、一番悪いことはなに? 昇吾さんに迷惑がかかること、そうでしょう」
昇吾と過ごした、軽井沢での日々が脳裏をよぎる。
静枝から認めてもらえた嬉しさ。彼に自分を信じるよう言ってもらえた喜び。そしてもう一度、最初から向き合いたいと言われたこと。
二人で見たホタルに、近づく唇。
自分だけを見つめてくれた昇吾の隣で、紗希は初めて自分が安心して笑っていられたかを思い出した。
そんな彼との思い出があれば、全てを捨てられると思えた。揺れる感情を抑えるように深呼吸し、静かに決意を固めていく。
これから先。昇吾と二度と会わないだけの人生が続くだけ。たったそれだけよ。
「改めて、私の方から、婚約解消を申し込む。それしかない……」
言葉にすると、心の奥底から深い寂しさと後悔がはじけそうになる。しかし紗希は感情を強く押さえつけた。
せめてあのキスに応えていればよかった。
紗希は自分の選択に改めて後悔する。あの時も、そして今も。どうして私は、こんなにも弱いのだろう?
三年という時間で、十分に成長できなかったことを、ただ悔やむしかない。
「せめて次は、川原以外で死にたいわね……」
どこがよいだろう。軽井沢はありきたりだし、事件の臭いが強くなりすぎる。せめて長野県内にしようか。
考えていると、スマートフォンが震えた。画面には『青木昇吾』の名前が表示されている。
紗希は驚きのあまり涙も止まり、自分が時が完全に停止した空間に放り込まれたような浮遊感を覚えた。手を伸ばし、画面の通話ボタンをタップする。
昇吾の穏やかで落ち着いた声が耳に届いた。
『紗希さん、今……大丈夫か?』
大丈夫の意味を考える暇もなかった。紗希はひたすら声が震えないように気を付け、必死に涙をこらえて言う。
「昇吾さん、その……ごめんなさい」
いざ口にしようとすると、激しい恐怖が襲ってくる。五月に自分が『婚約解消』を素直に望めたことが、改めて恐ろしくなった。
昇吾との別れを目の前にすると、さまざまな考えが堂々めぐりを繰り返して、散り散りになって消えていく。
胸の鼓動が電話越しに昇吾に聞こえている気さえしてきた。
「私は、ネットの記事について、何も言えません。私、昇吾さんに……青木家に迷惑をかけるなんて、本当に申し訳ないです」
『紗希さん、ちょっと待って』
「やっぱり兼ねてから保留いただいていた婚約解消を、受け入れてくださいませんか。私には、やはり無理なんです……私には、悪女なんかには……」
昇吾の声が紗希の言葉を無理やり止めた。
『それは違う、絶対に』
何を言われているのか、紗希は分からなかった。自分が追い詰められたあまり、都合よく言葉を解釈している可能性さえ思ってしまう。
『ネット記事を見たのは事実だ。白川篤のこと、会社のこと、いずれも驚いたのは本当だ。だが俺にとってはそれら以上に確かめたいことがある、だから電話をしたんだ』
「確かめたい?」
『君はどうしたいのか、だ』
「どうしたい、って、それは婚約解消を……」
絞り出すように話しながらも、紗希の心の奥では違う声が叫んでいた。
(助けて……誰か、助けて……どうしたらいいの?……どうしたら私は、周りを幸せにできるの?)
昇吾には、紗希の心の言葉が直に伝わっていた。紗希はそうとは知らない。だからこそ聞こえてくる鮮明で切実な声が、昇吾の心を動かした。
『紗希さん。誰でもいいのなら、俺でも構わないか?』
「え……?」
『君が俺をどれほど愛しているのか。そして、何より……この先の未来をどれほど考えて別れを選ぼうとしているのか。俺にはよくわかる』
紗希は驚きで言葉を失った。
舞台俳優のような抑揚をつけた声ではなく、淡々として、そして柔らかくてあたたかな声だった。
ただの思いやりではないと、紗希には分かった。まるで、彼が本当に自分の心の中を覗いているかのようだ。
『だから言わせてほしい。改めて伝えさせてくれ。俺は君自身と向かい合いたいんだ』
それは軽井沢で、昇吾が伝えてくれた言葉だった。
しかし紗希は社会的な圧力を考えざるを得ない。昇吾の立場に自分が与える影響が、ひたすらに恐ろしかった。
「昇吾さん。私には、とんでもない問題がいくつもあります。冷静に考えてくださいませんか?」
よい夢はもう十分に見たと思えた。真琴と昇吾が共に過ごす未来の方が、この世界はずっと望ましいのだ。
(シナリオ通りにいけばいいじゃない……そうなることを、世界も望んでいるのよ……)
紗希がここで退場すれば、実家も和香も、そして莉々果だって安心して暮らせるようになる。めでたしめでたし、だ。
何もかも投げやりになり、諦めそうな気持ちでいっぱいだった。
そんな紗希に、昇吾は粘り強く声をかけてくる。
『冷静に考えたよ、紗希さん。確かに篤との記事には驚いた、決して青木家へのダメージはゼロではないだろう。だが、俺にはいくつかの疑問点もある。どうして篤はそんなことをした? 彼がもし、君のことを本当に好きだとしたら、何故会社で渡すような真似をしたんだ?』
「それは、分かりません……」
『分からないだろう? 分からないなら終わりでいいのか。ここで君は引き下がるのか?』
「引き下がりたくなんてありません! 本当は、ほんとうは、全部、全部解決したい! そしてすべてに納得して……」
思わず紗希は心の中で続きを叫んだ。
(納得して、昇吾さんにキスしてほしい……!)
あと一歩だ。昇吾は思わずスマートフォンの向こう側で、手に汗を握った。
『なら宣戦布告に来た相手を、正式に迎え撃つことにしよう』
「……どうしてそれを?」
真琴のことを、昇吾に話した記憶はない。驚きに紗希は目を見張る。
『詳しいことは直接会って話したい。今はどこにいる。迎えをやるから』
優しい声に紗希は反射的にホテルの名前を脳内で思い描いた。
『あぁ、なるほど、そこか。蘇我家の系列ではないホテルだね』
「……昇吾さん。私の頭の中が読めるんですか?」
思わず昇吾は笑ってしまった。その通りだからだ。
今まで明かさずにいようと思ったが、真琴が打って出て来たからには、昇吾も迎え撃つ覚悟があった。
それは、紗希の問題を自分の問題として抱える覚悟。紗希が一人で抱え込まずに、共に問題に向かい合うパートナーとして、昇吾が心を読まずとも、話してくれる間になりたいと、心から望む覚悟だ。
『そのことも詳しく話すために、君には俺の家で住んでほしいんだ。どうだろうか?』
「……え、それって、ど、同棲ってことですか?」
『ああ。確かに一般的にはそういう言い方になるな』
思わず立ち上がって叫ぶ紗希の心の中で、少しだけ不安が溶けていくのが分かる。
昇吾はもう一度改めて伝えた。
『君ともっとわかりあいたい。紗希。君の強さがあれば、きっと問題を乗り越えられる』
昇吾の言葉が、紗希の心の奥底に響く。
彼の優しい声に包まれながら、紗希は自分の頬を流れ落ちる涙を認めることにした。
それは、悲しみだけではない。安堵と希望、そして未来への期待を込めて流れている。
今の昇吾を信じてみよう。紗希はようやく、そう心から思えた。