ホテルまで迎えに来た宮本均の運転で到着したのは、都心から離れた郊外のマンションだった。華美なエントランスはないが、二十四時間体制の管理人やコンシェルジュがいるあたり、高級マンションなのだろう。
内装はシックにまとめられている。その内装さえも自身の背景に活かすような、クラシカルなスーツに身を包んだ昇吾が、マンションの入り口で待ち構えていた。
車から降りる紗希を優しくエスコートし、昇吾は小さく微笑んだ。
「すまないね。以前購入したレジデンスは蘇我家の系列だったから、一応避けることにしたんだ」
「あの……昇吾さん、改めて考えたのですけど」
均の運転で移動する間、紗希はあれこれ考え続けていた。どの考えも決して形としてまとまることはなく、はっきりとした意見にはならない。
ただ、確かなのは、昇吾が紗希の気持ちを優先し、魔法のような力で紗希の考えを読み取ってくることだけだ。
それから真琴のことも。
昇吾は彼女と何も話していないのだろうか。紗希の意見だけを聞いているようにしか思えない。
真琴と話していたのなら、昇吾が紗希の考えに耳を傾けるとは、到底思えなかった。
「真琴さんとは話をなさったんですか?」
「そういった詳しい話は中にしよう。いくつか共有したい話題があるんだ」
そう言われてしまっては、紗希も頷くしかない。均と昇吾に続いてマンションに入る。高層階の角部屋で、外には緑豊かな景色が見える。
言われるがままに来てしまったが、本当にここで暮らすのだろうか。
しかも昇吾と一緒に?
紗希はどうも信じきれず、昇吾を振り返った。
「昇吾さん。同棲のことなんですが、本気で考えているんですか?」
「嘘を言ったつもりはない。君の安全を第一に考えたんだ。だが、まず君には休息が必要だよ。朝になってから、話をしよう」
均が静かに部屋を後にする。紗希は昇吾と二人きりになることが、恐ろしいような、驚くような、どちらともつかない思いでただその場に立ち尽くしていた。
「ここは寝室を含めると五部屋がつながっているんだ。俺は君の隣の寝室にいるから、何かあったら壁を叩くだけですぐ駆けつけられる。ほら、この部屋だ」
ドアの向こうには、シンプルで落ち着いたブラウンを基調とした家具が並んでいる。マンションに備え付けのものだろうか。
昇吾に勧められるままに、紗希はベッドへ腰かけた。
途端に、体中に寒気が走る。頭痛やめまいもこみあげてきて、紗希は自分がひどく疲れていることを自覚した。
(当然よね、今日はキャリーケースを引っ張って、一日中歩いていたようなものだから……)
もしかしたら熱中症の可能性もあるかもしれない。フラフラとベッドに倒れこむ紗希のそばに、昇吾が手際よくミネラルウォーターと氷嚢を持ってくる。
首筋に当てられた氷嚢が、とても心地よかった。
ホッとして、思わず目を閉じてしまう。
昇吾は少しだけためらった後、口を開いた。
「紗希、今は何も考えないでくれ。ゆっくり休んで、頭をすっきりさせてほしい」
うとうとと一瞬意識が飛びかけた紗希だが、目を開いた瞬間。昇吾の顔を見上げる形になり、一気に意識が覚醒した。
「ゆっくり? そんな、休んでいられると思う? ……」
頭の中に、一気に今日の出来事がよみがえる。
とたんに紗希の頬に涙が伝わった。
今日まで胸の中に抱えてきた死に戻りのこと、母の死についての二つの疑念。そして篤からの突然の告白に、極めつけは、今朝からの怒涛の出来事、荒らされた部屋。
すべてが涙に乗って、ボロボロとこみあげてきてしまう。
昇吾の前なのだからしゃんとしないとと思っても、彼の手や冷たいミネラルウォーターに感情が引きずり出される。
昇吾はそんな紗希の隣で手を握り、ただひたすらに黙ってそばにいた。
やがて紗希がすべての想いを吐き出して、眠りにつくまでの間、ずっと。
彼女が落ち着きを取り戻すまでに何分かかったかなど、昇吾は少しも考えなかった。
紗希の呼吸が落ち着き、美しい目からぽろりと薄紫色の破片が落ちる。カラーコンタクトレンズだ。それほど激しく、紗希が泣いていたのだと分かる。
昇吾は眠っている彼女をベッドに横たえ、静かに部屋を出た。
リビングのソファへ腰かけた昇吾は、ゆっくりと天井を見つめる。
真琴の行動は均を通じて筒抜けになっていた。
ここのところ、蘇我明音に接触を繰り返し、紗希の周囲に『絡繰』を使って圧力をかけていたようだ。
紗希が勤めていた会社については、以前からの業績悪化を逆手に取り、宮本家からの支援をちらつかせたこともわかっている。
真琴であっても、宮本家からの支援を自在に引き出すことはできない。
だが紗希の存在をちらつかせ、総一郎に支援を出すよう頷かせたのだろう。
そして蘇我家での紗希の部屋への強盗。あれは和香の手引きだ。
彼女が宮本家から蘇我家のスキャンダルを隠すために、華崎家へ真琴を受け入れたことはわかっている。
おそらくは、真琴から義母としての責任感を煽られて、真琴がやった人間を引き入れたのだろう。紗希の部屋は完膚なきまでに荒らされていたが、数日のうちに蘇我不動産の関連する内装業者の手で綺麗になるはずだ。
警察への通話については、和香が受け、単なる勘違いで何の問題もない、と警察を返している。警察側も実態が分からなければ、蘇我家に強制的に立ち入ることはできないだろう。
唯一、分からないのが、篤の行動だ。
紗希を想っているのなら、なぜ彼女の社会的な立場を貶めるような行動をしたのか。
昇吾にはいまだに分からない。あれほど深く愛している様子だったくせに。
考え事を一度やめて、昇吾は耳をそばだてる。紗希の心の声は、響いてこない。
「……よし」
紗希がすっかり眠っていることを確かめてから、昇吾は電話を手にした。
彼女のことをひどく心配している人物へ、連絡を取るためだ。
「もしもし、莉々果さんか?」
電話の向こうから押し殺した声が聞こえる。先ほどまで泣いていたのだろう。昇吾は穏やかに、紗希の言葉を伝えるのだった。