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第5話 元悪女、同棲する(2)


 翌朝。紗希は目を覚まし、少しだけ気分がよくなっていることを自覚する。

 そしてベッドから起きたとき、昨日のままの服や下着であったことに、紗希はむしろホッとした。昇吾が人をやって着替えさせる可能性を考えていたからだ。


それか、何なら彼自身が着替えさせていたかもしれない。


(コンタクト……今日はやめておきましょう)


 手を洗いたいと思ったが、水回りの場所さえろくに分からないのだ。

 キャリーケースを引っ張り、とりあえず着替える。数日分の衣服を入れておいてよかった、そうでなかったら昇吾により一層迷惑をかけていただろう。


 寝室の外に出ると、急遽契約したとは思えないほど豪勢なマンションであると、よくよく分かった。


 背の高い天井が続く廊下を通り、リビングへ向かうと、最新の設備が整ったアイランドキッチンが見える。キッチンにはカウンター席が併設されており、バーのようでもあった。

 インテリアも同じメーカーのものや、アンティーク品が、品よく配置されている。もっとじっくり眺めたい欲求から逃れて、紗希は人の気配がする方へと歩いていく。


 キッチンには、簡素な白いTシャツにジーンズ姿の昇吾が立っていた。


「昇吾さん、料理をなさるの?」


 おはようの挨拶を前に、思わずそう言ってしまったことを後悔しながら、紗希は慌てて付け加えた。


「おはよう、ございます」


「ああ、おはよう。紗希さん、安心してほしい。電子レンジを使うだけだ」


 思わせぶりに微笑んだ昇吾が、冷蔵庫から黒いタッパーを複数取り出す。電子レンジに入れると、ワット数を合わせてスイッチを押した。


「さてと、座って。そこのソファの方がいいかい?」


「いえ、ええと。このカウンターがいいわ。座ったら、その、眠ってしまいそうで」


「分かった」


 紗希がカウンター席に着くと、すぐさま昇吾がポットに手を伸ばす。

 華やかな香りの緑茶が用意されていた。マグカップではなく、ありふれた赤色の茶碗だが、おそらく高級品であろうことが伺える。


 それよりも、紗希は緑茶のパッケージに心を奪われていた。


「……これ」


 紗希が持つ滑らかで美しいオニキスのような黒い瞳に、緑茶が注がれた茶碗が揺れていた。

 満足そうに昇吾は微笑む。


「紗希さんの事務所にあったものだ。礼司に聞いて買っておいた」


 彼の気遣いに、紗希が思わず頬を赤らめる。銘柄もなにも、スーパーで特売で売っている商品だ。誰かに買いにやらせたのだろうか。


 暖かな緑茶に口をつけると、頭の奥がすっきりとしていくのが分かる。


 続いて、昇吾が電子レンジからタッパーを取り出した。あまり食欲はない、と言おうとした紗希だが、置かれた品に思わず目を奪われる。


「お饅頭?」


 ふかふかとした白い皮の、薄皮まんじゅう。昇吾がにっこりとほほ笑んだ。


「よし、温度はちょうどよさそうだ」


「ええと、これは?」


「試しに買ってみたんだ。朝ごはんがそれほど胃に入るわけじゃないだろう?」


「ええ、まあ」


 口にすると、餡子の甘みが心地よい。決して高価な和菓子ではないからこそ、紗希の心がホッと落ち着く気がした。


 紗希が饅頭と茶を一杯飲みほしたところで、昇吾が口を開く。


「今日はひとまず、君に確かめてほしい荷物がある」


「荷物?」


「紗希さんの職場のものだからね」


 目を見張る紗希は、昇吾に伴われてリビングの奥に向かった。

 そして、驚きに声をあげる。


「こ、これ、私の事務所にあったパソコン……!? どうしてここに!」


「私が持ち込んだの、紗希ちゃん」


 声が響く。玄関の方から現れたのは、莉々果だった。泣きはらした真っ赤な目が、紗希をじっと見つめている。

 息を詰まらせた彼女は走り出し、紗希にギュッと抱き着いた。


「紗希ちゃん、ごめんね。ごめん……」


 抱き着いたまま泣き出す莉々果に、紗希は呆然としていた。しかし彼女の温かさが全身に広がるうちに、やっとこれが現実だと分かり始めていた。


 涙を頬へ伝わらせながら、莉々果が説明する。


「昇吾さんが教えてくれたの。紗希に電話をして、ここに連れて来たって。安心して、紗希ちゃん。あの変なネット記事、ぜんぜん出回っていないから! 一時的なものだった。白川篤の新ドラマの番宣が決まったせいよ。テレビ局側が大いに嫌がったの! 奴ら、こういうときは大いに活躍するんだから」


 笑う莉々果は、紗希の顔をじっと見つめた。


「よかった。紗希。ビルでのこと、後でいろんな人に聞いたのよ。あなたがどうにかなっちゃうかと思った」


「莉々果、そんな、私は……」


「大丈夫だなんて言わないで! あんな横暴な言い方で退去を求められて、華崎真琴には宣戦布告だの言われて! おまけに会社を突然解雇でしょう!?」


 ひどいじゃない。

 憤慨する莉々果に、紗希は少しずつ自分の口角が上がるのが分かった。何故か笑いたくなってしまったのだ。


「どうしよう、私、今、すっごく笑ってみたい気持ちになっているの」


「いいのよ。感情が何にも出なくてぼんやりしているかもと、心配だったの」


「そんなことないわ! だって、昇吾さんと……」


 一緒に住むことになった。


 改めてそう考えて、紗希は思わず顔を赤くする。莉々果は肩を小さくすくめると、昇吾の方を振り返った。


「言っておくけど、紗希ちゃんが嫌がるようなこと、ちょっとでもしたら許さないからね!」


 莉々果が叫ぶと、昇吾は素直に頷いた。


「ああ。ちゃんと話し合って決めておくよ」


「よろしい! 紗希ちゃんも、ちゃんと話し合って、ね?」


 紗希も思わず、頷いてしまう。大人しく頷いておかないと、莉々果が最後まで一歩も譲らずに自分を説得してくることは明白だった。

 だが、何事も問題なく過ごすには、話し合いが一番だろう。


 たとえばいつ起きるのかとか、ご飯はどうするのかとか、生活リズムだとか。


 単に問題が増えただけではないだろうか。紗希は一瞬、いぶかしんだ。

 でも自分が抱える問題について悩むことに比べれば、ずっとずっと優しく思える。


「さてと。それじゃあ、もう少し、具体的な話をしよう……。主に、紗希さんの、目下の、ありとあらゆる問題について」


 昇吾が言う。紗希は神妙に頷いて、ソファへと腰かけ直したのだった。



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