紗希は自分が最も気にしている問題を口にした。
「勤め先で対応していたオーナー様への謝罪や引継ぎは、どうしたものかしら」
取締役執行役員の三神に告げられた退職日は今月末、詳細は人事部から改めて連絡という内容をそのまま二人に説明する。あとはスムーズに手続きを進めていただければ、それで結構だと言われたことも。
昇吾は軽く眉間を揉んだ。
「それはまた、厳しい言葉だな……。一か月という猶予をもらってはいるが、実質、職場に出てくるなと言われたも同然だ」
「今週末にも対応予定のお客様がいらしたのに」
紗希は顧客のことを一番心配していた。決して大きな仕事を請け負っていたわけではないが、引き受けた仕事への責務は果たしたい。
紗希の関わるホームステージングとは、家具や装飾品の配置を通じ、物件の魅力を引き出すこと。
目的はずばり、物件を高く、早く売るためだ。
家を売却する前に行うことが多いため、依頼を受けたら現地に向かいその時点でどのように家具や装飾品を配置すべきかを決定する。
もちろん、オーナーの意思を確かめるのも欠かせない。
紗希は実家の蘇我不動産で手掛けた物件や、幼いころに巡った世界各地の知識を生かし、高級感と華やかな印象を合わせたインテリア配置を得意としてきた。その腕を買ってくれている顧客もいる。
紗希が顔を俯かせていると、昇吾が言った。
「会社側とのやり取りは、俺も手伝うよ。円滑に離職を進めよう。離職代行のサービスを使うのもいいかもしれない」
「ありがとう、昇吾さん。仕事でいえば、ビルのことも気になっていて」
莉々果がため息をついた。
「正直、解約一択かな。須藤さん、あんな人じゃなかったんだけど……」
どう思う、と言いたげに自分を見てくる彼女に、紗希は迷わず頷く。
「ええ。もちろん、解約する予定よ。違約金がなければいいけど」
「あのビルじゃなきゃいけない理由もないしね。配信仲間から、ビルオーナーさんの紹介をしてもらえるか聞いておく。ただ、配信用のチャンネルでは一度、事務所の位置を変える事情で投稿ストップっていう話を伝えておいた方がいいかも」
彼女の言う通りだ、と紗希は胸元を抑えた。
莉々果のチャンネルをフォローしている人だけでなく、紗希のチャンネルを目的にフォローしている人も少なからずいる。彼ら、彼女らまでも裏切りたくない。
「だけど、あえて何も言わず休んでもいいと思うな」
「えっ?」
思いがけない発言に、紗希は莉々果を見つめた。莉々果は真っすぐな視線を放つ。
「紗希ちゃんは、やり方の一つとして配信者を選んだんじゃない? 私とのコラボもそうだけど、何か目的があって、他の手段で達成しても問題ないと思う」
一瞬だけ莉々果は紗希から視線を離し、昇吾の方を見た。
昇吾と別れて独り立ちをする計画を知っていたのは、莉々果だけだ。そのことをちゃんと考えて発言してくれたのだと思うと、紗希は目の前の友達を強く抱きしめたくなった。
「大丈夫、莉々果。私、せっかくチャンネルを見ていてくれた方たちに、申し訳ないことはしたくないの」
「なら、応援する」
にっ、と歯を見せて笑った莉々果だが、すぐに眉根を寄せた。
「でもあのオーナーさん……なんていうか」
「俺も少し気になっていて。真琴……いえ、華崎に怯えていたと聞きましたが、莉々果さんは見ましたか?」
昇吾の言葉に莉々果は即座に大きく頷いた。
「そうなの! 解約なんて寝耳に水だから、すぐさま連絡を取ったんだけど。そしたら病院で、会えなかったのよね。受付のおねえさんの話だと、あんなオーナー、今まで見たこともないって」
「一応、オーナーの状態に心当たりがあります。紗希に違約金を請求しないかといった面も含めて、弁護士を立てるようにします」
昇吾の言葉は本当にありがたく、そして頼もしかった。どうしてこんなにも自分に良くしてくれるのだろう。
疑問を抱きながら昇吾の方を見ようとすると、莉々果がまるで生徒を注意する教師のように鋭く言い放った。
「紗希ちゃん?」
「あっ。ええと、昇吾さん。本当によろしいんですか? 弁護士なんて」
「いや、構わない。というより、君一人の問題でもない。俺自身の問題であると同時、社の問題でもあり、そして配信者が多く入居するあのビルそのものの問題にもなる」
昇吾は顧客のことを一番心配している紗希に、強く共感していた。
グリーン・リアリティと取引のある子会社や、紗希がいたビルにも広告事業で関連のある配信者が事務所を構えていることもすでに把握している。
上層部の意思決定で振り回されるのは、そうした末端の人々だ。
「……紗希は、家のことじゃなくて、真っ先に顧客やリスナーのことを考えたんだな」
「え? それは、普通じゃありませんか?」
「いいや。昨日話してくれたことを聞く限り、部屋を荒らされたんだろう? おまけに父親にはひどい仕打ちを受け、家を追い出された。そんなことがあったら、大抵は自分の不幸を嘆くんじゃないかと思ったんだ」
考えてもみなかった。紗希は目を丸くして昇吾の顔を見つめる。
「だから俺は君に協力したい。弁護士を用立てる程度、造作もない。むしろ君がどうしていきたいか、それが知りたいんだ」
真っすぐに見つめてくる昇吾の琥珀色の目に、紗希の顔が映りこむ。
いつしか紗希と名前を呼び捨てにしてくる昇吾に、紗希は急に恥ずかしさがこみ上げた。まるで彼の特別になった気持ちになる。
莉々果は二人の様子を見て、話をまとめるように言った。
「じゃあ仕事はそっちに任せるとして……紗希ちゃん。絶対に取りに戻らなくちゃならないものは、蘇我家にはないのよね?」
「え、ええ。ここ数日は本当は事務所に泊まり込むつもりでいたの。それに仕事関係のものは、全て置いてあるし。あるとしたら、母との思い出の品と……そうだ!」
唐突に、紗希は立ち上がる。彼女の顔から血の気が引き、さーっ、と青褪めていった。
紗希は昇吾の方を向くと、意を決した様子でスマートフォンを操作し、黒い衣服を着た男たちが、部屋の物品を壊す様子を見せた。
動画の途中。真珠のイヤリングがばらばらに壊される様子が映りだす。
昇吾にはすぐに分かった。自分が紗希の心を読めるようになり、彼女から情報を聞き出そうと買ったあのイヤリングだと。
「イヤリングのこと、守れなくてごめんなさい。でも、変だと思うの。強盗なら部屋を荒らしたり、壊したりせずに、静かに盗むものじゃないかしら」
「君がこの場にいなくてよかった。イヤリングは気にしないでくれ。それより、確かに強盗なら妙だ」
「そうなの。これほどの騒ぎなのに、父は、私と篤さんのことばかり。家の執事、和香さんは、私が警察に電話したのに何もなかったと説明したの」
紗希は説明の途中で、自分が昇吾に対し真琴の話をするのを避けていたのだと、急に自覚した。
口の中がカラカラに乾き、何を言っていいのか分からなくなる。ふらっ、と視界がぐらついて、思わずその場に崩れ落ちるようにソファへ座り込んだ。
「あの、私は、あのビルで、わたし」
(真琴さんに言われたこと、篤お兄さんとのこと、私、なにもかも、昇吾さんに自分の口で話せていない……)
震える紗希の手を、昇吾がぎゅっと包み込むように両手で握りしめた。