怯えるように震える紗希に、昇吾は優しく微笑んだ。
「紗希。大丈夫だ。俺は君の強さを信じている」
その言葉が紗希の中で、暖かな蝋燭の明かりのように輝き、心に広がる暗闇を照らした。
「……ビルオーナーの須藤さんから、突然解約を迫られた時。真琴さんが現れた。そうしたら、軽井沢で新幹線から降りた瞬間や、お茶会で体の自由が利かなくなった瞬間とまったく同じ感覚がしたの。何をしたか尋ねても、彼女は答えなかった。体が動くようになったのは、彼女の姿が見えなくなってからよ」
言い切ったとき、紗希は胸を視えない手で握りしめられたような感覚に陥った。
昇吾は何と言うだろう。真琴に、やはり味方するのではないか。
すると、昇吾の手が、紗希の手をより強く握りしめる。
「怖かっただろうに、話してくれてありがとう」
微笑む昇吾に、紗希は目を見張る。
前世では一度もないことだった。真琴の話より、紗希の言葉を信じるだなんて。
しかし紗希は慌てて、自分の考えを改める。前世と今の昇吾を比べることはできない。もう未来は、変わりだしている。
莉々果の方をちらりと見た昇吾に、彼女は立ち上がった。
「じゃあ、大まかに話は決まったし。紗希ちゃん。蘇我家にも会社にも出る必要がないのなら、絶対にここにいて」
「でも」
「でも、じゃないの! 私、ビルに戻ったとき、受付の人に教えてもらったのよ。華崎真琴が車から様子をみてたんだって!」
真琴に正面から啖呵を切られた瞬間を思い出し、紗希は足先まで自分の体が凍り付くのを感じていた。
「狙いは紗希ちゃんだよ、きっと。だから、ここにいるべき、約束!」
莉々果の言葉を肯定するように、昇吾が頷く。
「華崎は会社を退職している。理由は休養が必要だという医師の診断だ。だが、この診断を出したという医師も、どうも内情が怪しい。おまけに引継ぎの過程で、華崎がかかわっていたとは思えない仕事の情報までも、彼女のパソコンに残されていた。ここまでの横暴をうちの社員も俺もが許せていたのは、重大な問題だ」
「ほら! 自由に動けるし、何か企んでるじゃない!」
思わず頷いた紗希に満足した様子で、莉々果が席を立つ。
「俺が見送ってくるよ。紗希はここにいて。さっきみたいに、ふらついて転んだら大変だ」
昇吾の言葉に押しとどめられ、紗希はただソファで呆然と莉々果を見送った。
本当にここに住むんだ。そう思うと、紗希の頭の中は不思議な感覚に包まれる。
できるだけ周囲に迷惑をかけず、問題を解決できるのか。昇吾と一緒に暮らせるのか。彼の役に立てるのか、これから自分はどうすればいいのか、いろんなことが頭を巡ってしまう。
すると、昇吾が部屋に戻ってきた。
「莉々果さんはスタッフの、ひと……いや、Hiragiさんと一緒に帰ったよ」
「そうだったの。彼なら安心ね」
「知っているのか?」
「ええ。直接会ったことはないの。けど何度か電話やメールではやり取りをしている」
自然に二人の会話が途切れる。すると、くう、という音が響いた。
きょとんとした表情の昇吾に対し、紗希は顔を赤くする。
(わ、私、どうしてこんなタイミングでお腹を鳴らしてるの……!?)
「紗希、ひとまず、同居中の暮らし方を考えるためにお昼にしないか?」
昇吾に言われて時計を見た紗希は驚いた。
相当話し込んでいたらしい。時刻は十二時をとうに過ぎている。
「っ、だ、だったら。お昼は私が作ります!」
飛び跳ねるように起きた紗希は、キッチンに向かう。昇吾はそんな紗希の行動に対し、どうするか考え込むように視線をさまよわせた。
しかし、最終的に紗希の好きなようにさせようと決めたらしい。彼はカウンター前の席に移動し、紗希の様子を見守る。
「母から料理を教え込まれたんです。一人暮らしや家族ができたときに備えて」
「お母さんというのは」
「実母です。でも、日常生活では披露することも、活用することもありませんでしたから」
「だろうな。俺も似たようなものだ」
紗希は黒いタッパーの総菜の中から、豚肉とほうれん草の炒め物を選ぶ。そして主食として食パンを選び、キッチンに置かれたいくつもの調理器具の中から、フライパンと重量感のある片手鍋を取り出した。
フライパンだけを火にかけつつ、食パンの両面にバターを薄く塗り、粒入りマスタードを重ねる。そして炒め物を並べると、もう一度冷蔵庫を見た。
レタスとトマトのサラダから、トマトを拝借する。
手際よくパンの上にトマトを並べ、サンドイッチに仕上げると、アルミホイルで全体を巻いた。
フライパンへパンを置き、うえから重い片手鍋を置く。
あっという間の調理に、昇吾は目を軽く見開いた。
「驚いた」
「いえ。お惣菜のおかげです。豚肉もほうれん草も、どちらも疲労回復にはピッタリですし、相性も良いですから。すぐにメニューが頭に浮かんだんです」
数分後。カリッ、と焼きあがったホットサンドを昇吾と半分に分けて、紗希は彼の横に腰掛ける。
昇吾が尋ねた。
「いただいても?」
少し緊張しつつ、紗希は頷く。
「昇吾さんのお口にあうといいんですけど……」
そう言いながら、自分がまず食べるべきだと思い、ホットサンドにかぶりつく。豚の油の甘みにトマトの酸味、ほうれん草が持つ豊かな香りが混ざり合い、空腹の喉を唸らせる。
この味ならケチャップもよかったかもしれない。いや、昇吾には量が少なかっただろうか。
考えていると、
「うまい」
と、短い言葉が隣から聞こえた。でも、紗希には飾らないその一言が、とても嬉しかった。
「基本的には料理は通いのハウスキーパーに頼んでいるんだが、俺もそろそろ料理はある程度できるようになりたかったんだ。もしよかったら、交代で作るのはどうだ?」
「っ、もちろんです」
昇吾の方をパッと向いた紗希に、何か気づいたように彼が微笑んだ。
「紗希、ついてる」
刹那。紗希の頬に、何か柔らかいものが当たっていた。
(……えっ)
何が起きたのか。理解するより早く、紗希の鼻腔を心地よい香りが包む。
かぶりついたホットサンドを見れば、トマトの水分がソース状になって広がっていた。
おそらく、食べた瞬間に、切り口か何かが頬に当たり、ついたのだろう。
理由はともかく彼に頬へキスをされた、と理解するころには、紗希の顔面は恐ろしく真っ赤になっていた。
「唇はダメ、なんだろう」
そう言ってこちらを見る昇吾に、紗希は何も言えずに頷くしかなかったのだった。