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第6話 元悪女は、打ち明ける(1)


 昼食の後、紗希は昇吾とリビングのソファで決め事をした。


 食事は二人で交互に作ること。

 弁護士や蘇我家とのやり取りをするときは、必ず昇吾に相談すること。

 掃除洗濯については、お互いに自分の分の衣服を扱うこと。


 それから。キスは、事前に相手の許可を取ること。


 ちゃんと書面に書き起こしたのは、紗希がそうしたかったからだ。


「あの。今まで来ていただいていたハウスキーパーの方には私からも説明しましょうか?」


 急に仕事が一つなくなるなんて、相手にとって痛手ではないだろうか。

 心配しながら紗希が尋ねると、昇吾が小さく微笑んだ。


「問題ない。実は母から信頼のおけるハウスキーパ-を紹介してほしいと言われて、そちらを紹介したんだ。あんなことがあった後だ。紗希には無理してほしくない」


 真剣に言う昇吾に、紗希は目を伏せる。


「静枝様が、気を利かせてくださったんですね」


「そうなるな。……お義母さんと呼んでも、母はきっと気にしないと思うけど?」


 あいまいに微笑むだけで、紗希は答えなかった。心のうちでまだ燻ぶる不安が、口を重くする。


(前世のことは、昇吾さんにはまだ、打ち明けられない……)


 そんな紗希の表情を見て、昇吾は胸のうちに秘めるつもりだった話を切り出すことにした。


 信頼してほしい。彼はそう願っていた。


「すまない。莉々果さんには流石に言えなかったんだが……母が助け船を出してくれたのは、真琴の退職の裏に、宮本家の尽力が潜んでいると考えられるからだ」


 思いがけない名前で、紗希は慌てて前世の記憶をさらう。


(宮本家? 確か、今年の十一月ごろに、明音と宮本家のご長男の婚約話が出始めて、そこから蘇我家と宮本家のつながりが強くなったのよね。おかげで蘇我家は今期の赤字を免れて、私も贅沢ができるようになったって喜んで、ますますお金を使い込んでしまったはず)


 落ち込む様な内容を思い出し、思わず内心で肩を落とした。


 すると昇吾がかすかに腰を浮かせ、前のめりに紗希の顔を覗き込む。


「それから。実は、真琴とは顔を合わせて話し合った。突然の離職だ。俺との関係がそうさせたのか、と尋ねたところ『紗希さんとの関係を壊そうとして悪かった』『私も新しい自分に生まれ変わろうと思う』と言ってきた」


「新しい、自分?」


 自分と重なる部分がある。紗希は、ドキン、と心臓が強く跳ねるのを感じていた。


(ばかげていると思って考えないようにしていたけど……まさか真琴さんも、私と同じように前世から死に戻りをしている可能性はないかしら?)


 ありうる、と紗希は思った。


 真琴の真の目的はまだ分からない。だが、紗希の成功を邪魔しようとしているのは確かだ。


「これも話すべきだな……真琴の退職のタイミングで、蘇我家は俺に対して、婚約解消の話を持ち出している」


 昇吾は真剣なまなざしで、紗希を見つめてそう言った。


 婚約解消。


 その言葉に、紗希は胸の内側が引き絞られるような感覚に襲われた。


 婚約解消を望んだのは紗希自身だ。そうすべきだ、そうなれば自分は平穏に暮らせる。

 何より、昇吾は真琴と幸せになれる。

昇吾だけではない。紗希の周囲だって、振り回されずに済む。蘇我家も没落することはない。


 だからこそ願い出た、婚約解消。


「だが、紗希の気持ちが分からなかったから断らせてもらった」


 はっきりと昇吾が言うと、紗希の傍へ座りなおす。


 彼はゆっくりと背中から肩へ腕を回すと、紗希の体を包むように肩を抱き寄せた。


 広い胸板から伝わるぬくもりが、紗希の心にしみこんでいく。


 紗希は顔をあげた。大きく見開かれた射干玉色の目から、ぽろり、と涙が零れ落ちていった。


 涙が頬を零れ落ちる感触が肌を伝わり、やっと紗希は何を言われたのか理解する。


「どうして、昇吾さん」


 昇吾が優しい言葉をかけ、態度で自分への気遣いを示すたびに、紗希の胸の中に焦りが込みあがる。


──どう返事したら、未来は優しいものになるんだろう?


 自分の行動一つで変わってしまう運命があると、紗希はこの三年で思い知った。


 たとえば昇吾の弟やその部下たち。紗希が無理な金遣いをしなかったことで、義母の明日香とはわずかではあるが関係を改善する兆しが見えた。


 それから静枝。前世ではまともに顔を見てさえくれなかった相手に、助け舟を出してもらえるほど、昇吾の婚約者として認めてもらえた。


 だからこそ、尋ねてしまうし、ためらってしまう。


 昇吾の優しさに身をゆだねた瞬間。すべてが消え去り、冷たい川原で命を散らしたあの時に逆戻りしてしまう気がしてならなかった。


「紗希、俺は君との婚約を止めるつもりはない。保留と返事をしていたが、ここであらためて言わせてくれ。君はこれからも、俺の婚約者であり、そして……いつか、君と夫婦になりたい」


 力強く宣言しながら、昇吾は紗希の背をさする。


 そして指先で彼女の長い髪をかき分けて、やがて頬を手の甲で撫でた。


「紗希。君のことを、君の言葉で、もっと知りたいんだ」


「昇吾さん……?」


「前にも伝えただろう。今の俺を見てくれ。今の自分自身を信じてやってくれ」


 ためらいと恐怖が紗希の胸の中で渦巻く。追い詰められ、胸のうちが苦しくて、声が出せない。


「紗希。今の君と、俺は未来を歩いていきたい」


 昇吾の琥珀色の瞳に、紗希の顔が映りこむ。視線が重なり合った瞬間。


 紗希の中で過る想いがあった。


 愛しているからこそ怖い。自分の振る舞いで昇吾を失ってしまう未来を迎えることが、怖い。


 前世の知識が通用しなくなった今。彼と過ごすこの優しい時間が、消え去ってしまうことが、怖くてたまらなかった。



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