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第7話 元悪女は、一つ進む(1)


 一週間後の、午後八時過ぎ。YouTubeの生放送画面をチェックしながら、紗希は深呼吸する。


 莉々果と昇吾に手伝ってもらい紗希が用意したのは、状況説明のための生配信だ。


 黒いスーツを着た紗希は、顔を出しての放送を行うと決めている。


 顔出しはリスクを伴う行為だ。


紗希がどこの誰なのかネット上で書き立てられてしまうし、新たな中傷を受ける可能性もあるだろう。


 それでも誠実さと覚悟を伝え、白川側や蘇我家に対し、紗希が逃げないという意思を示したかった。


『皆さん、こんばんは! チャンネルオーナーの紗希です。今日は莉々果も一緒に、最近の出来事について説明したいともいます』


 紗希はこれまで配信はサポーターとしての立ち位置が強く、莉々果がいるからこそついている視聴者が少なくない。


 だからこそチャンネル運営者として矢面に立つのが効果的だと、そう考えていた。


『まずは、配信を楽しみにしていた人。本当にごめんなさい。それから、皆さんが気になっているのは、ネット記事のことだと思います』


 紗希は正直に、今の段階では何も分かっていないこと。

 新たに分かった情報があったとしても、内容が内容だけに伝えられない可能性。


 そのどちらにも、コメントが寄せられていく。


 また配信が見られてうれしい。応援している。


 そんな前向きなコメントともに、やはり篤との関係性について聞きたそうなコメントもあった。紗希自身への誹謗中傷も含まれている。


 不思議と紗希の内心は穏やかだった。すぐそばに、昇吾がいるおかげかもしれない。


『状況が落ち着いたら、また自分らしくインテリアを気軽に楽しむことを伝えていきたいと考えています。どうかその日まで、お休みをください。この度は皆さまに、大変ご迷惑をおかけいたしました』


 配信が終了したことを確認し、莉々果がOKと身振りでサインを送ってくる。


 長くため息をついた紗希は、上を向いて座り込んだ。


一息入れてから、XやInstagramに寄せられるコメントをチェックしていく。


はっきりと誹謗中傷やBotだと分かるものは証拠を撮影し、応援コメントには積極的に返事を出した。


 ある程度、落ち着いたあたりで、紗希はふと手を止める。


 肩が張って痛みがあるが、ここで作業を止めるわけにはいかない。


 すると甘みのある香りが、顔の横を通り過ぎた。抹茶とミルクの香りだ。


「紗希。これ」


 抹茶オレがたっぷりと注がれたマグカップが、紗希の隣に置かれる。昇吾が優しく笑みを浮かべていた。


「昇吾さん」


「おつかれさま、よく頑張った」


 紗希の頭上に、昇吾の大きな手のひらが伸びかけて、ぴたりと止まった。


「あぁ、その。実はとても君の頭をなでて褒めたい気持ちなんだが、やってみてもいいか?」


 正直に尋ねてくる彼に、紗希の頭の中で今までの光景が映画のクライマックスシーンのように繰り広げられた。


 軽井沢に招かれた日。電話をかけてもらえた日。駅のホームで横抱きにされ、運ばれた。

 そして、キスをされそうになって。


(夢じゃないのが不思議なことばかり……)


 目の前にいる昇吾が本当に存在するのか確かめたくて、紗希は頭を差し出した。


「ど、どうぞ、昇吾さん」


 優しく伸びた大きな手が紗希の頭をなでる。男性らしさを強く感じて、紗希は急に恥ずかしくなった。


 慌てて身を引いて、頭を小さく下げる。


「恋人同士でもないのに、私ったら」


 すると昇吾がきょとんとした様子で目を見開いて、それから笑いをこらえだした。


「紗希さん。俺たちは、婚約者なんだが?」


 そういえば。紗希はあまりのことに、思わず噴き出した。


「そうでしたよね……私、本当に、恥ずかしくて……」


「そうみたいだ。でも、恋人同士ならいいとしたら、言うべきかな」


 昇吾の顔が紗希に近づいた。彼の形の良い唇が優しく開いて、紗希、と名前を呼んでくる。


「俺は君が好きだ。君のことが、好きなんだ」


 ぎゅっ、と紗希の体が強張った。


「昇吾、さん」


 言われた言葉が信じられない。篤にも告白はされたうえ、結婚まで申し込まれたが、あの時とは比べ物にならないくらいに、言葉を理解するのに時間がかかる。


 前世の記憶からずっと、昇吾のそばにいるのは彼を不幸にするのだと思っていた。


 彼と離れていけば、五年後も変わらずに生きていけるのだと思っていた。


 運命を変えるなんてできないと、心のどこかではずっと考えていたのだろう。


 でも、本当はそうじゃないのかもしれない。もっと私は自分と未来を信じてもいいのかもしれない。


 どこまでも真っすぐにこちらを見つめてくる昇吾の眼差しが、紗希の心を揺り動かした。


「私も、ずっと、昇吾さんが好きです……」


 口にしてしまった言葉に、後悔がよぎる。


「ごめんなさい。私、あなたに見合う人間じゃなくて、面倒事も問題もたくさんあって、何も解決していないのに……」


 思わず伏せそうになった紗希の顔を、昇吾の大きな手が支えた。


 同時に反対の手が、髪をすくように優しく撫でていく。


「やっと君自身の言葉で、聞けた……」


 満たされた様子で昇吾は紗希の体を強く抱きしめた。


「これから先も、一緒にいたい。そう思えたのは、君が初めてだ。婚約を解消するなんて、もう言わないでくれ」


 彼のぬくもりが、言葉が、紗希の中に入り込んでいく。


 ほろり、と、紗希の目元から涙がこぼれた。後からあとから、涙があふれてきて止まらない。


 前世で叶わなかった想いが、全てが、やっと報われた気がした。


(いいえ、ちがうわ。報われたんじゃない。私は信じることを選んだんだわ……)


 前世の紗希は、分かってもらう努力をすることなく、いつかは分かってもらえると、盲目的に信じていた。


 あの頃の自分が解けていくような思いがして、紗希はただただ、昇吾に強くしがみつく。


 そんな紗希の胸の内を分かっているかのように、昇吾もただひたすらに抱きしめ続ける。


 しばらくしてから、紗希はようやく思い出したように言った。


「頭をなでるどころでは、なくなってしまいましたね……」


「本当だな」


 くすくすと楽しそうに笑う昇吾に、紗希は恥ずかしさが増した。本心では抱きしめてもらって嬉しいのに、素直に言えない自分が悔しい。


 わかっていても、昇吾と手を伸ばせば触れ合う距離にいるからか、どうしても口がうまく動かない。


「紗希。顔をあげて。キスしたい」


 あまりにも急に進みすぎな気がする。戸惑う紗希に、昇吾はさも当然のように言う。


「キスは、事前に相手の許可を取ること。だろう?」


 自分で決めたことだった。


「……唇以外なら」


 即座に、額にキスが降ってくる。小さな触れ合いが少しずつ大きくなると、怖さも紗希の中に生まれてきた。


 雰囲気に流されかけて、このまま唇を許してしまったらどうしよう、と。


(どうしよう……前世から数えても処女だって、ちゃんと言った方がいいかしら……)


 すると。深々と昇吾がため息をつく音が聞こえてくる。軽く頭を撫でられる感覚の心地よさに、紗希は指先まで震える思いがした。


「昇吾さん?」


 こわごわと上目づかいに見つめれば、リップ音が響いた。


「キスさせて。もう少しだけ」


 彼の言葉に紗希はただ、頷くしかなかった。



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