十一月。
青木産業の新CM発表パーティーには、常よりも多くの報道陣が詰めかけていた。
豪奢な高級ホテルのホールには巨大な舞台が設置され、背後をスクリーンが覆っている。ステージの上部には青木産業のロゴが大きく示されていた。
企業のテーマカラーであるブルーを中心に、落ち着いた色味でシックにまとめられており、上品なフラワーアレンジメントで飾られていた。
「どう思う? あの、夏ごろに出た例の記事」
なじみの記者同士が噂しあう声が、会場からちらほら聞こえてくる。
「白川篤と蘇我紗希の熱愛報道みたいなやつだろ? よくあるネット上の愉快犯だと思うけどな」
興味なさげな声色に、別の声が重なった。
「だよなぁ、あれから新情報なんて出ないし。蘇我紗希は悪役令嬢みたいな感じで数年前に取沙汰されてたからな。名前使ったって可能性が否めないよなぁ」
「というか、聞いたか? 宮本家の長男と蘇我家の次女が正式に婚約したんだと」
「ああ。おかげで蘇我不動産の株価が爆上がりだ。そっちの方の取材が多いかもな」
会場内はどこか異様な熱気があった。
今回は青木産業の新CMの発表会であるとともに、同時に多くの企業のトップや名家、著名人も集うパーティーを兼ねている。
中でも注目を集めるのが、青木家と蘇我家、宮本家の渦中の人物がやってくるという情報だった。
紗希はお茶の間では少々有名なお騒がせ令嬢だ。以前は華崎真琴と青木昇吾の関係を切り裂く悪女としての立場があったが、昇吾は紗希との結婚の意思が固いらしく彼女を連れてパーティーに参加することが多い。
だが夏に紗希と白川篤の関係が一時的に報道された。ほか、彼女がYouTubeで動画配信をしていることも発覚し、いったいどのような女性なのか注目が高まりつつある。
もう一つが、巨大な金額が動く可能性のある、宮本家と蘇我家の婚約だ。不動産業界で落ち目ではあれど、多くの有能な社員を抱えるとされる蘇我家を宮本家が吸収することで、新たなサービスを開始する可能性があった。
さまざまな意思が交錯していくなかで、CM制作に携わっている青木礼司は小さく舌打ちする。
(はぁ……本気で考えてるのかよ、白川篤と紗希の関係なんて)
まだ表には出ていないが、紗希と昇吾は同棲済みだ。
事情が事情であっただけに、同棲が決まって一か月目には正式に紗希と昇吾から話をされて、礼司は大いに落胆したのを覚えている。
二人の中が良いのは喜ばしいが、紗希に淡い思いを寄せていた彼にとっては、悲劇的な知らせでもあった。
『礼司。おーい、礼司』
インカムに入った声に、ハッとして礼司は反応する。
「あ、均さん。すみません」
『紗希さんと昇吾が到着した。報道陣の動きに注意してくれ』
「了解」
彼は会場内の警備員やスタッフに連絡を入れる。主役たちが登場することを、知らせるためだ。
会場外の関係者専用の入り口には、日本ではめったにお目にかかれないような巨大なリムジンが横付けされていた。
車内にいる紗希は、一つ息をつく。
衝撃的な一日から二か月。紗希は正式に勤めていた会社から離職し、ビルオーナーとは解約金なしで和解が成立していた。
そして今日。ついに決着をつけるのが、白川篤との関係についてだった。
彼との話題は沈静化こそしているが、火種はくすぶり続けている。今日はこの火種を消し去るのが目的だった。
「この日のために特訓したんだ、大丈夫だ」
隣に座る昇吾が言うが、紗希は特訓の内容に頬を赤らめた。
「いままでエスコートは何度もしていただいてますけど、その……き、キスに慣れろ、というのは……どうかと思うのですが?」
「この二か月、特訓すると頷いたのは君だろう?」
はぁ、と思わず紗希はため息をつきそうになる。
それは二人が同棲をはじめてから一か月後のことだった。
朝食を用意する紗希は、出来に満足して頷く。
土鍋で炊き上げた雑穀ごはん。大根とわかめ、それから油揚げ入りのシンプルなみそ汁。塩気を利かせた出汁巻き卵。旬の山キノコをふんだんに使った煮物。
すべてを並べ終えたところで、足音が聞こえた。
「おはよう、紗希」
キッチンをぐるりと回って紗希の隣へ来た昇吾が、何の気なしに紗希の腰を抱き寄せた。
それだけなら、まだ紗希は照れずにいられた。
「おはようございます、昇吾さん」
にっこりとほほ笑みを返せば、昇吾からキスが額に落ちてこようとして、ぴた、と止まる。
思わず突き出した紗希の手のひらが彼の眼前にあった。
「き、キスは、教えてください……」
照れてしまった紗希が頬を赤らめて俯く。うめき声をあげたくなった昇吾だが、紗希の気持ちを汲んで尋ねた。
「キスしたい。額に」
(よ、よし……額なら大丈夫、額なら大丈夫)
「……はい、どうぞ」
照れてしまうからキスをするなら教えてほしい。
そう教えられて以降、昇吾は紗希が可愛くてたまらなかった。内心で気持ちを整理する紗希の行動も聞こえてくるため、本当は不意打ちで困らせたいと思っても、我慢する価値があるとさえ思えてくる。
だが。今後のことを考えれば、軽いキスには慣れていてほしい、という気持ちもあった。
「紗希。よかったら、特訓しないか?」
「特訓?」
「ああ。十一月に新CMの発表で、白川篤と顔を合わせることになる。彼が何をどう考えていたのかは、正直今も謎のままだ」
紗希は表情を曇らせた。篤が本当に自分を好きなのか、そして愛していて手に入れたいからこそ自分との関係を匂わせたのか、本心はいまだにわかっていない。
昇吾もかつての旧友として尋ねたものの、答えははぐらかされてしまったという。
「だからこそ、キスの特訓をしたい」
「ええと……キスと、どのような関係が?」
「たとえば。パーティーで場をわきまえたタイミングで、俺と君が軽やかにキスを交わせたら、周りはどう思う?」
昇吾の言葉に、紗希はその光景を想像した。
パーティーで昇吾とダンスをしたとする。そのさなか、彼の顔が近づいてくる。
キスをしていいか、と聞くより先に額へ口づけられる自分。
思わず顔を赤らめた紗希だが、昇吾が言わんとしている内容は理解した。
「そうですね。場をわきまえたタイミングであれば、私と昇吾さんの仲を周囲にアピールするようなものとなるのではないでしょうか?」
「ああ。だからこそ、特訓しておきたい」
思わず頷いた紗希は、以来、ドキドキしっぱなしの日々を過ごす羽目になった。
きわどい箇所ならまだしも、額や手の甲へキスをされる瞬間が、唐突に訪れる。
おまけに昇吾はまるで楽しむようにしてくるのだから、質が悪い。紗希が照れれば「可愛い」と囁いてきた。
なんて特訓だろう。
(でも、今日のパーティーが成功すれば……少しは昇吾さんのお役に立てるはず)
二か月も続いた特訓の末、紗希は何とか頬へのキスなら動揺せずに受け入れられるようになった。リムジンから降りる瞬間が近づくとともに、紗希は息を整える。
「いこう、紗希」
「はい」
二人は手を重ね合わせた。