静かな夜更けのような静寂が廊下に広がる。濃い赤色の絨毯が敷き詰められているせいか、パーティー会場の声は遠い。
紗希は離れない篤の手に目を向けた。美しい手には力が入り、男らしい節くれだった指先はわずかに震えている。
篤の手から感じるのは、強い動揺と後悔だ。
「どうして。どうしてなんだ」
虚ろな声で篤が呟く。
「君は何時も成功する。僕がどれほど役者として成功し、学園で認められ、褒めそやされても、君は何一つあきらめなかった。篤が頑張っているから頑張れるるなどと言いきった……」
篤の頬にあふれ出した涙は演技ではなく、彼本人が流した涙のように感じられた。
「僕だって最初は君との会話も、勉学も、楽しかった。幸福だった……! だが努力すればするほど渇いていった! 君に力を吸い取られるように……」
昇吾は目の前の男が語る言葉が、信じられなかった。
篤の役者としての成功は、これ以上ないものだ。テレビどころか、インターネットですら彼の顔を見かけない日はない。
彼の作品は多くの人の心を動かしている。昇吾も、そのうちの一人だ。
「『回想エトランジェ』……」
「え?」
「俺が初めて見たお前が主演の映画だ。恋愛映画で、海外から不法に日本へ入国した女性を、ひょんなことから匿ってしまったバンドマン役……」
あぁ、と短くうめくように篤が頷く。
「覚えている。どうして僕はこんなにも、昇吾に執着しているんだ。演技に打ち込んでも、何をしていても、気が付くと昇吾のことを考えていた……そんな時期だった」
紗希の肩に食い込んでいた篤の手が、わずかに緩んだ。彼の手の動きを見ながら、昇吾は会話を続ける。
「あの映画を見たとき。俺はお前を心底すごいやつだと思った」
思いもよらないことを言われた、と言いたげに篤が目を見開く。紗希の肩を握っていた手から完全に力が抜けた。
「たとえそれほど成功していても、自分に満足できない気持ちでいっぱいだった俺にとって……あの映画は別の答えをみせてくれたんだ」
紗希はそっと、篤のそばを離れる。しかし篤は反応せず、昇吾にくぎ付けになっていた。
「別の答えって?」
「人は、誰かのために不幸になれる」
紗希は思わず、昇吾の手を強く握りしめていた。
昇吾と約束したように、どんな未来を自分が思い描きたいのか、もっと考えたい。
真琴との関係、蘇我家との関係、変えていきたいものは山積みだ。
それから自身に、ひょっとしたらあるかもしれない死の刻限。5年後、自分は本当に生きているのか……。
でも。抱えている不満足が他人を傷つける感情に変わってしまうのなら、紗希は今のままを受け入れることも考えていた。
たとえ死が待つ未来であっても、昇吾のために、多くの人が幸せになるために、悪女として生きる選択肢だって考えている。
しかし。誰かのために自分が不幸になる。そんな選択肢を昇吾が持っていたなんて、想像もしていなかった。
「だからこそ分からないんだ、篤。どうしてお前は、紗希を不幸にする行動をとれるんだ? 演技だったとしても、君は紗希が好きなんだろう!?」
声を荒げていく昇吾の目にも、涙が光っている。
そんな昇吾の姿を見た篤は、驚きに丸くしていた目を伏せた。
「……あの映画を撮り終えたあと。俺は両親からのすすめもあって、休暇を取った。でもその最中に、自分が何をしたいのか、これからどうなりたいのか、何も分からない状況が苦しくて……気づいたら、防波堤の上にいたんだ」
彼の目に浮かんだ涙とは正反対に篤の唇が吊り上がり、ものすさまじい笑みを浮かべる。
「そこで紗希ちゃんに救われて、全てが変わると思えた。紗希ちゃんは僕だけを見てくれた。ライバルになるような人間でも、才能あふれた男でも、白川家の長男でもなく、僕の心に寄り添おうとしてくれた……!」
篤の目が紗希を見つめる。あの、どこを見ているともわからない、深くて暗い目つき。
「仕事に復帰してから、紗希ちゃんに連絡を取ろうか悩んだ。でも僕はこう考えたんだ。あんなにも優しかった君に見合うような人間に、僕はまだなれていない、って」
「でも。全く会わなかったわけではありませんよね?」
気になっていたことだった。改めて日記を読み返したところ、紗希は確かに篤と再会している。
だが、篤からは特に会話もなく、ごく普通の会話をして終わったのだ。
「そうだね。白川家の長男として、君と正月に会う機会もあったよ。だけど……紗希ちゃんは、青木昇吾の婚約者になったというじゃないか」
昇吾は呻くような声で言った。
「まさか。それで声をかけないことにしたのか?」
「それで? とんでもないことだったんだ、僕には!」
吠えるように言う篤に対し、紗希はびくりと身をすくめてしまう。
(篤お兄さん……こんな風に感じていたなんて……)
篤はさらに声を荒げた。
「両家の思惑が絡む結婚と聞いていたが、壮絶なショックを受けた。でもおかげで、何もかもを忘れようと俳優業にのめりこんだよ。誰からも否定されない存在になろうと決意した!」
「そこまで想っているのに、紗希へ連絡を取ろうとは思わなかったのか? 本当に?」
昇吾は釈然としない思いで尋ねた。そこまで紗希に想いを傾けているのなら、一度くらい、紗希を励ますような言葉をかけてもいいはずだ。
紗希の本当の姿を見ようともしなかった昇吾と違い、篤は間違いなく、紗希の優しさを身に染みて分かっているのだから。
篤はハッとした表情を浮かべた。
「……そうだね、どうしてだろう……」
しばらく考え込む様子を見せた後、彼は遠くへ目をやった。