最後の一線を越えられた、と紗希は思う。
会場で語った篤との在りし日の思い出さえも、もはや紗希に優しさを思い起こさせることはない。
「何のこと? 誰にそそのかされたかは知りませんが、私はあの記事が原因で会社で不埒な行為を働く人間とされ、クビになったんです……! 昇吾さんが迎えに来てくれなかったら、私は路頭に迷っていたばかりか、もっとひどい目に合っていたかも……」
「その時は僕に連絡を取ればよかったじゃないか」
あまりにもあっさりと言い放った篤に、紗希は不気味な存在を見るような目を向けた。
海辺で笑っていた篤と同一人物とは、到底思えない。
記事について全く否定しないのなら、篤は本当に紗希を手に入れるために情報を流したということ。
たった今、壇上で語った自身が大切にしている人とのつながりを断ち切るような行為だ。
「どうして……!」
言い返そうとしてゾッとする。篤の目は紗希を見ているが、どこか遠くを同時に見つめているように感じられた。
夢でも見るような、虚ろで緩やかな目。
「言っただろう? 僕は君を手に入れる、必ず、どんな手を使っても。あのホテルも僕が今ではオーナーなんだ……一緒に釣りに出かけて、朝食をとって、二人で静かに暮らそう。誰にも邪魔はさせない」
囁きかける篤に、どんどん距離が詰められていく。
(昇吾さん……!)
咄嗟に頭の中で紗希は、昇吾の名を叫ぶ。
「紗希!」
返事が来たことに、紗希は呼んだ側ながら驚いた。篤がハッと顔をあげる。
均がトイレへの入り口付近にパーテーションパネルを置き、こちらに人が来ないように手配するのが見えた。
「篤。紗希を離せ」
低い声で昇吾が告げる。今まで聞いたこともないような怒気を孕んだ声に、紗希は目を見開いた。
大股で近づいてきた昇吾は篤の腕をつかみ、紗希から引きはがそうとする。
だが篤の指先が、強く、紗希の肩にめり込んだ。肩から首を覆う華奢なレースがゆがみ、糸の切れる音が響く。
「篤……!」
懇願めいた響きの声で、昇吾が篤の名を呼ぶ。紗希は肩に走る痛みに耐えながら、必死に昇吾の手に縋った。
「……どうしてお前なんだ?」
泣き出しそうな声で、篤が言う。
三人の間に交わされる視線は、どうしようもなく虚しさを孕んでいた。